八十三
これは、三年と少し前。
いつものように書庫に篭っていたら、気付けば外は真っ暗になっていた。
持ち込んだランプの灯りを途中で付けたことはかろうじて覚えている。けれど時間なんて気にもしていなかったなと私はようやく広げていた本たちを片付け始めた。
夢中になりすぎると周りが見えなくなるのは私の悪い癖だ。どうせ誰にも迷惑は掛からないと知っているからかいつも生活自体が疎かになってしまう。
流石にそれが良くないことはわかる。いつか父の跡を継ぐ時も、自分の管理すらできない人間に務まるとは思わない。いい加減少しは見直さないといけないな。
ランプを持って書庫を出た私は、自室に戻る為暗い廊下を静かに歩いた。
窓から見える空には明るい月。今日は特に綺麗に見える。
通りで空気が冷たいわけだ。ここはまだ屋敷の中だから良いものの、外は凍えるほど寒いに違いない。
今夜は温かくして寝よう。
そう思いながらその扉の前を通った時だった。
――音が、聞こえる。
扉の向こうから微かに聞こえた綺麗な音。
それはひとつではなく幾つもが繋がり、ゆったりとした音楽を奏でている。
舞踏会で使われる曲はダンスの練習で何度も耳にしているのにそのどれでもない。それどころか今までに一度も聞いたことがなくて、けれどどれよりも心に響いてくる柔らかくて優しい曲だった。
私はランプを消して、音の聞こえてくる扉に手をかけた。
ゆっくりと開いて静かに身を滑り込ませれば、シャンデリアが灯っていて中は非常に明るかった。
そんな広いダンスホールの隅に置かれたチェンバロ――いや、あれはピアノと言ったか。飾り気のない木製のやたら大きな楽器が見える。
その見た目は本に乗っていたチェンバロにそっくりだが、最近になって新しい楽器として一部の貴族の間で話題になっているものだった。
母が気に入ったとかで、数日前にこの屋敷にもやってきたばかりである。
扉からピアノまでは残念ながら距離があってよくは見えないが、弾いているのは当然母だろう。やってきたばかりの新しい楽器をもうこんなにも弾きこなしているなんて驚きだ。
それに、弾いているのはあの厳しい母とは思えないくらい、温かくて、優しい曲で。
私は気付かれないようにと近くにあったテーブルの下に身を縮こまらせて、聞こえてくるその音色にしばらく耳を傾けていた。
それは、ミリアがこの屋敷にやってくるほんの少し前の出来事。
そんなピアノは、もうそこには無かった。
ぼんやりと佇んでいる私に気付いてか、体を起こしたミリアが笑う。その声は広い空間では耳障りなくらいによく響いた。
「なぁんだ。やっぱりまだ母親が忘れられてないんですねぇ」
「そこにあったピアノ、どうしたの」
「ああ。あんなもの、邪魔なだけだと奥様が処分なされていましたよ。思い出の品でしたか、ざーんねん」
「…………そう」
思い出の品。そう言われてみれば確かにそうだったかもしれない。
あれはこの屋敷にいた頃の中で一番まともな母の記憶。私の知らない母の一面が垣間見える瞬間だった。あの時から度々目撃したその光景は、今でも鮮明に私の記憶に残っているくらいに。
でも、そうか。
もうあの音色を直接聞くことはできないのか。
思い出に浸る私の隙をミリアも見逃す筈はなく、また音もなく飛び込んできたところを目だけで捉えて魔力を広げた。
剣が私に届く直前、直接その腕を貫いて生成された幾つもの杭に、薄暗い空間に鮮血が散る。
声にならない叫び。
流石にここまでに溜まった疲労で直感が鈍っていたらしい。避けられることなく杭は両腕と両足とを貫き、その場に縫い付けられたミリアの両手から剣が滑り落ちていく。
新たな魔術具を取り出すこともできず、なんとか逃れようと踠くと光の杭は更にその肉を断ち痛みから悲鳴が上がっていた。
その姿を見ても私の心が今更痛むことはない。
やがて逃げられないと悟ったのか脱力したミリアの側に寄ると、私はその薄く開いたままの目を見上げて口を開いた。
「誰の差し金?」
この辺境伯家へやってきたこと。私を売り飛ばしたこと。生きていると知ってわざわざ殺しに来たことも。全ては繋がっている筈だから。
答えなんてとっくにわかっていたけれど、それでも私は問いを投げかけた。
当然ミリアはその答えを返さない。
代わりに語られたのは、先程の私の言葉に対する思いである。
ミリアがいてくれてよかったと。ありがとうと告げた私を彼女は可笑しそうに笑い飛ばす。
「私は、最初から、気に食わないお嬢様だと思っていたんです……両親に見向きもされないくせに、独りで平気そうな顔をして……いつも、いつも……」
自分もそうだった、と。
幼い自分より冒険者としての仕事を優先する両親。おかげでそこそこの金はあったから貧しい暮らしではなかったものの、家はいつも静かだった。
朝起きて挨拶をする人もいない。食事の席はいつも一人。日中街に買い出しに出かけると、その賑わいに馴染めず取り残された気分になる。両親はたまに帰ってきたけれど、仕事の話しかしなくて。寝る前におやすみと言い合ったこともない。
気分転換に髪を切ってみても、新しい服を着てみても、少し背が伸びても、気付いてくれる人なんかいなくて。
そのうち、耐えきれなくなった。だから。
良い子でいるから放っておかれるのだ。
ふと、そんな思いに至ったのだと。
暗殺業は良い。全ては自分の実力で決まるから。
より確実な働きには相応の対価が返ってくる。こちらが呼びかけなくても仕事の方からやってくる。
そうして思うのだ。
自分は今、必要とされているのだと。
両親が死んだところで何も感じなかった。
結局最後まで娘のことは眼中にない人たちだったなと思ったくらいである。だが、娘が暗殺者になっていることすら気付きもしないで死んだことは幸せだったんじゃないだろうか。
本当の意味で独りになった自分を拾う人がいるなんて思いもしなかった。
その人は自分が暗殺業を営んでいることを知っていた。
そして、ひとつだけ仕事を授けたのだ。
それが――
「貴女の暗殺、ですよ」
しかし、やってきたお屋敷でその子供はいつも独りだった。自分と同じだと思った。同情すらしてしまうくらいに。
なのに、その子供は本を読むことが何よりも好きで、剣術も魔術も勉強すら何もかも楽しそうにこなしてしまう。誰かに褒められることもないのに。独りを苦にも思っていない顔をする。
自分の生き方を否定された気がした、と。
だから、ただ単に殺すだけでは気が済まなかった。
その自信を全て砕いて絶望の淵に追い込んで、そうして死んでいけばいい。そう思って、あんな手間のかかることまでしたというのに。
「どうして生きてるんですか……その化け物じみた力はなんなんですか……なんで、今更……」
母親の面影を探すような、そんな寂しそうな顔をするのか、と。
ミリアのその語りの中に混じる笑いが自分に向けたものなのか、それとも私に向けられたものなのか。本人すらわかっていないんじゃないだろうかと思いながら私は彼女の話を静かに聞いていた。
そこから声は徐々に小さくなり、やがて言葉は途切れ、ミリアは完全に意識を飛ばす。
白く輝く杭に貫かれ、だらりと脱力する血まみれのメイドは、どこか神聖な気配を漂わせているのがなんとも不思議な感覚だった。
まだ息はある。今のうちに殺してしまった方がいい。
そうは思いながらも実行できないでいるのは、まだ何も情報を引き出せていないからか、それとも同情からか。正直私には判断ができなかった。
そんな時、静かなダンスホールに飛び込んできた男がいた。
私を見つけて駆け寄ってくるのは、体のあちこちに青い痣を作ったアスハイルだ。どうやら彼らの方もそれなりに大変なことになっていたらしい。
やってきたアスハイルは私と意識のないミリアを交互に見て、戸惑いながらも口を開いた。
「こんな時に悪いが、エルに頼みがある。一緒に来てくれなか」
「……何かあったのか?」
姿の見えないネルイルに何かあったのだろうか。
そう、思ったのだが。
次にアスハイルの口から出てきたのは思いもよらない事実だった。
「辺境伯――お前の父親が、危ない」
踏み出しかけた足が、止まる。
「今ネルイルが付いてはいるが……あれはおそらく、エルにしか助けられない」
それは――
そもそもこの屋敷内にいたのかとか、探せと言ったはずのレイランはどうしたんだとか、聞きたいことはあったけれど。
それを問うことも、すぐに動き出すことも、今の私にはできそうになかった。




