03.当然ながら熊を食べるかの国の古代
熊の掌は中国では珍味で知られている。
少なくとも春秋戦国の頃からある料理で、晋の霊公は生煮えの熊掌に激怒して料理人を殺し、楚の成王は死ぬ前に熊の蹯(※足)を食べたいと願い、孟子は魚よりも熊の掌を食べたいと言った。
ただ確認できる熊掌のレシピは宋代まで下る。
それまでの料理書に見える熊の料理には、斉民要術の引用する食経にある『蒸熊法』あるいは同じく引用する食次に見える『熊蒸』という熊を丸ごと蒸す料理がある。
前者は熊の肉に火を通してから豆豉に一晩漬ける。
後者は皮を剥いて蒸す。それから二寸に細かく切り、鼓汁で煮たもち米、細かく刻んだ橘皮、胡芹、野蒜を加え、塩を振って更に蒸す。それから米を肉の間に挟んでひたすら煮る。熊の腹を割いて前述の材料を詰めて煮る方法もある。
また唐代の膳夫経手録には熊白──熊の肉は白い(※脂肪が多いため)と評される──があり、食譜には分装蒸臘熊や白消熊という料理がある。後者は脂肪分が無くなるまで焼いた料理だろうか。
熊は漢方薬にも使われる。
唐代の千金翼方には、熊の脂が薄毛に効く薬の材料に挙げられている。古代ローマの育毛薬にも熊の脂を使うが、漢方の方は塗り薬だし、他の様々な動物脂や漢方の草花と混ぜて作るから、その保湿性が毛根に良いと考えられたのだろう。
また熊の肝臓は、痔や下痢、心痛、難聴などに効く薬とされた。そしてこちらにも育毛作用があるという。
こうした使い道が書かれているように、熊狩りは古くから行われていた。
古代の中国で熊狩りが行われていたらしい記述は、例えば史記斉太公世家にある文王の朴辞に、「獲るところは竜に非ずミズチに非ず、虎に非ず、羆に非ず」というものがある。
逸周書には周の武王が熊151頭、羆118頭を生け捕りにしたというし、漢の武帝は猯狩りや熊狩りを好んでいたという。
武帝の狩猟は司馬相如の子虚上林賦にある。
その中で皇帝は秋から冬にかけて上林苑で狩猟に興じた。派手な装飾の馬車に乗り、狩猟行列の先陣を切った。旗がたなびき、太鼓の音が鳴り響く中、戦車と騎馬の集団は丘や沼地を巡り、様々な野獣を狩った。格闘し、鋋(※矛)で刺し、矢を放った。矢は身体を傷つけずに首や頭を貫き、外すことは無かったという。
実態はともかく壮大なパフォーマンスだったのだろう。史記司馬相如伝によれば司馬相如自身も武帝に同行して長楊宮での狩りに参加している。
山東や南陽などの漢代画像石に描かれる熊は、スマートな身体と短い尻尾、短い耳を持ち二本足で立つ動物として描かれる。
同じ石に描かれる牛(※兕)と比べて小柄に見えるのでツキノワグマだろう。熊が二本足で立つポーズ(※熊経)は、熊の生態的には匂いを嗅ぎとるとか周囲を見渡す意味があるようだが、当時は木に登るようなポーズとして表現していたという。
熊狩りを描いた絵は、北斉時代の九原崗北朝壁に見えるが、ここでも二本立ちをしている。
熊狩りは主に旧暦の秋から冬にかけて行われた。冬眠中を狙ったのだろう。
周礼の秋官司寇には、穴氏という蟄獸(※冬眠中の獣)を攻める役職がある。鄭玄注によれば巣穴の外で食物を焼いて誘い出すのだという。
異苑によれば、熊はねぐらを汚そうとしないことから、一人が囮となってねぐらに入って横たわることで、熊がそれを外に運び出そうとするので、熊が出てきたところをもう一人が槍で倒すという。
新修本草によれば熊は雍州各地に暮らしており、その狩りは旧暦11月に行われる。その時期が脂が豊富に採れるからだという。
漢書元帝紀には、永光五年(BC39)の冬に長楊宮にある射熊館で大規模な狩りをしたとある。また漢書外戚伝には建昭年間(BC38-BC34)に熊が一頭脱走して宮殿に侵入したことも記されているが、こちらも長楊宮での出来事だろう。
長楊宮は長安の西南西にある盩厔県(※周至県)に置かれた宮殿で、枝垂れ柳が茂っていた。秦朝及び漢朝における狩猟場であり、また行幸や使者のための宿舎を兼ねていた。
長安志によれば秦の昭襄王が射熊館を築いたという。秦簡によれば逃げた獣を捕らえた民衆には、それを官吏に送る義務が課されていた。
この宮殿での狩りについては楊雄の長楊賦で触れられている。
これによれば漢の成帝の頃、胡人に対して威勢を示すため、秋に右扶風の民に命じて南山に向かわせ、褒斜・弘農・漢中の各地で網と罠を使って熊を含む禽獣を捕らえさせ、籠に乗せて射熊館まで運んだという。狩猟場は網で囲われていて、皇帝は胡人が素手で動物と格闘するのを見物していた。漢書楊雄伝によれば狩りは一ヵ月続いたという。
こうした庭園や動物は虞人と呼ばれる管理人に管理されていて、狩りをするだけでなく、道を整備したり、樹木を保全し、必要があれば動物や材木を移送することもあった。捕らえる役目は梁者と呼ばれ、罠を設置して獣を捕らえた。
中国において、狩猟に使われる武器は主に弓矢だった。
史記の趙世家には熊を射るよう趙簡子が命じる場面があり、南斉の孔稚珪は長楊の宮殿に入った熊を射る近衛兵の武勇を白馬篇の詩に表す。
梁の元帝は宴の後、日暮れになると太鼓の音を合図に、中庭にあらかじめ放たれていた獣の狩猟を開催し、その場面を落日射羆の詩を書いた。
また北斉時代の九原崗北朝壁には、騎乗して弓矢で熊を狙う絵がある。
山に入って狩りに行くこともあり、北魏の明元帝は頹牛山で白い熊を射た。上党記には太行山で暮らす仙人が熊を射たといい、杜光庭の神仙感遇伝には北周武帝の時代に熊狩りのために山に入った話がある。
そして全唐詩には劉行敏の詩に「叔慎は黒馬に乗り、僧伽は漆塗りの弓を取る。二人は長安令を喚び、共に北山の熊を狩る」というものがある。
抱朴子には、奢侈な暮らしぶりの一面としての狩猟について、熊や虎を長戟で倒したと書いてある。
ほかに漢の広陵王劉胥は力自慢で、熊と素手で格闘していたという逸話が西京雑記にあり、また漢書には東方朔が熊と格闘できたという。この二つはどちらも眉唾だろう。西京雑記にある劉胥はやがて熊に脳天を勝ち割られて死んだことになってしまっている。
熊の毛皮の価値はローマより明確にあった。外交上の贈答品だったためだ。史記の夏本紀には、華陽(※四川)からの貢物の一つとして熊皮がある。また唐代には熊皮は蘭州や潭州からの貢物の一つとして挙げられている。
熊の毛皮は熊席(※敷物)に使われたほか、裘(※皮衣)や馬衣にも使われたし、周礼では方相氏が疫病を払うときの被り物として使われている。熊皮を使った帽子もあったようだ。
生きた熊も贈答品として使われていた。漢書景十三王伝には、越繇王が江都王の劉建へ熊を贈っている。また東観漢記によれば永初元年に永昌から小熊が献上されている。
夏朝の禹は熊に縁がある(※亡き父親が熊に変じたり、治水のために禹が熊に変じた話がある)ことから、後代にも禹への捧げ物として熊が用いられたことがあった。
日本が外国に献上した記録は無いが、日本紀略によれば貞観十四年に渤海国から熊の毛皮7枚が信物として提供されている。
日本の熊の記録では古事記に神武天皇が熊野を訪れた際、大熊に遭った話があり、また日本書紀の斉明天皇紀では越国(※こしのくに)の守である阿倍比羅夫が征討にて得た羆2頭と羆皮70枚を献上した。
播磨や出雲の風土記にも熊の生息を示すものがあるほか、万葉には山に棲む荒熊の詩が一つだけあるが、他の和歌集には見当たらない。
朝鮮でも熊を獲っていたようで、同じく斉明天皇紀には、高句麗の使者が熊皮一枚を高値で売ろうとして笑われた話がある。
インドの熊はナマケグマである。ツキノワグマと同程度のサイズで木登りをするが、夜行性で冬眠をせず、他の熊種と比べると攻撃性は低い。また一応、インドにはマレーグマやヒグマも棲息している。
世界各地でそうであるように、インドでも熊は崇拝対象(※ジャンバヴァン神)としても描かれているが、狩猟の対象でもあった。
7世紀の小説カーダンバリでは、主人公チャンドラピーダが騎乗して矢を放ち熊を狩る場面がある。また3世紀の動物寓話パンチャタントラの69話では、ラクシャダッタ王が象に乗って弓を構え、多くの軍勢と共に虎や熊や鹿を狩っている。
ブッダは滋養として熊の脂を食べることを認めていた。そうでなければ一般的には熊肉は食べなかった。
薬用としては熊の脂を軟膏に使うと言い、毛生えには使用しない。つまりローマと中国の両方に関連があるのだとしてもインドは経由しなかった。




