八十六
屋敷にあった術式を制御できるようになったおかげで魔力感知が使えるようになったのは良かった。良かったが、これはいったいなんなんだ。
「百……二百……いや、もっとか……」
それが何かまではわからない。しかし、明らかに魔力を持った大群がこの屋敷に向けて進行してきている。
例の犯罪集団の構成員か?
シャンデンの街で襲撃してきた男から得た情報では、奴らが南に集まっているとあったはずだ。それがこの辺境伯領に潜んでいたということだろうか。
しかし、奴らはそのほとんどが魔力を持たない平民だという。ならば私の魔力感知でこうして見えるはずがない。この全員が魔力を宿した魔術具を持っているとなると話は変わってくるのだが……
「姉様、どうかされましたか?」
肩に手を置いて正面から向き合っていたリオが、急に黙った私の様子に不思議そうに首を傾げている。
あの大群が敵か味方か……少なくとも、リオに危害を加える可能性がある連中か否かがわかれば良いのだが。わからない以上は最悪を想定して行動するべきだろう。
そう判断した私はリオから目を逸らし、側にいたアスハイルとネルイルを見やる。それだけでただならぬものを感じたのか、二人の顔が険しくなった。
「四方から何かの大群がこの屋敷に向かってきている。数は数百。詳しくはわからないが、敵と見て備えたい」
「お前が見えるってことは魔力持ち……いや、魔術師がそれだけの数集まっているとは考え難いな。魔術具か」
話が早くて助かるな。
おそらくと頷いた私に、今度はネルイルから魔物の可能性はあるかと問いが飛んでくる。
見える魔力は全て同じものなのでそれも無くはないと思うのだが、この統率の取れた一定の動きは魔物というよりは訓練を受けた兵士と言われた方が納得できる。
それに、この辺りは自然は豊かだが魔物の生息自体は少なかったはずなのだ。五年が経ったところで生態系が大きく変わっているとも思えない。
だから答えは否。この大群は魔物ではない。
「二人は外へ。対話のできる奴らだとすれば教会の人間がいた方がいいだろう。無理そうならルトやシンディも巻き込んで撃退してくれて構わない」
「軽く言ってくれるわね。撃退って言っても数百なんて数相手にしたことないわよ」
わかったと頷いたアスハイルとは対照的に弱気なことを言うネルイルだが、壁に立てかけていた杖を持ってきて兄の横に並ぶ姿はやる気に満ち溢れている。これなら心配は無さそうだ。
そうして今度は再びリオを見る。
目が合うと、先程まで浮かべていた涙は引っ込めて自分にも何か手伝えることはないかと力強い声で聞いてくるのには驚いた。
経験したこともない事態に恐怖だって感じているだろうに。この歳でそれが言えるとは。妙に肝が据わっている子供である。
しかし、リオは戦えない。
魔術の才は無く、剣を扱う人間の手をしていないこともわかっている。役に立つとすれば唯一使える転移の魔法だけであるが、それはできれば自分の身を守るために使ってほしい。
「リオはこのままその人の側にいてやってくれ。流石にまだ動かせないからな」
それでもし敵と思われる奴が入ってきて、危険と判断した場合は自分だけでも逃げること。そう告げればリオは少し不満そうにしながらも、口を引き結んで頷いた。
それでいい。リオに何かあったらそれこそ私の今までの葛藤が無駄になってしまう。
この家の立て直しすら危うくなってくるだろうし、そうなると私がここへ来た目的の一つが果たせなくるかもしれないからな。
だから今はリオと、ついでに父の安全を確保することが最優先。
私はリオの背を押して父の眠るベッドの側に追いやると、念の為シロの魔力で結界を張って囲っておいた。これで魔術も物理もある程度なら耐えられる。流石に魔力を掻き消す道具には弱いので気持ち程度のものではあるが、無いよりはマシだ。
気を失っている執事は部屋の隅に転がしておいた。犯罪集団に加担したのにも何か訳があったように思えるので、全て終わった後話ができる状況になったらその時は改めて釈明を聞いてやろう。無事だったら、の話だが。
「エルはどうする?」
「ああ、私は――」
アスハイルの問いに、開きっぱなしだった部屋の扉の方を見る。吊られて兄妹もそちらを見て、息を飲むのが伝わってきた。
そこには、血まみれのメイドが壁に寄りかかる形で立っている。
利き手ではない方の腕を切断したか。あの状態でその選択ができる精神力だけは見事である。しかもあの杭から抜け出せたということは、そこから魔術具を使ったか。その執念はいったいどこから湧いてきているんだ。
血を流しすぎて立っているのがやっとといった状態だろう。あのまま大人しくしていればもう少しは長く生きられたかもしれないのに。
戸惑いながら私を見る兄妹には行けと目で訴えて、メイドの横を通り部屋から出ていく姿を見送った。
手を出してこないところを見ると、やはり目的は私だけ。
「安静にしていなくていのか」
「どうせ……長くは、保ちません、から……」
言葉に力はない。目も合わない。こんな状態でよくここまで来られたものだ。残った方の手でかろうじて持っている剣もカタカタと震えている。
戦いにすらならない。
それがわかっていながらも私は剣を手に取った。
情報を引き出すとか、同情とか、そんなことはもうどうでもいい。
どんな事情があるにせよ、ここまで熱心に追いかけられて悪い気はしなかった。優秀な暗殺者を相手にできることは心から光栄だとすら思う。それがこのメイド――ミリアだからこそ、余計に。
くらり。頭の位置がブレる。
そんな倒れるような動作から、力強く踏み締めた足で床を蹴りそのまま部屋の中に飛び込んできた。酷い怪我を感じさせない動きに私は思わず笑みが浮かぶ。
「すごいな。ミリアが戦えること、もっと早く、知りたかったよ」
そうしたら。
一緒に鍛錬もできたかもしれない。お互い抱えているものを共有できたかもしれない。もっと話ができたかもしれない。これからも共に過ごせたかもしれない。友人にだってなれたかもしれない。
わかっている。全ては夢物語。
私たちはこうなる以外に道はなかったのだと思う。
だからこそ、今私自身の手で、終わらせよう。
がむしゃらに振り回される剣を自分のそれで受け止めながら、私は少しずつ後ろに下がっていた。
腕が片方しかないから剣を持つと他に道具を取り出すことできなさそうだ。彼女らしいキレのある動きももうどこにも残っていない。
開いたままの窓のところまで追いやられ危機を察知したのかリオの私を呼ぶ声が聞こえたが、問題はない。
剣を弾いた時にできる一瞬の隙をついて懐に飛び込む。そうして手足を強化して目の前の体を窓の外に投げ飛ばした。
空中に投げ出された体。浮遊感は感じ取ったのだろう。大勢を変えようともがいて、けれど上手くいかずに落ちていくだけの女を追いかける為に窓枠に足をかけ、そして。
迷いなく飛び出し、剣を、逆手に握る。
落下の速度に一瞬だけシロの魔力で作った翼の加速を合わせ、追いついた体の中心にそれを突き刺した。
手から伝わってくる肉を断つ生々しい感触
魔物を斬るのとは訳が違う。
自分と同じ形を持つ人間の、そして短くも同じ時を過ごした者の、その命を奪う感覚だ。
赤が舞う中を共に落ちる。
二人分の重さを携え地面に叩きつけられて、全身の骨が砕ける音を聞いた気がした。
私は血溜まりの中に沈むメイドの横に腰を下ろした。
しぶとくもまだ息がある。けれどもうこれが本当の最後だから。同じ空を見上げて、結局彼女の口からは聞けなかった事実を問う。
「お前の雇い主、アースフォード家の人間なんだろ」
それはリオとその母親であるレイランの元の家名である。
ミリアは両親を失った後拾われたと言ったが、それは父ではないと私は思うのだ。
アースフォード家と父との間にその頃から繋がりがあったことはリオの存在が証明している。そんな父が私を疎んでいなかったのだとすれば、アースフォード家の人間が父を通して暗殺者を送り込んできたと、そう考えるのが妥当だろう。
当然だか返答は無い。
仕方ない。あとは未だに姿を現さないレイランに聞くとしよう。
そう決めて、私は突き刺さったままの剣に手をかけた。
「お勤めご苦労様。今までありがとう。……さようなら」
――さようなら、ミリア
剣を引き抜くと再び血が溢れ、そうして女はついに動かなくなった。




