遥かな日に、北へ【後編】
ーーーシスター・イザベラ。面会です、と。
そう告げられて向かった先にいた男の姿に、イザベラは身を縮めて息を呑んだ。
ーーークラーテス……!
顔から、サァッと血の気が引く。
何で、今頃になって、こんなところに。
思わず背を向けるけれど、グランマは退出を許さなかった。
「……どうか、お許しを……」
「なりません、シスター・イザベラ。あなたの還俗に関するお話を、クラーテス様はお望みになられました。受けるも断るも、貴女の心次第。ご自身で考え、ご返答なさい」
イザベラはここに来て、敬虔に真摯に、粛々と祈りと暮らしを営んできた。
ーーーどうぞウェルミィとクラーテス、そしてイオーラが心安らかに過ごせますように。
常にそう、神に祈りを捧げて来た。
その姿勢を認めて、グランマは還俗を望むなら口利きをと仰って下さったけれど、イザベラは断り続けてきた。
修道院の暮らしは厳しかった。
元々貴族であって、なんらかの罪を負った女性が赴く地なのだから、当然のこと。
この地で過ごす修道女たちは、皆その苦しさを嘆いていたけれど、イザベラにとっては心安らかに、ただ日々のことをこなすだけの生活は、罰であると同時に癒しだった。
ーーー出来ることならば、生涯をこのまま閉じたい。
イザベラは元々、養護院の出身であり、貧しさに慣れていた。
ここで、長年抱いた憎しみが失せて心に空いた大きな穴を見つめながら、穏やかに過ごせることに感謝しかなかった。
だってイザベラの復讐は、もう終わったのだから。
いつ死んだとて構いはしない。
残りの生涯を、祈りに捧げてしまいたいと、思っているのに。
「……グランマ、どうか……」
懇願するように頭を下げるが。
「イザベラ」
目の前の女性ではなく、背後からかけられた優しい声音に、身がすくむ。
「どうか、私と話を。……それ以外に、何も強制はしないから」
イザベラは、ぎゅっと目を閉じた。
両手を胸元で握りしめると、荒れて、あかぎれだらけの手と、痩せて骨張った感触がする。
頭巾を結んだ傷んだ髪も、後ろで纏めただけで。
皺が増えて、化粧もしていないのに。
ーーー貴方に、合わせる顔なんて。
「シスター・イザベラ」
嗜めるように、グランマに呼ばれて。
イザベラに逆らう権利は、残されていないようだった。
諦め、ゆっくりと顔を伏せたまま、立て付けの悪い面会用の椅子に腰掛けて、すぐに顔を両手で覆う。
誰よりも、貴方にだけは、見られたくないのに。
こんな見窄らしくなり、年老いた、罪を償う自分の姿なんて。
「お帰り下さい、伯爵様……なぜ来られたのです。嗤いに来たのですか、無様なわたくしを」
ーーーお願い、どうか、見ないで。
心は千々に乱れていた。
それでも精一杯、イザベラは愚かな女を演じた。
だってそうでもしなければ、彼と話すことなど出来ないのだもの。
顔向け出来ないほど、酷いことをしたから。
「その為に、わざわざこんなところまで来るほど暇ではないよ」
「嘘です。貴方を裏切って落ちぶれたわたくしを、嗤いに来たのでしょう?」
知っているわ。そんな人ではないって。
でも、自分のことしか考えていない愚かな女は、そんな風に考えるものなのよ。
自分しか見えていない女だと、どうか思って、クラーテス。
ーーーそして、そのまま帰って。優しい声をかけないで。
泣いてしまうから。
「嗤うことなど、何もないよ。……ねぇ、イザベラ。ウェルミィに会ってから、ずっと疑問だったんだ。君は本当に、私を裏切ったのかい?」
ーーー!
ヒュ、と鋭く、息を呑んだ。
なぜ聞くの。
なぜ、それを聞いてしまうの。
話したくないのに。
思い出したく、ないのに。
「……」
「君を失ったあの日から、ウェルミィの存在を知るまで、私は抜け殻だった。ウェルミィを知った後は……イザベラ。君の育てた彼女が、とても聡明だったから。何か、私は間違ってしまったのだろうかと」
ーーーいいえ。いいえ。貴方に間違いなど。
「二股をかけて不貞を働き、贅沢に溺れる女……そんな人に育てられたようには、見えなかったから」
ーーーやめて……。
イザベラは必死に考えた。
出来るだけ、悪辣に聞こえるような言葉を。
クラーテスが落胆してくれるような、言葉を。
「……ウェルミィは、親を、裏切る子です……そんな子に育てたのは、わたくしではありません。乳母と、ゴルドレイ、それにコールウェラ夫人です……」
ーーーあの人たちが、あの子をまっすぐに育ててくれたのです、クラーテス。
声が震えそうになる。
「そうかい? でも4歳まで、君がウェルミィを一人で育てたのだろう? それに、ウェルミィは言っていた。君は自分には優しかったと。オレイアも、君は使用人には優しかったと」
「……」
「イザベラ。イオーラに対する態度以外で聞く君の姿は、私の知る、心優しいイザベラだった。……私の愛した、イザベラだったよ」
「……やめて。わたくしは、貴方に会いたくありませんでした。もう、お帰り下さい……」
聞きたくない。
そんな言葉は聞きたくない。
クラーテスが愛したイザベラは、サバリンに犯されたあの日に死んでしまったのだ。
ーーーもう、全て遅いのよ。手遅れなの。
あの日、浮かれていなければ。
馬車が近づいてくるのに気づいていたら。
ーーーあなたは、苦しまなくて済んだのに。全て、わたくしのせいなのに。
だからイザベラは、精一杯虚勢を張る。
そうしなければ、泣いてしまうから。
気づいて欲しくなかったのに、気づいて会いにきてくれたクラーテスの気持ちを、嬉しいと感じてしまったから。
「もう、お帰り下さい……どうか……伯爵様……」
ーーーどうかお願いだから、もう、醜くなってしまったわたくしを、見ないで。
穢れ、年老いてしまったこんな姿を。
クラーテスの手が、狭い机を挟んでイザベラの肩に触れる。
びくりと体を震わせると、クラーテスが腕に手をかけたので、抵抗した。
「もう、顔を見せてはくれないのかい?」
「そのような屈辱を、わたくしに与えることがお望みなのですか……? 酷い振る舞いと、お思いになりませんの?」
ーーー見ないで。想い出の中で、せめて姿だけは、美しい私でいさせて。
「イザベラ。……癖は変わっていないね。そして昔と変わらず、君は嘘が下手だ」
クラーテスは、小さく笑ったようだった。
「私に対して、何か申し訳ないと思っている時。君はいつもそうして顔を伏せて、肩を震わせていたね。『自分が悪いのだから』と、泣かないように。……部屋を借りた後、二人で部屋を整えていた時も、君はずっと不安そうな顔をしていた」
両親との離縁をして、帰ったら何かあったのか聞こうと思っていた、と。
「イザベラ。私は今、それをとても後悔しているよ。もっと早く聞いていれば良かったと。そして、今はこう思っている。……私も大人になったからね。君が話したくないなら、話さなくていいから」
クラーテスは、ガタッと椅子の音を立てて立ち上がり、そっとイザベラの背中を撫でる。
「ねぇ、イザベラ。随分遠回りしてしまったけれど、今度こそ、私と一緒に暮らしてくれないか?」
ーーー。
頭が真っ白になった。
今、クラーテスは何を言ったの?
でも、受け入れてはいけないその言葉に、イザベラは大きく頭を横に振る。
「無理、です……申し訳……ありま……」
「イザベラ。君に何があったとしても、私に申し訳ないと、思う必要などないんだよ。君は罪を償った。その罪は、イオーラ王太子妃殿下を、虐げたことだけだと、私は思っている」
そして、彼女は『恨んでいない』と言っていた、と。
「君はもう、十分に罪を償った。……だからどうか、イザベラ。私のために、私と一緒にいてくれないか。老後に一人は、寂しいから」
「……伯爵様、どうか……」
言わないで。
そんなこと言わないで。
優しくしないで。
縋りたくなってしまうから。
ダメなのに、我慢出来なくなって、しまう、から。
「クラーテス、と、もう呼んではくれないのかい? ……ねぇイザベラ。ウェルミィにね、もうすぐ子どもが産まれるんだ」
「……!!」
「初孫だよ。楽しみでたまらない。でも、妻も子もあまり一緒には居てくれなかったから、私はどう接したら良いのか分からないんだ」
イザベラが、手のひらの奥で大きく目を見開くと、クラーテスは身を乗り出して、耳元でささやいた。
「私に、子どもと接する時の心得を教えてくれないかな? どう慈しめば良いのか、何をしてはいけないのか。君ならきっと、よく分かっていると思うんだよ」
ついにクラーテスに、イザベラは両手を握り下ろされて、すっぽりと包み込まれてしまう。
溢れていた涙を、痩せた顔を見られてしまう。
滲んだ視界に映る、クラーテスは。
昔と同じように、優しい眼差しで微笑んでいた。
髪は半分白くなり、皺が増えていても。
イザベラが好きな、クラーテスのまま。
「綺麗だね、イザベラ。昔と変わらない」
「化粧もしていない……醜い老婆だわ……わたく、し、は……」
「養護院で一生懸命働いていた頃の君は、そんなものがなくても輝いていた。歳を取ったのは、僕も同じだ」
「わた……私は、貴方を、裏切ったのよ……クラーテス……」
それ以上は、もう声の震えを抑えることが出来なかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
ずっと謝りたかった。
優しい貴方を傷つけたことを、ずっと。
「もう良いんだよ。……やっと、名前を呼んでくれたね。僕の、可愛いイザベラ」
机を回り込んで、そっとイザベラを腕の中に包み込んだクラーテスが、耳元でささやく。
昔のように。
「何も話さなくていい。……だから帰ろう? 僕はまだ、君と二人で住むはずだったあの部屋に住んでいるから」
イザベラは、それ以上何も言葉にすることが出来なくて。
ただ、黙ってうなずいた。
二人の和解は長くなり過ぎるので、この辺りで。
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