七十七
リオは言う。自分にあの父の跡を継ぐだけの能力は無いのだと。母が言うような立派な跡継ぎにはなれないと。
そもそもあの屋敷にやって来る前からリオには夢があったのだと。
それは、菓子を作ること。見た目でも味でも人を笑顔にできる、そんな立派な菓子職人になることだ。
だから度々屋敷を抜け出してはこの街のこの店で、仕事を手伝いながら現役の菓子職人でもあるソルトーに教えを乞うているのだと。
母親が再婚などしなければ。
そう思うと、リオも被害者なのだろう。貴族の家に生まれた子供は、大人の行動や言動一つでその後の人生が決まってしまうから。
しかし、きっとこれはここだけの話じゃない。抱いた夢を親の為に諦めてきた子供たちは、この世界には数えきれないほどいるはずだ。
それは貴族も、そして平民も。
引っ付いたままのリオが顔を上げた。至近距離で見上げられて、その涙の膜が張った大きな目に私は言葉を失ってしまう。
この子供が次に何を言い出すかなんて容易に予想はできたけれど、その言葉を止める術が私には無い。
「お願いです、姉様。戻ってきてください」
「それは……」
「私の夢の為に言っているわけではないんです。あの家には貴女が必要だと思っているから言っています。父様の跡を継げるのは、アリシエル姉様だけなんです」
今更だ、と思う。
もしもその言葉を、あの時の父の口から聞けていたら。私たちの人生は今とは別のものになっていたかもしれないのに。
だがそんな都合の良い現実などあるはずもなく、私は自分の道を歩き始め、リオは母親の望む未来に向けて確実に成長を遂げている。まだまだ未熟さは否めないが、ふとした瞬間に見え隠れする立ち居振る舞いからは貴族としての気品を感じさせていた。
だから。私は見上げてくる子供から目を逸らした。期待には応えられないことをわからせる為に。
「悪いけど、私は戻らない。今回は目的があって来ているけどあの家の跡継ぎはリオ、お前なんだ」
「でもっ」
そもそも私は女である。この国に爵位を持つ女性貴族は一人もいない。能力の有無は関係がないのだ。生まれつきの性別で優劣が決まってしまうのがこの国の在り方だから。それくらいリオだってわかっているはずなんだ。
目も合わせない私の様子に肩を落としたリオが腕から離れていった。
座っていた長椅子に二人がピタリと寄り添う形になる。髪の色も目の色も違う。一応血の繋がりはあるものの、それでも見た目は似ても似つかない同い年の奇妙な私たち。
やっぱり、会わない方が良かったんだろうな。
そう思わずにはいられなかった。
そうしてしばらくは誰も話さず気まずい空気の中でぼんやりしていると、いつの間にかいなくなっていたソルトーがトレーに何かを乗せて戻ってきた。
見ればそこには皿に乗った小さなケーキがひとつ。それを近くのテーブルに置いたかと思えば男はリオの前で片膝をついて目線を合わせていた。
「お前たちが複雑な事情を抱えているのもわかる。だが、せっかく再会できたんだろう。このままでいいのか?」
「…………よくない、です」
「それなら、ちょうどいいものがあるぞ」
ソルトーが親指で指し示した先にはテーブルに置かれた小さなケーキ。これがなんだと言うのかはわからないが、もしかしたらリオにとっては特別なものなのかもしれない。
リオはそれを見て口を引き結んでから、意を決したように椅子から降りていった。
テーブルの前まで行くとケーキの乗った皿を手に取りフォークを添えて、そうしてゆっくりと戻ってくる。
「姉様。これ、私が作ったケーキなんです。もしお嫌いでなければ……食べて、感想を、聞かせてくださいませんか……?」
差し出されたそれは、桃色のクリームで飾られた綺麗なケーキだった。
リオは菓子職人になるのが夢だと言っていたが、もうこんなものまで作れるのか。どう見てもこの店で売り出されているものと比べても遜色ない出来栄えである。
一瞬戸惑いはしたが、私はそれを両手でしっかりと受け取った。
落とさないように皿を手のひらに乗せ、フォークを持ち、そっと桃色のケーキを割っていく。その動作一つ一つがなんだかとてつもなく緊張した。
割った欠片をフォークで指して恐る恐る口に運ぶ。
パクリ。
ふんわりとした甘い香り。後を引かない優しい甘さのクリーム。しっとりとした生地。トロリと中から出てきたのは桃だろうか。桃はクランデアの街でも一度食べたがその時のものとはまた違った食感である。
「………………おいしい」
思わず溢れたその言葉に、目の前で見守っていたリオがパァッと顔を輝かせていた。
ああ、ダメだ、絆されてしまいそう。
私はそんなことを思いながらも手元のケーキを綺麗に完食したのだった。
後からシュカが追加で紅茶を持って来てくれたので、成り行きを見守っていたルトとシンディも含めて私たちは四人で再びテーブルを囲むことになった。
リオのケーキのおかげで気まずい空気が吹っ飛んだので、機転を利かせてくれたソルトーには本当に感謝である。
「ミリアの居場所、ですか」
せっかくリオと話せる状態になったので、聞き出せる情報があれば聞いてしまおうと開き直った私は早速その質問をぶつけたのだが。
「すみません。私は彼女とあまり関わりがないのでわかりません……」
どうやら私が消えた後のミリアは、リオの母親であるレイランの専属になったらしい。これで明らかな敵と怪しい人間が繋がっただけでも収穫はあったと言えるだろう。
レイランがミリアを使って私をあの屋敷から追い出したと考えるのが一番有り得そうな展開だ。
五年前の時点で直接殺しに来なかった理由はわからない。けれど屋敷から離れたクランデアの街の外で襲撃されたことを考えると、ただ単に辺境伯領の側で死なれると問題があったからなのかもしれない。
おまけにここまでに二度あった構成員による襲撃。全く相手にはならなかったが、ミリアはよっぽど私をあの屋敷に近付かせたくないと見た。
「そういえば、少し前に父様の遣いで北の領主の所へ行ったと使用人たちが話しているのは聞きました」
「いち使用人のメイドが辺境伯の遣いを?それって、すごく信頼されているってことだよね。もしかして彼女が戦えることも知っているんじゃないかな」
「エルの専属メイドにしたのは護衛のつもりだった、ということは有り得ませんか?ディも力を買われてアレク様の護衛をしていましたので」
「強い人間を娘の護衛にしただけ、ね。そうなるとあの人は白って可能性もあるのか……」
それはそれで困る。犯罪に関わっていたという免罪符が無くなったら容易に殴れないではないか。
リオの言う北の領主とは、クランデアで会ったギルバーのことだろうか。だとすればミリアはあの魔王騒動に居合わせた可能性も十分にある。……いや、戦った時のミリアは私の今の力のことは知らない様子だった。ならば魔王騒動からリガンタの街へ着くまでの間に姿を見られたことになる。
犯罪集団と辺境伯家との関係についても、ミリアの行方についても、まだ決定的なものが出てこない状況に、私はため息を吐きながら先程シュカが用意してくれた紅茶のカップを手に取った。
こうなったらやっぱり直接乗り込んでしまうのが一番手っ取り早い気がしてくる。
けれど、それをするときっとまたアスハイルに怒られてしまうのだろうな。
今回はスイストンの子爵邸ほど侵入も容易ではないだろうし、どうしたものかと考えていると、隣に座っていたリオが私のローブを摘んでちょいちょいと引っ張った。
「あの、父様は何か、良くないことをしてしまったのですか……?」
リオは何故私がミリアを探しているのかを知らない。こうして辺境伯領に近い街に戻ってきている理由すらも。
先程の襲撃についても聞きたいことは山程あるはずなのに、聞いてこないところを見るとそれが身内の不祥事に繋がってしまう可能性を少なからず感じているからなのかもしれなかった。
「そういう疑いがあるってだけだよ」
そう。今はまだ、疑いだ。
それくらいを知る権利はこの子供にだってあるはずだと、私はそれを隠さなかった。万が一両親に何かあれば一番被害を被るのは他でもないこの子供だから。
私の言葉を聞いて俯いてしまったリオは、膝の上でぎゅうっと拳を握りしめていた。




