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放浪のエル  作者: ゆう
第三章
89/108

八十七



「エル!」


 座り込む私の名を呼んで駆け寄ってきたのはルトだ。目もしっかり見えているようで、開かれた緑色の瞳は私と――それからもう息の無いメイドの姿を映している。

 

 ルトは一瞬口を引き結んだものの、すぐさま気を取り直して険しい顔で私に手を伸ばしてきた。それを取って立ち上がる。



「お疲れ様、って言いたいところなんだけど、ちょっと厄介なことになっていてね」


「周りの大群だろう。どうなった?」



 ここにルトが来たということは、シンディは兄妹と共にそちらへ向かったか。確かに魔術具に対抗できて戦力としても申し分ない彼女がいればいざという時の助けになるはずだ。

 

 まずは話し合いができるといいのだが。

 そう思ったが、ルトの次の言葉で私の考えは一変する。



「あの大群はこの領地の兵士たちで、魅了の魔術がかかっているみたいなんだ」


「魅了、だと……?」

 

 

 魅了の魔術とは、男でも女でも使い手はいるらしいが、主に異性を虜にし強制的に言うことを聞かせるという精神干渉系の魔術である。洗脳と言ってもいい代物だ。

 

 広く存在が知られている割には適性がないと扱えない魔術なので滅多に見ることはない、はずなんだがな。


 おそらくどこかに術者がいて、その人物が兵士たちを操っているのだとルトは言う。


 

 魅了がかかった人間は術者と同じ魔力を帯びるのか。だから魔力感知で見えたのだな。と、一人納得しながらも気分がどんどん降下していくのを感じていた。

 

 だって、そうだろう。兵士のほとんどは男である。術者が異性だというのなら、今回あの大群を操っているのは確実に女だ。

 今現在姿が見えず、本人がどんな魔術を使うのか私も知らない女が一人いるじゃないか。



「レイランか……」



 まさかあの女がこの数百という兵を魅了し従えているというのか。なんて悪夢だ。


 思わず頭を抱える私に、ルトは更に言葉を続ける。



「僕が覚えている術式を使えば一気に解決はできるんだけど……魅了にかかっている人自身に魔力が逆流しちゃうから、きっと殺しちゃうんじゃないかと思って」


「大惨事だな」



 それをさらりと言ってのけるところはどうかと思うが、きっと本当にできてしまうこともわかっている。その場合、術式を使うのは私なのだろうが。


 

 私もシロの魔法を使えば数百を相手にすることなど造作もない。実際に大群との戦闘は魔物相手には何度か経験しているのだし。むしろ私はそちらの方が得意かもしれないとまで思っている。

 

 ただし、相手を殺して良いのであれば。


 流石にこの数の操られた兵士を殺すのが悪手だということくらい私でもわかる。いくら王族の権力の一部を与えられているとは言っても、そんな大量殺人が許されるはずがないからだ。

 下手したら国を敵に回すことになってしまう。これから一生お尋ね者だなんて私は嫌だぞ。



「うん、確かに厄介だな」


「術者を見つけるのが一番なんだけど、どう?」



 言われて魔力感知で辺りを見渡してみる。しかし、やはり同じ魔力が数百と蠢いているのが見えるだけで、そこから一人を探すことは不可能だ。


 そもそも魅了はこんなに広範囲に影響のある魔術では無かったはずなのだが。術者の姿が見える範囲でのみ効果を発揮するものだと聞いたことがある。


 それが、なぜここまでの大群になっている?


 考えられるとすれば、ルトの術式にもあるような増幅や何かで一時的に魔術が強化されている可能性。確かにそういう魔術具があっても不思議ではないと私は思う。

 先程部屋にいた時に感じた痛みの正体もまだわからない。あの感覚があったということは何かしらの魔術具が使われているはずなのだが。今はそれを特定する材料が無さそうだ。





 私は一先ず首を横に振って術者が見つからないことを告げる。

 そうだよねぇと気の抜ける返事を聞きながらまた思考を巡らせていると、不意に、ドォオン!!と地面が揺れるほどの大きな音と衝撃があった。


 音のした方へと目を向ければ、この屋敷へ続く一本道の緩やかな坂道の途中に地面から突き上がったと見られる大岩が空に伸びているのが見える。あれはアスハイルの魔術だ。

 続けて竜巻のような渦が立ち上るのが見えたり、周囲の植物が異常に急成長したり、とシンディやネルイルも一緒に応戦しているのが見て取れる。


 当然だが、魅了で操られた人間と話し合いなど不可能だったようだ。


 

 高い塀に囲まれた屋敷の敷地は、正面の坂道を通って門を潜る以外に並の人間が侵入できる経路は存在しない。だからその場所さえ守り通せればいいというのもわかるのだが、逆に言えばそこを突破されれば数百という兵士がこの場所に雪崩れ込んで来てしまうのだ。

 

 そうなれば父の回復を待って話をすることもできなくなる。


 本当に、厄介だ。

 思わず深いため息を吐いて私は側に立つルトを見上げた。



「魅了を解く方法は知っているか?」


「うーんと、精神干渉系の魔術は、術者から意識を逸らすとか、強い衝撃を与えるとかは聞いたことあるんだけど実際に見るのって初めてだからなぁ……」



 要は全員死なない程度に殴ればいいのか。

 

 と、そんなことを考えていると、また坂道の方から大きな音が聞こえた直後、敷地の門が内側へ吹っ飛ぶのが見えた。

 

 流石に三人では数百を相手にするのは無理があったらしい。真っ先に飛び込んで来た三人が私たちを見つけてこちらへ走ってくる。



「エル!あの人たち、殴っても吹っ飛ばしても立ち上がって来ます!怖いです!」


「アンデッド系の魔物に近いわよあれ!」


「これ以上は死人が出るぞ!向こうに!」



 どうやら殴って正気に戻すのも無理そうだ。


 三人の後を追って門から雪崩れ込んで来た兵士たちは碌な装備もつけておらず、目が虚で、腕があらぬ方向へ曲がっている者までいる始末。それでも前へ前へと進む姿は確かにアンデッド系の魔物を連想させた。


 これが魅了だと?


 だとすれば、術者には人の心というものが無いのだろうか。どう見ても人を人とも思っていない所業である。クランデアの街で戦った魔王の方がまだ人間味があったような気さえしてくるから頭が痛い。


 

 それはさておき、これは国さえも脅かしかねない魔術だ。死をも恐れない軍隊を個人で持ててしまうのだから。

 今はまだこの規模でとどまっているものの、例えば国中の兵士を操れるようになってしまったら……考えたくはないがあり得ない話ではないところが恐ろしい。



 ともかく今は考える時間が必要だった。

 殺すのはダメ、殴るのもダメとくればあとは魅了の魔術を解く方法を見つけるしかないのだから。


 私は走ってくる三人の後ろにシロの魔力で結界を張って、一先ず合流する為にその場を移動した。





 庭の中央付近に五人で集まる。

 私が張った結界には押し寄せた兵士たちが大量に張り付いていて少し不気味なことになっているのだが今は見なかったことにしておこう。



「それで、何か案がある奴はいるか?」



 なんでもいい、と私が言えば、真っ先に口を開いたのはアスハイルだった。

 彼は人を眠らせることができる魔術をスイストンの街で使っていたはずだ。精神干渉系の魔術はこの中では一番詳しいとも言える。

 

 そんなアスハイルが何を言うのかと思えば、ただ一言。



「あれは無理だ」


「無理かぁ……」



 殺す以外に止める方法がない。つまりはそういうことである。


 やはり兵士にかけられている魅了の魔術が通常のものとは異なるのだ。これでは本来の方法が通用しない。

 精神が破壊されずに残っているかも怪しいところだ。例えなんらかの方法で魅了を解くことができたとして、その後に元の人格に戻るのかもわからない。


 それほど強い魔術だ、と語ったアスハイルの言葉に私たちは黙らざるお得なかった。



 何か。


 何か、ないか。


 兵士たちの命を奪うのではなく、蝕まれた精神を元に戻し、その体内に深く入り込んでしまった魔術だけを解く方法。



 そうして私たちが唸りながら考えを巡らせていた時だ。

 

 不意に、降ろされたフードの中からひょこりと顔を出したシロが言った。



「あれを使えばいいだろう」



 広げられた羽で指し示されたのは屋敷の上空。今は制御しているから目には見えない、母の術式。


 見上げる私のすぐ側で、当然のようにそれは告げられる。



「エル。お前なら、奴らの時を巻き戻せる」



 思わず息を飲んだ私は、咄嗟に言葉を口にすることができなかった。



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