八十
辺境伯領へと入り、真っ直ぐに屋敷を目指して進んでいる間、ずっと体の違和感は感じていたのだ。
けれど、朝の時点では体調に問題はなかったし、そもそも旅を初めてからは一度も風邪すら引いていないのだ。久しぶりに父に会うのだから私も少しは緊張しているのかと思っただけでこの時は特に気にしていなかった。
それなのに、いつの間にかぼんやりとしていた私は、被ったフードの中で柔らかい羽に頬を軽く叩かれている感覚に気付きようやくハッと我に返る。
「あれ、私、今……」
「意識が飛びかけていたぞ」
そんな私とシロのやり取りに、当然アスハイルは馬を止めた。
一本道の街道を少し逸れた草原で馬から降ろされると、立っていることすらできずにそのまま座り込んでしまう。
次第に視界もぐるぐると回り始め、込み上げてくる吐き気にえずく私に流石に只事ではないと悟ったのか、仲間たちが近くに集まってきた。
みんなの心配する声が聞こえる中、一番に背に触れたのはネルイルだ。彼女は回復魔術も使えるからか多少の医学の知識を持っている。
フードを下されたかと思えば手首で脈を測られたり、正面から顔を覗き込まれたりとされるがままになっていると、すぐ近くでパキパキとした音が聞こた後に冷たい何かが首筋に触れた。
氷だ、と気付いた時にはもう体に力は入らず、ふらりと倒れそうになった私はそのまま草原に寝かされる。
「エルはどうしたってんだ……?」
仰向けに寝転がり、氷の欠片が額にも乗せられると少し気分が楽になった気がする。困惑した様子のアスハイルの声ははっきりと聞こえてきた。
「これは魔力過多の症状よ。でも、滅多に起こるものじゃないわ。それがどうしてこんな急に……」
魔力過多。
ああ、なるほど、これはあれか。
シロと出会ったばかりの頃、その魔力に体が耐えきれず何度も意識を飛ばしていたあれ。
だとすると意識があるだけ良かったとも言えなくもないのだが、ネルイルの言った通りどうして急にそんな状態になったのかが謎である。
シロの魔力に異常はない。体の中にある回路は今も正常に動いている。だとしたら原因はそれ以外だと思うが私には全く心当たりがなかった。念の為魔力感知で周囲を見ても不審なものは見当たらない。
仕方なく私はシロを頼った。私のことは私以上にシロが知っているはずだから。
舌足らずな呼びかけに応えてフードから出てきたシロは、おそらく私の額に置かれた氷の上に乗ったのだ。そこから声が聞こえてくる。
「原因はおそらくこの土地に広がる魔力だな」
「とち……」
この世界の自然物には大抵魔力が宿っている。空気も、地面も、海の水も、その辺に生えている草木や石ころですら。魔力感知で見ればそれは一目瞭然で、私が視界に頼らずとも地形を把握することができるのはその為だ。
しかし、それが人間の体に影響を与えるという話は聞いたこともない。
「エルと相性が良い魔力なのだろう。意識せずに自然と取り込まれているようだ」
シロの言っていることは理解できる。つまりは自然界から勝手に取り込まれている魔力が私の体内に溜まり続けているということだ。
それ自体は理解ができるものの、その機能は魔物特有のものではなかっただろうかという疑問が生まれてくる。
それに、前に暮らしていた時はなんともなかったじゃないか。あの時から変わったことと言えば、シロの魔力があるくらいで……
そんなことをぼんやりと考えていると、側で荷物をごそごそと漁る音が聞こえてくる。薄らと目を開けて見たそこにはルトがいて、彼はペンを走らせて何やら空中に術式を描き始めた。
「シロの魔力に反応しているんだ。すごく薄いから気付かなかったけど、この土地全体に術式が溶け込んでる。こんなの初めて見るよ」
と、描かれていく術式の文字列を目で追うと、私はその中に見知った名が刻まれていることに気付く。
――クラヴィア
どうして、その名前が。
思わず息を飲んだ私には目もくれず、術式を描き続けながらルトは言う。
土地に溶け込んでいる術式。この辺りはまだ私の魔力感知にも引っかからないくらいに薄いようではあるが、進行方向の先には同じ色の強い光が見えること。この状態のまま進めば間違いなく私の体が保たないこと。
「この術式を覚えて制御してしまうのが手っ取り早いと思うけど、どうかな。できそう?」
「……やる」
できるできないの話ではなく、やらねば進めないのであればやるしかない。
この熱に浮かされた状況で頭を使うのは少しばかりキツくはあるが、そうも言っていられないと気合いを入れて描き上げられた術式に目を向けた。
複雑な文字列だ。
クラヴィアという単語が所々に散りばめられているがそれ以外は高度な魔術用語の羅列である。
余程優秀な魔術師が作ったものなのだろう。見ただけでもそれがわかるくらいに、難解な印象を受ける術式だった。
しかし、読んでいけば自ずとわかる。わかりやすく整理された文字列はすんなりと頭に入ってくる。
難しく考えることはないと。見たままを覚えればいいのだと。そう言われているみたいに。
術式の最後まで目を通して、そこにも刻まれたクラヴィアの文字に私は思わず手を伸ばしていた。
触れても感覚は無いけれど。それでも手を伸ばさずにはいられなかったのは、その名前が死んだはずの母のものだったからだ。
「なんてもの残しやがったんだあの人……」
母がいったい何を考えていたのかはわからない。それでもこの土地に広がる魔力は間違いなく母のものだとこの術式を見た今ならわかる。
生前どこかに刻まれた術式は術者が死して尚発動し続けており、その魔力をこの土地に広めているのだと。
術式の本体があるのはおそらくあの屋敷だ。ルトに見えているらしい進行方向の光もきっとそれに違いない。
ともかくまずは制御を、と私は再び目を閉じた。
今覚えたばかりの術式を思い浮かべる。
それなりに長い文字列なのでそこから幾つか文字を抜き出して、自分のわかりやすい簡単な配置に並び替えていく。
必然的に入ってくる母の名前を意識しながらも、自分の内にあるシロの魔法陣と馴染ませるようなイメージを作り上げれば、ぽわんと桃色の光が一瞬瞼の裏に見えた気がした。
あの人の色だ。そして、私の色でもある。
光が消えると周囲に広がった魔力をようやく感じられるようになり、私は内の魔法陣を通して勝手に入ってくるそれを一旦堰き止めた。これでもう大丈夫。
体の熱と吐き気が徐々に引いていくのを感じて、安堵のため息を一つ。
「大丈夫そう?」
「……うん。ルト、ネルイル、ありがと。助かった」
アスハイルとシンディも心配させて悪かったな、と告げれば皆が「よかった」と言って顔を緩ませたのがわかった。
「何が起きているのかはわからないけど、どうやらこの地には死んだ母の術式と魔力が残っているらしい。こんなことになるなんて思わなかったよ」
「……まぁ、その幻獣の魔力はスイストンの街でも死者の魔力に干渉していたくらいだしな」
そういえばそうだった。
海に溶けていた氷の魔術師フィアリアの魔力に干渉し、シンディの持つ幻影魔術の術式を通して形を持った光が現れたことを思い出す。
あの時は魔力の持ち主の気持ちがアスハイルに向いていたから光も彼の元へ向かったのだと考えれば、今回はその行き先が私だったということだろう。
魔力過多を起こしたことを考えると、攻撃の意図があったようにも思えなくはない。
だとすると、私は母に憎まれていたのだろうか。
わざわざ最後にあんな言葉を残したくらいだ。そうだとしても不思議はない。
そんな頭が痛くなりそうなことを考えながらも楽になった体を起こせば、額に乗っていたシロがひょいと飛んでフードに戻っていく。氷は既に溶けて無くなっていた。
すぐに差し伸べられたアスハイルの手を取り立ち上がってみても、もうふらつくことも視界が回ることもなさそうなので安心する。
「うん、問題ない。進もう」
屋敷まではあと少し。今のところ襲撃もなさそうなのでこのまま真っ直ぐ進んでしまおう。
私は自分の内に溶け込んだ母の術式をなんとなく頭の片隅に置きながら、屋敷までの道をまた進む。




