六十六
「はい、どうぞ」
「わぁ!ありがとうございます!」
ルトから絵を受け取った街娘がそれを大事そうに胸の前で抱え、深く頭を下げてから待っていた友人たちの元へと走っていった。
にこにこと手を振ってそれを見送ったルトは、自分の座る木の椅子に立て掛けていた描きかけの絵を取り作業を再開させる。そこに描かれているのは、昨夜船着場で見たあの美しい氷の魔術師の幻影であった。
「その絵、出来上がったらどうするんだ?」
私は水路の縁に腰掛けて後ろからその手元を覗き見る。
ルトは商人ギルドから許可証を受け取ったことでこうして街中で商売を始めていた。注文された絵を描く商売だそうだ。
私は昨日の今日で誰かと共にいた方が良いとの仲間たちからの提案で、こうしてその商売の場に同行させてもらっている。宿の部屋にいるのは、なんとなく気まずかったので。
「どうもしないよ。これは思い出だからね。そっとしまっておくのがいいと思ってるんだ」
「そう……」
それを聞いて、私は思わず目を細めて空を見上げていた。時折白い雲が流れる気持ちのいい青空だ。サフの髪と、そして昨日見たフィアリアの色でもあったという空の青。
昨夜、あの後のアスハイルはどこか晴れやかな顔をしていた。
死んだ恋人との再会なんて気持ちの良いものでは無かっただろう。しかし最後に何かを言われた時に笑っていたように見えたので、彼の中ではもう心の整理は付いるのかもしれなかった。
今日は宿の部屋で休んでいると言っていたが、あの様子なら放っておいても大丈夫そうだ。側には妹のネルイルもいることだし。部外者である私が心配していたって仕方がない。
そうして会話が途絶えたことで街の喧騒がやたらと大きく聞こえてくる気がした。
私は被ったフードの中で大人しくしているシロを指先で撫でながら、垂らしていた足を曲げて体を小さく丸め込む。
なんだか落ち着かない。心に棲みついたもやもやが鬱陶しい。昨日のあれを見てからというもの自分が自分ではないような感覚に陥っている。
原因はわかっている。
「少し、羨ましかったな……」
ぽつり。喧騒に紛れてしまうくらい小さな声で呟いた。
聞こえているのかいないのか、ルトは絵を描く手を止めない。それがとても有り難かった。こんな弱音、本来なら人に聞かせるものじゃない。それくらいわかってはいるけれど、一度口から出したらもうダメだった。
「家族、か……」
兄を心配する妹のあの必死さにはくるものがあった。
同じ場所で生まれ共に育ったかけがえのない兄妹。両親を失っても共に支え合いながら今まで生きてきた二人の絆。
長い付き合いというわけでもないのに、もう何度もそれを目の当たりにしている気がする。
正直なところ、家族という存在があんなにも温かく、大事なものだなんて知らなかったんだ。
私はあの屋敷で一人でいることがとにかく多くて、母との会話も家族らしいものなんてひとつもなかった。父とはまともな会話すらほとんどした記憶がない。
使用人たちには遠巻きにされ、後からやってきた女に追い出され、全ては弟の手に渡り、唯一心を許していたはずのメイドは私を殺しに来た。
どうしてうちはこうなんだろう。
犯罪集団との繋がりも疑われ、こうして舞い戻ることにもなって、家も名も捨てたはずなのにどこまでも付き纏ってくる。
例えば、たまに思い出すあの頃の記憶の中に少しでも優しいものが含まれていたのなら、こんなにもやもやすることも無かったんじゃなかろうか。そう思ってしまうのだ。
せめて母の最後の言葉が、もっと別の何かであったならどれだけ救われていたことか。
けれど現実は変わらなくて、結局私はあの屋敷で、生まれた瞬間から疎まれていただけの……
「……ダメだ。じっとしてると変なことばっかり考える」
もう過ぎた話だ。こんな問題いつまでも悩んでいたって仕方がない。そう思うのに、考える時間ができるとつい感傷に浸りそうになってしまう。このままではダメだ。
忘れてくれ、と私はルトに告げ水路の縁から飛び降りた。
「あっ、どこ行くの?一人は危ないよ!」
「港に行ってくる。ゴートに報酬の件も話さないといけなかった」
そうして私は軽く手を振って逃げるようにその場から移動した。その後ろ姿を見ていたルトが酷く哀しそう顔をしていたことなど気付かぬまま。
港に着くとそこには漁師たちに紛れて青髪の騎士がいた。
昨日見た彼の姉であるフィアリアと同じ長髪を今日は肩の辺りで束ねて前に流している。目付きの悪さは相変わらず。私を見付けて睨み付けてくるところも昨日から変わっていないようだ。
「なんでここに?領主の方はいいのか?」
「……お前たちがとんでもないものを一部の漁師に与えたせいで面倒なことになったんだ」
ああ、ルトの魔道具のことか。
思い付きで試してみたことではあったが、昨夜完成した船の術式が正常に作動することは既に確認済みだ。
ゴートが船に乗り、試しに暗い夜の海に放たれた氷の塊は、海を裂くほどの威力を持っていた。
あの攻撃のイメージはおそらくゴートの頭の中のフィアリアの魔術から来ているのだろうが、それを可能にしているのはルトの術式と組み込まれたシロの魔力である。
あれなら例え船を飲み込むくらいの大物が現れたとしても返り討ちにできるのではなかろうか。
要望には応えた。それの何が問題だと言うのか。
首を傾げて見上げると、サフは盛大にため息を吐いた。
「他の漁師たちも欲しいと言い出して朝から軽く争いが起きていた。そのせいで俺が駆り出されんだ。よくも面倒事を増やしてくれたな」
「海の魔物の件は解決したんだからよかったんじゃないか?すぐにできる対策なんてなかったんだろ?お前も今すぐは無理だと言っていたじゃないか」
「そういうことを言っているんじゃない。あんな兵器を軽々しく生み出すなと言っている。そもそもお前たちはなんなんだ。アルやネルは信用しているようだが俺からすれば――」
「あっ、お嬢!来てたんだな!」
話を遮ったゴートが駆け寄ってきた。ギロリと睨み付けられて一瞬怯んではいたが、そのままサフの近くを避け回り込んで私の側にやってくる。
「朝からあの船の利用に規則を設けるっつってその兄ちゃんが煩くてよ」
「当たり前だ。あんなもの自由に使わせられるか」
まあ確かに、誰でも使えてしまう兵器と化した船だ。使い方次第では危険なものであるし、争いの種にもなると言うのなら今後の運用の仕方は考えた方がいい。
サフは領主の仕事もしばらくは引き受けるようだし、船に関しても規則を設けてくれると言うなら任せてしまって良いだろう。ゴートには慣れてもらうしかない。
そういえば、サフは昨日とは打って変わって今日はよく話してくれるんだな。てっきり不審な私とは話したくないのかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
性格上常に一定の温度感で語られる言葉はなんとなく私のそれとも似たものがある。話し易さすら感じるほど。
そういう意味で私たちはどこか似たところがあるのかもしれなかった。だたし、気は合いそうにないけれど。
「それよりお嬢。報酬の件だが……」
「ああ、そうだった」
私は船の報酬について考えていたことをゴートに伝えた。
今すぐにとはいかないが、いずれは海を渡り別の大陸に行きたいと思っていること。その為の伝手が欲しいこと。用意をここの漁師たちに頼みたいこと。
この国に港を持つ街は少ない。だからこそこのスイストンで漁師と知り合えた事は、私にとってはそれなりに利のあることだったと思っている。
「……そうか。お嬢はいつかこの大陸を出てっちまうのか」
「留まる理由がないと思っているだけだよ」
一応は生まれ育った国だ。世話になった人たちもたくさんいる。けれどそれがこの地に留まる理由にはならないと思っていて、更にはどこへ行っても何者にもなれない私が留まる必要もないと思っていて。
まだ行っていない場所も見てみたい場所もあるのでしばらくはふらふらとしているだろうが、この気持ちはこれからもきっと変わらない。
しかしそれを許さない者たちがいることも知ってる。
「お前、王族の紋を持っているだろう」
冷たい声だ。その声にまた顔を上げると、同じくらい冷たい視線がこちらに向けられている。
こいつが言っているのはもしかしなくとも王族の紋を模ったペンダントのことだろう。サフには一度も見せてはいなかったはずだが、それを私が所持している事をあの兄妹にでも聞いたのかもしれない。王族との繋がりも深い騎士団の人間として、この情報は知っておいて損はないものだから。
私は思わずその視線に挑戦的な笑みを返していた。
「持ってるけど、関係ないね」
「ただの馬鹿だったか」
「違う。私は負けないからだよ」
このペンダントを所持しているということは、それなりに国に有益な人間だと認められているということだ。その能力の他国への流出を防ぐ為でもあるらしい。
だから私のさっきの発言は、王族への反逆と言っても違いないのである。そして実際にそれが起これば立ちはだかるのはきっと王都の騎士団だ。つまり。
「私を止めたかったら殺す気で来た方がいい。まぁ、それでも負けないけどね」
「随分と自分に自身があるらしいな。今のうちにわからせてやりたくなる」
「いいね。やろうって言うなら受けて立つけど」
「い、いやいや!お嬢も兄ちゃんも落ち着けって!」
互いに剣に手をかけた私たちに、ゴートは酷く慌てて間に入ってきた。
馬鹿だな。本気なわけないじゃないか。
今はまだ、な。




