七十四
馬に乗って進むよりも倍の時間をかけて私たちはシャンデンの街を目指していた。
村の生き残りは女子供ばかりで体力も無く、半日歩くのがやっとといった状況だったこともある。
それから捕らえた男がまた厄介で、こちらが殺す気がないと知ると歩くのを拒否した為途中からは縛り付けて馬の背中に荷物と一緒に乗せていた。その光景に怯えた村の女子供がよく歩くようになったことには兄妹も服雑そうな顔をしていたけれど。
旅を知らない人間を連れ歩くのがこんなに大変なものだとは知らなかった。
そうして進むこと十日余り。
見覚えのあるシャンデンの検問所を通過した私たちを迎えたのは、五年経っても変わらない活気ある街並みだ。
門から反対側の外壁まで真っ直ぐに伸びる大通り。立ち並ぶ店。行き交う人々。少し道を逸れると様々な専門店が多く立っている。
このシャンデンは王都との往復馬車を運行している商人も多く、人々の行き来が盛んで、その分入ってくる品は品質の良いものばかりだった。
だからこそあの時は贔屓にしていた仕立て屋に行くはずだったのだけどな……。
私は街に入ってから被っていたフードを更に深く被り直していた。
万が一辺境伯家の人間が来ていたら、五年が経ったとはいえ私のことを覚えている奴だっているかもしれない。ただでさえ私はあの頃から容姿があまり変わっていないのだ。屋敷に到着する前に面倒を起こすのは避けたいところである。
そうして大通りを進み、冒険者ギルドの前まで来たところで私たちは二手に分かれることになった。
兄妹はこのまま村の住人や構成員の男を連れて冒険者ギルドへ。私とルトとシンディは街を回って情報収集だ。
ただ、ミリアの仲間がどこに潜んでいるかはわからない。くれぐれも気を付けて、と兄妹とは一旦別れて私たちは一先ずシャンデンの飯屋を目指して歩き出していた。やっぱり情報と言えばそこだろう。
「いらっしゃいませー!」
大通りから一本外れた道にその店はあった。
立て看板に描かれた甘味の絵に惹かれて足を踏み入れると、店員の若い女の声が軽やかに響いてくる。
店内は明るすぎず暗すぎず、落ち着いた色合いで統一されていた。所々に小さな鉢植えの花が置かれていて、窓から差し込む日の光が温かみを添えている。
大通りからは外れた道なので人で賑わっているというよりは、静かに過ごしたい連中が食事をとりながら各々の時間を楽しむための空間といった感じだった。
私たちが座ったのは四人がけのテーブル席。覗き込んだ品書きには聞いたことのない単語が並んでいて、見ているだけでも結構楽しかった。五年経つと知らない甘味も増えるのだな。
「わぁ!すごいです!」
注文し、運ばれてきた数々の甘味を前に真っ先に声を上げたのはシンディだった。
真っ赤な苺がふんだんに使われたクリームのケーキ。色とりどりの果物が宝石のように輝くタルト。平たい生地でクリームを巻いたもの。粉の砂糖が振りかけられた一見パンのような菓子。薄い黄色にとろりとした蜜が乗ったぷるぷると震える奇妙なもの。
これが全て甘味なのかと目をキラキラと輝かせている彼女は少し幼く見える。終いには食べてしまうのが勿体無いとすら言い出した。
私たちの向かいに座るルトは無言で紙をテーブルに広げ始めたので、どうやら絵の題材にはもってこいの代物だったらしい。
二人とも本来の目的を忘れているな?
かく言う私も興味本位で注文した珈琲という飲み物が気になって気になって仕方がないのだが。
なんだか懐かしい香りがする。今まで一度も飲んだことは無く見るのも聞くのも初めてなはずなのに、そう思ってしまうのはなぜだろう。
熱々のカップを手に取り黒いそれを口に含んだ時の強い苦味。鼻に抜ける独特の香り。後に感じる微かな酸味。
子供が好むようなものでは無さそうだし、想像とも少し違った味だけれど、何故だかこの時の私にとっては至高の逸品だったのだ。
どうぞ、と横から差し出されたフォークにはケーキ。それをパクリと食べると途端に口の中に広がる甘さ。そうしてもう一度珈琲のカップへ口をつけ、飲み込むと思わず漏れ出すため息。
「落ち着く……」
なんて素晴らしい時間なのだろう。
甘味と苦味の行ったり来たりを堪能していたこの時の私もまた、完全に目的を忘れていたのである。
そんな時。
ふと店の戸が開き新たな客が入ってくる気配がした。なんとなくその方向へ目だけを向けると光を受けてきらりと光る銀色が微かに見えた。
背は高くない。というよりは、私とあまり変わらないくらいに低い。店の構造上今いる場所から入り口付近はあまり見えないが、それでも子供だとはわかる。
周囲に親らしい大人の姿は無い。このシャンデンは人通りもそこそこ多い街であるが、子供が一人で出歩くのは流石に危ないんじゃないかと思ったのは当然実体験が故。
けれど、まあ、私には関係がないな、と視線を逸らしてまた珈琲を口に含んだ。
「いらっしゃいま――あら!」
「こんにちは!」
聞こえてきたのはやはり幼い子供の声。穏やかなこの店の中ではその元気な声はよく響いた。
子供は店員の女と顔見知りのようで、その場で始まった会話は自然と客席にも聞こえてきてしまったのだ。
「またお忍びで来ちゃったのね」
「あはは、母様には言ってませんからね。あっ、今日もいいですか?」
「もちろんよ!店長ー!リオくんが来ましたよー!」
私は、思わず珈琲を吹き出した。
変なところに入ったらしく、けほけほと咽せながらもなんとか持っていたカップをテーブルに置く。幸い中身は溢れていない。
「だ、大丈夫ですか?お水持ってきてもらいます?」
「ちょ、まって、しずかに」
立てた人差し指を口の前にやり、もう一度静かにと告げた私がフードを更に下げている様子に二人は不思議そうに首を傾げていた。
そんなことよりも、今耳に入ってきた情報が問題だ。
そういえば私たちは情報収集のためにこの店に入ったのだったなと今更思い出す。呑気に和んでいた自分に呆れるほど。というか……
――なんであいつがこんなところに!?
情報云々よりもそこに驚いた。
先程店員の女が口にした子供の名前は、私が忘れたくとも忘れられないものだったから。
「あの……その子、大丈夫ですか?お水、ここに置いておきますね」
不意に、思っていた以上に近い距離から先程の子供の声が聞こえて思わずハッと顔を上げてしまう。
見覚えのある銀色の髪。汚れのない青い瞳。スイストンの街で出会った騎士サフの青は空の色だったけれど、こちらは綺麗な海の青。
一瞬、目が合った気がして、息を飲む。
(あの人に、よく似ている……)
私なんかよりもよっぽどあの人の子供らしく育っているじゃないか。
それが辛いとは今更思わないけれど、やっぱりこいつはあの人の子で――私の、腹違いの弟なのだなと改めて実感させられた気がした。
「……問題ない。ありがとう」
「よかった!それでは、ごゆっくりどうぞ!」
笑うとふわっとした柔らかい印象を受ける子供だった。あの母親の元で育ってこれか。似なくてよかったと思うと同時に、相当大切に育てられているのだなとわかる。
水の入ったカップを置いて去っていったその子供は、店員と同じ服を着ていたのでどうやらこの店を手伝っているらしい。接客が板についているようなので、初めてというわけでもなさそうだ。
お忍び。母には言っていない。本当にその言葉通りなら、一人で屋敷を抜け出してきているということだ。
何故?
そんなことをする必要がどこにある?
「……エル?あの子がどうかした?」
私が子供の去っていった方を見て急に気を引き締めたことに気付いたルトが小声でそう尋ねてくる。
一瞬躊躇いもあったが、ここまで来て隠しておく必要もない。それに思い至って私も小声で話し出す。
「今のリオという子供。あれ、私の弟なんだ」
そんな私の突然の話に、ルトとシンディの驚きの声は店中に響き渡ったのだ。




