八十一
外観を気にしたことがなかったからか、その屋敷が見えてきた時に私はみんなと同じようについついそれを見上げて驚いてしまった。王都の城ほどではないだろうが、今まで巡ってきた街でもこの規模の屋敷は見なかったから。
麓の街を見下ろせる小高い場所に建つ立派なお屋敷だ。遠くからでもよく見える。こうしてまじまじと見るのは本当に初めてだったので、街に入り馬から降りても驚いている私に「なんでお前が驚いてんだ」とアスハイルの苦笑混じりの声が飛んできた。
仕方ないだろう。前はこうして屋敷を見上げることすら無かったのだから。
麓の街から屋敷までは緩やかな坂道が繋がっていて、私たちはその手前で警備の兵士に止められていた。ここから先は辺境伯家の紋の入った馬車か、事前に連絡のあった者しか通れないのだと。
だからとアスハイルが珍しく自分たちは王都の教会の遣いであると名乗りを上げていたけれど、それでもすんなりとはいかないようで。確認すると言われ私たちはそこでしばらく待たされることになった。
「私のペンダントを見せた方が楽なんじゃないか?」
これは王族の権力の一部を与えられた証である。見せれば楽にとまではいかなくとも確実に当主との面会が叶うのではないだろうか。
積極的に出したいものではないのだけど、使えるなら使えばいいのにと軽く言う私のその言葉に兄妹は良い顔をしなかった。
「その特権は持ってる奴にしか適用されない。お前だけ入らせるわけにはいかないだろ」
「それに、あんまり出さない方がいいわよそれ。貴女が持ってるって知れば兵士たちには国に報告する義務が生まれてしまうもの。私たちも動きづらくなるしね」
なるほど。監視とはそうやって成り立っていたのか。
聞けば兵士に限らず爵位を持つ貴族や騎士団、もちろん教会の人間にも課される義務だと言うが、二人がそんな報告をしているところを旅の最中でも見たことがない。あるとすればスイストンの街で青い騎士のサフに教えていたくらいだろうか。
まあ、その理由も、動きづらくなるという先程の言葉の通りなのだろうけども。
しばらくして、戻ってきた兵に許可が降りたことを告げられ私たちはようやく屋敷へと続く緩やかな坂道を登り始めた。
馬までは許されなかったので仕方なく徒歩である。
坂道の周囲はよく手入れされた草木が規則正しく並んでいた。
前に馬車で通った時は全く気にもしなかったものが、こうして歩くと鮮明に目に入ってくる。
麓の街からこの坂道も、そして屋敷の周辺や庭も、よく見れば緑の多い自然豊かな土地である。自分がこんな場所に住んでいたことすら知らなかった。
「エル。ルトの様子が……」
不意に側に来たシンディに言われ振り向くと、ふらふらと歩くルトの姿が目に入る。フードを被っているので顔は見えないが確かに様子が変だった。
近くに寄って軽くローブを引っ張ってみるとルトは閉じた瞼をほんの少し開いて私を見る。
見えているのかいないのか……いや、これだけふらついているのだからきっとほとんど見えていないのだろうなと思いながら、どうかしたのかと問えば、眩しくて目が開けられないと返ってくるから驚いた。
どうやら屋敷にあるという術式のせいでルトの目には建物全体が光って見えているらしい。
私も興味本位で魔力感知を試してみたらカッと一瞬強い光が瞬いたのですぐに止めた。一瞬とはいえ頭が痛くなるような強い光である。これが見えていたら目が開けられないというのも仕方がない。
そんなルトを放っておくこともできないので、彼のことは横で心配しているシンディに事情を説明して頼んでおいた。
光の強さと魔術の強さは必ずしも比例するものではないけれど、ルトの様子を見るとこの屋敷にある術式は相当大きく協力なものなのかもしれないと思わされる。その魔力が土地にまで広がっているのも納得できるというものだ。
そうして緩やかな坂道を登りきると、屋敷を囲む高い塀と丈夫そうな立派な門、そしてそこに佇む兵士の姿が目に入ってくる。どうやら下の兵士が話を通してくれたようで、私たちが到着するとすぐさま門が開けられた。
「ようこそおいでくださいました」
門の向こうで私たちを出迎えたのは細身の執事。
白髪に整えられた口髭、歳は確か父よりも上。五年前は父の側で働いていた使用人だったから、見覚えはあるものの私は一度も話したことがない男だった。
「話は通っているな?」
「はい。しかし、申し訳ありませんが只今旦那様はお客様との面会が難しく、代わりに奥様が対応されるとのことでございます」
「……何?」
父が出てこられないだと?
アスハイルと執事の会話を聞きながら、思わずフードの下で目を細める。
教会の人間が訪ねてきたことは伝わっているはずだ。騎士団よりは権力の弱い教会だが、それでも国の治安維持を任されている機関であることに変わりはない。そんな者たちの訪問に当主自らが顔を出さないとはいったいどういう了見か。
しかも代わりに出てくるのが妻であるレイランというのも可笑しな話だ。私たちは世間話をしに来たわけじゃないんだぞ。
しかしそれを言って追い返される自体だけは避けたいので、不審に思いつつも私たちは案内されるがまま屋敷の中に足を踏み入れたのだった。
「可笑しいわよね、どう考えても」
「ああ。屋敷に入ったは良いが話をするって雰囲気じゃねぇよな」
静まり返った応接室。あまり広くはないその部屋には大きなテーブルと、それを囲む椅子が綺麗に並べられている。
その他には飾り気がほとんどなく、壁に簡素な花の絵がひとつかけられている程度だった。全ての窓はカーテンが閉まっていて明かりも付いていない為かなり暗い。
そんな部屋に通された私たちは、ばらばらと適当な椅子に腰掛けて女が来るのを待っていた。
ルトは相変わらず目が開けられないようで、シンディに手を引かれていないと歩けもしないような状態だ。こちらも早くなんとかしたいというのに待てども待てども女どころか人っ子一人現れず、そのまま時間だけが過ぎていく。
そして、その時は突然訪れた。
ノックの音が四回。静寂を裂くように響き渡る。思わず顔を見合わせた皆の顔はどれも険しかった。
扉の向こうに気配が無いのだ。
それどころかノックの後に扉が開く様子もない。
屋敷にあるらしい術式のせいでルトの目も私の魔力感知も全く使えない状況というのは、案外厄介かもしれないなとこの時になってようやく思う。
そうしているうちに扉とは反対側――つまりは私たちの背後に突如として現れたその気配。
真っ先に振り返った私の体に流れた痺れるような軽い痛み。
目が使えないルトの頭をぐいと押さえつけテーブルの下に避難させ、私はそのまま飛び出すと飛んできた何かを剣で弾いた。硬いものが床に落ち、カランカランと鳴った高い金属音が耳につく。
「随分な歓迎じゃないか」
テーブルの上に遠慮なく土足で上がった私は、剣を持ったままそこにいた人物に声を投げかけた。
見覚えのあるメイド服。茶色い髪を後ろで一つに編んでいた長い髪は今、肩の辺りで切り揃えられている。俯いていた顔が上げられると、その首筋から頬にかけて私も知らない酷い傷跡が残っているのが見て取れた。
ミリア・リーラント。その女である。
何があったかは知らないが、以前の余裕そうな表情も私を子供だと侮るような眼差しも無い。
あるのはただ真っ直ぐに向けられる殺気の篭った視線だけ。
「怒られてしまったんです。貴女のせいですよ、お嬢様」
「知らないな」
リオはミリアを屋敷の中では見ないと言っていたから戻っていないのかと思っていたが、どうやら隠れんぼが得意らしいな。今もいったいどこから現れたのか私には見当もつきそうにない。
だがしかし、何はともあれ探していた人間がこうもあっさりと出てきてくれるなんて、こちらとしても好都合。
さあ、あの時の決着を。
そう思いを込めて剣を向ける。
けれどミリアが私の挑発に乗ってくることはなく、薄っすらと笑った女は両手に何やら黒い絡まりを取り出してそれをこちらに放り投げてきた。
「なんの策もなく出てくるわけないだろばーか!」
投げられたものが空中で変形し、黒い塊だった形が網のように開いていくのがかろうじて見えた。
そうしてそれが紫色の光を発した直後、部屋中の壁に紫色の薄い膜のようなものが張り付き全体を覆う形となる。
どうやらまた知らない魔術具を使われたらしい。咄嗟に見渡してみても今のところ皆無事なようなので、直接人体に影響のあるものでは無さそうだ。そのことに一先ず安心する。
「これは結界です。あなたたちがここから出られたら相手をしてあげましょう」
そんなことを言うミリアはいつの間にか扉の――結界の外に立っている。今の一瞬で飛び出したのか。相変わらずせこい奴である。
一応魔力で生成した針を飛ばしても紫色の壁に当たるとそれは消失してしまった。どうやら魔力を通らない素材らしい。この分だと打撃の方もダメだろうなと予想を立てていると「まあ頑張って」と投げやりな声を最後に扉は再び閉じられた。
どうやら私たちと辺境伯家の話し合いは始まる前に破談したらしい。




