かつて選ばれなかった男。③
それからアーバインは、訓練の合間に、毎日ハクアの竜舎を訪れていた。
アーバイン自身はクレシオラともポツポツ言葉を交わすようになっていたが、ハクアは相変わらずあまり反応を見せない。
頭を動かすこともあるが、大半は無視されている。
しかしある日ふと、立ち上がって食事をするハクアの腹部が思った以上に酷い状態であるのを見て、真剣に考え始めた。
「なぁ、寝藁に薬を塗ったりしたらどうだ?」
治療が出来ない、というのは、動いている飛竜に触れるのが危険だからだろう。
ハクアの眠っている位置は一定というわけではなく、部屋の隅にいることもあれば竜舎の真ん中であることもある。
一日に一度は動いて食事をしているようなので、提案してみたのだが。
「藁全部に薬を塗るのは、現実的じゃないわね……安いものじゃないし、伯父様もそこまでのお金をかける余裕は、ないと思うの」
「水に溶かして漬けたりとか。何もしないよりはマシだと思うんだが」
「そうね……寝心地はどうかしら? それに、乾かすと効果があるかも分からないし」
クレシオラの言うことはいちいちもっともで、アーバインはあぐらを掻いて真剣に悩んだ。
どうにか、ハクアが反応して話に応じてくれれば、それが一番早いのだ。
クレシオラを手伝って、禿げた鱗をちりとりで集めたり、体を洗ってやった時に痩せた体を触ったりしている内に、どうすればこの飛竜が少しでも楽になるのかと考え始めていた。
心も、体も。
他人や飛竜を含めて、自分以外の存在についてここまで考えたのは、初めての経験だった。
真剣になればなるほど、いつでも自分のことばかりだった、かつての生活がふとした事で思い出される。
あの時、ああしてやれていたら、こうしてやれていたら。
募る後悔に突き動かされるようなその衝動は、もしかしたら過去を見つめ直す意味を含んでいたのかもしれない。
人生にもしもは起こらない。
彼女らがアーバインを必要とし、アーバインが必要とされただろう未来は来ない。
だが、別に今まで誰かに出来なかったからって、これからも出来ないわけじゃない。
もしもは起こらないが、もしもを口にする事で、救われる命があるとするのなら。
「なぁ、ハクア。……もしもこのままお前が死んだら、ゲダルド卿も、悲しむんじゃないか?」
意思疎通の魔術を使って、その名を口にしたアーバインに対するハクアの反応は、劇的だった。
『グルゥァッ!!』
カッと目を見開き、激昂した様子で、思い切り振るわれた尾を、アーバインは避けられなかった。
「ッガァ……!」
咄嗟に腕を挟み込んで防いだが、自分の胴ほどもある尾の衝撃が殺し切れる訳もなく、アーバインは無様に竜舎の壁に叩きつけられて、辺りに轟音が響き渡った。
肺の中の空気が一気に押し出されて吸い込めず、かひゅ、と喉が鳴る。
だが、真っ白になる視界と呼吸出来ない苦しさの中で、アーバインは。
―――届いた。
と、胸に小さな喜びを感じていた。
〝オ前ニ、何ガ分カル!〟と、確かに、ハクアは吼えたのだ。
尾の一撃を、いきなり喰らうのは予想外だった。
―――やっぱ俺には、相手の気持ちなんか分かんねーよな。
まさか、こんなに怒らせるとは。
笑みを浮かべて顔を上げると、飛竜の頭突きが腹に突き刺さり、アーバインの体を壁との間に挟み込む。
「ゴ、ふッ……!」
レイデンに強要されて必死に覚えた身体強化魔術の常時展開がなければ、もうこの時点で死んでいたに違いない。
だが、アーバインは生きていた。
「なん、だよ……元気あるじゃ、ねーかよ」
ゼェ、と何とか息を吐き出し、両手で腹に食い込んだ鼻先を掴むが、ビクともしない。
鼻先を押し付けたまま、また、ハクアが鳴く。
〝ゲダルド、死ンダ! ハクア、間違エタ! ダカラ死ンダ!〟
怒りと共に猛り狂う白い飛竜の意識が、流れ込んでくる。
空を舞うハクアと、その背に備えられた鞍に跨る、人の感触。
『ハクア、降下だ!』
その声は聞こえていたが、ハクアは敵を蹴散らす為に炎の息吹を吐いた。
狙い通りに蹴散らすが、その途端、背後の男がハクアの背中を蹴って飛び降りたので、驚いて下に目を向けると……伏兵に襲われて危機に陥っている味方の姿と、そこに向かって一直線に急降下していくゲダルドの姿。
慌てて旋回するも、伏兵は数が多く、味方を逃がそうとしたゲダルドが囲まれる。
息吹を吐けば巻き込んでしまうが、爪が届くには遠い距離。
ハクアの目の前で、兵士たちの槍がゲダルドを取り囲み、そして……。
……血飛沫と共に、意識が現実に戻った。
「そう、か」
アーバインは、痛みを堪えて笑みを浮かべると、ハクアの鼻先を撫でる。
「お前も、間違えた、のか。……ああ、でも、な。ハクア」
アーバインは、ギラギラと怒りに瞳を光らせる飛竜に対して、言葉を重ねた。
「それでも、きっと。ゲダルド卿は、お前に生きてて欲しい、と、思ってるよ」
自分の父と兄も、そして母も。
殴り、詰ったが、アーバインに『死ね』とは言わなかった。
やり直したいという願いを、聞き入れてくれた。
「なぁ、家族だったん、だろ……? ゲダルド卿は、敵を蹴散らす選択をしたお前を、責めなかっただろ。ハクアが大好きだった主は、家族が間違ったからって、見限ったりする人じゃ、なかったんじゃないか?」
でなければ、クレシオラがあれほど熱心に世話をするはずがない。
父の騎竜だったから、という理由で世話をするのなら、きっとその父が好きじゃなきゃ出来ない筈だ。
「今まで、お前の世話をしてくれてたのが誰か、分かってるだろ? クレシオラは、ゲダルド卿の、娘だ」
すると、ハクアの鼻先から僅かに力が抜ける。
そして、小さく喉を鳴らした。
〝懐カシイ、匂イ。ゲダルド、ノ〟
「ああ、クレシオラは、ゲダルド卿の匂いがするのか。そうか、だから世話を、受け入れてたんだな」
ゆっくり鼻先を撫でると、怒りに満ちていたハクアの瞳が揺れて、ボロボロと涙をこぼす。
〝ゲダルド……ゲダルド。会イタイ〟
「そうだな、会いたいな。でも、だからって死のうとしちゃダメだ。お前をまだ、大事に思ってくれる人がいるんだから。心配してた、ぞ……」
ハクアの鼻先から完全に力が抜けて、アーバインはずるりと床に腰を落とした。
―――やっべ、意識、が……。
流石に、朦朧としてくる。
だが、ここで倒れてたら……と、思ったタイミングで。
「ちょっと、さっきの音、何!? ……ハク……アーバイン!?!?」
どうやら今日の掃除をしに来たらしいクレシオラが、掃除道具でも放り出したのか、ガラガラという音がハクアの背後から聞こえた。
「何してるの!?」
「あ〜……ちょっと、怒らせ、た」
「怒らせ……ハクアを!? 大丈夫なの!?」
「多分。悪い、ちょっと、寝る……」
目の前にいるはずなのにクレシオラの顔も見えないし、気力で意識を繋ぎ止めるのも限界だった。
「クレシオラ、嬢……起きたら、せ、つめい、する、から……ハクア、わる、く、ねーか、ら……」
何とかそれだけ呟いたアーバインは、そのまま意識を手放した。
すみません、前中後編で終わりませんでした……どないか、次で終わるように頑張ります!




