六十五
おそらく生前この地で彼女が使った魔術の名残が海の中にあったのだろう、とシロは言う。
それはフィアリアという魔術師が確かにこの場所で戦っていた証でもあった。それが今、シロの魔力と混ざり幻影魔術となってこうして私たちの前にひと時の夢を見せている。
きっと、優秀な魔術師だったのだ。強い魔力の持ち主でもあったのだ。そうでなければ、本人が死んで二年も経った今この時に、これほどはっきりとした幻影が形作られるわけがない。
青白い光によって作り出された幻影と空気を輝かせるシロの魔力はこの場にいた誰もを魅了するほどに美しく、そして――ある者たちにとっては酷く残酷な光景でもあったのだ。
「な、んで……うそ……ねぇ……やめてよ……っ」
震えた声だった。
目の前に現れた幻影は息を飲むほどに美しく輝いているというのに。ネルイルはその顔に恐怖すら宿して、私の目の前まで駆け寄って来たかと思えば震えた声で叫び始める。
「エル!あれを今すぐに消して!!」
「えっ、と……悪い、あれをやっているのは私じゃなくて……」
「お願い!消してよッ!」
「――っ!」
叫びと共に涙が散る。
ネルイルが、泣いている。
一度流れ出した涙は次から次へと溢れ出し、頬を伝って落ちていく。ぼろぼろと、ぼろぼろと。服の袖で何度拭っても涙は止まることを知らない。
その必死さに思わずたじろぎ、それでも私は動けずにその場に留まった。
魔力切れを待つしかない。それがわかっていたからだ。
「お願い……お願いよ……!」
彼女にとってフィアリアという魔術師は再び姿を見ることすら辛いほど大切な存在だったのかもしれない。けれど、こんなにも取り乱しているのは、それだけが理由ではないのだろうなとなんとなく思った。
だって、ネルイルは。自分の命をかけてまで死にかけた兄の為に魔術を使うような奴だった。会ったこともない私の父に対して怒ってくれるような奴だった。
一緒にいる期間はまだそんなに長くはないけれど、いざという時に誰かの為に動ける奴だと言うことを私は知っている。
だから、きっと……
私は涙を流すネルイルの後ろを覗き込むようにしてそこを見た。
幻影に驚く海の男たち。似た容姿の弟は、姉の姿の幻影に顔を歪めながらも見入っている。問題は……
カラン、と手放した杖が地面に転がる事にすら気付かずに唖然と立ち尽くす彼女の兄、アスハイル。
その様子はこれまでに見てきた姿のどれにも当てはまらずいつもの毅然さもない。立っていることすら出来なくなったのか、ふらりと揺れた体はすぐに崩れてそのまま地面に座り込んでしまう。動揺が、手に取るようにわかる。
この四人の間には特別な何かがあるんじゃないか、とそう思っていた。けれどそれは私が思っていた以上に深く、繊細で、危ういものだったらしい。
「エル……エル……お願い、お願いだからっ」
涙に濡れた声で名を呼びながら彼女は私の手を握った。祈るように。縋るように。痛々しいほどの思いが震えた手からも伝わってくる。
兄を失いそうになったあの時とも、違う。
「お兄ちゃん、あの人が死んじゃって、やっと、やっと、立ち直れたの……だから、ねぇ、お願い……」
これが、家族か、と。
私は酷く驚いてしまって、呆然と彼女を見ていたのだ。
「これ以上、お兄ちゃんを苦しめないで……っ」
どうしてだろう。ふと、母の最期を思い出した。
あの人はもう自分が助からないことを悟っていた。実の娘である私との会話があれで最後であることをわかっていた。指先が変色し、意識も朦朧とし始めた中で語ったのはその場にすらいない人への想い。そして……
――おとこのこだったら、よかったのに……
それが命を賭してまで、絞り出した最後の言葉か。
私たちは家族とすら呼べない何かだったんじゃないか。
兄を心から思いやるネルイルの姿を見ると、ついそんなことを思ってしまう。
忘れてしまえばいいのに。
今の私にはシロがいる。仲間たちもいる。あんな人のことなんか、覚えていたって良い事はない。
それでも、忘れられないのは。
どれだけ精神が発達していようと、この体がまだ子供で――私自身が、まだ子供で。一度でいいから温かい家族の愛をこの身に受けてみたかったから、なのかもしれなかった。
そんなこと、こんな時に気付かされるなんて。
「エル……っ」
「……大丈夫」
私の手を両手で握るネルイルの手を残っていた手で触れる。安心させるように。なるべる優しく声をかける。
「きっと、大丈夫だ」
死んだはずのフィアリアの姿を浮かび上がらせる幻影。その元になった魔力が本人の――ネルイルが慕う彼女のものだと言うのなら。
ただ、信じてやればいいと思うのだ。
「あの人は、お前やお前の兄を傷付けるような人じゃないんだろ?」
息を飲んだのがわかった。
そうしてまたぼろぼろと涙を溢れさせる。
「……うん」
頷いた。それが、全てだった。
幻影の女はきょろきょろと辺りを見渡していた。意思があるのか、本人の記憶を持っているのかも不明な存在だ。
次にどういった行動を取るのかも予想ができずネルイルと並んで見守っていると、幻影は何かを見つけたのか、ぱっと花が咲いたように喜びを露わにして見せる。
両手の指先を重ね合わせて。それを口元に寄せて。あの幻影が本物の人間だったならば頬を赤く染めているに違いない。そして、その視線の先には、座り込むアスハイル。
「……あのね、」
ネルイルが呟く。
幻影の女は海の上から移動していた。シロの魔力が輝く中をふわふわと重力を感じさせない動きで。人では無いと誰もがわかる透き通った青白い光のまま。
そうして辿り着いた男の胸に飛び込むように抱き付いた。
揺れる目を見開いて固まるアスハイルは、どう見ても混乱している。
「フィアさんは、お兄ちゃんの恋人だったのよ」
そうか、だから。
だから子爵邸でネルイルは兄が氷の魔術師について話そうとしたのを遮ったのだ。恋人が死に、やっと立ち直ったというアスハイルに語らせたくなかったのだろう。
男に抱き付いた幻影は、周囲の目も全く気にせず顔を上げてふにゃと幸せそうに笑っていた。美しく可憐な見た目の印象から一転。まるで幼い少女のような可愛らしさを宿すその笑みに、呆然としていた男の目に涙が浮かび始める。
それを見て慌てた様子の女は本当に幻影なのかと疑いたくなるくらい、精巧で、人間的で、そしてその温度すら感じさせるほどの優しさを帯びていた。
一瞬困ったように眉を落としたかと思えば今度は目を細めて、浮かべた大人びた微笑みに愛おしさをいっぱいに詰め込んで。幻影は男の耳にそっと顔を寄せて何かを告げる。
何を言ったのか。そもそも聞こえるものだったのか。それは私たちにはわからない。けれど、噛み締めるように口を引き結んだ男はやがて可笑しそうに笑っていた。
幻影は魔力が尽きれば自ずと消える。
薄まる光。保てなくなった人の形が徐々に崩れていく。それはシロの魔力の輝きの中、静かに天に向かって昇り始める。
そっと離れた幻影に伸ばされた男の手は、哀しくも空を切った。
きっと今見た光景は、偶然が引き起こした奇跡だったのだ。
シロの魔力と、それを扱える者と、幻影魔術の術式と。それから、海に漂っていた一人の女の強い魔力。
ほんのひと時の儚い夢。
それでも、きっとあいつにとっては意味のあるものだった。
光が昇ってゆく暗い空を目を細めて見上げるアスハイルのその様子に、私はそんなことを思ったのだ。
「どうか、安らかに……」
祈りを口にしたシンディは、組んだ指をゆっくりと解くと、ローブの形を変えて薄いベールを身に纏う。
そうして捧げられる静かな踊りは、死者の魂を弔う為の美しい舞だった。




