02.コロッセオの熊たち
「狩猟競技が8月28日に行われる。フェリクスは熊と戦うだろう。(CIL IV 1989)」
熊と人間の戦いは戦車競技場やコロッセオで開催された。
猛獣と戦う者は闘獣士と呼ばれ、その訓練を獣闘士学校Ludus Matutinusで受けた。社会的立場は剣闘士とあまり変わらない。武装は一般の剣闘士よりは軽装だが、充てられた役割に相応しいものを身に着けたようで、革製の装備を着る場合もあれば猟師の格好をすることもあり、ときには裸だった。武器としては壁画に長剣や弓矢、槍、棍棒などが描かれている。中には犬を連れる者もいれば、馬に乗る者も、象に乗る者もいた。
一方、熊の方は同じく獣闘士学校で熊番に飼育されていて、平時に人を襲わないように管理されていた。熊番には男も女もいた。猛獣の飼料としては牛が挙げられているが、後述のように罪人も餌として与えられることがあった。戦車競技が4つの色でチーム分けされていたことは知られているが、熊番も同様に4つのチームにそれぞれ所属していた。ただ法的には逃げ出した熊が人を襲っても所有者は責任を問われなかったし、逃げた熊を殺しても下手人は罪を問われなかった。(Digesta 9.1.10)
カッシウス・ディオは、競技場やコロッセオでの熊狩りを多数報告している。
例えばカリグラ帝は自身の誕生日に400頭の熊を用意し、亡き妹ドルシラの誕生日に500頭の熊を屠殺した(その翌日にさらに500頭の熊を殺した)。
またクラウディウス帝は帝位に就いた年に300頭の熊を殺し、ネロ帝は執政官になった年に400頭の熊を殺させた。コンモドゥス帝はコロッセオの柱の上に立って自ら槍で100頭の熊を殺し、セウェルス帝は船上の戦いを演出するために50頭の熊を競技場に用意したという。
競技場における猛獣との戦いは、戦車レースの合間に開催された。
熊との戦いについて例えばネロ帝の護衛兵は槍を使って殺したといい、プリニウスは闘獣士が熊の頭を殴って殺していたと書く。また壁画には曲芸師のように軽業で猛獣の攻撃を躱したり、複数人で連携して戦う描写もある。一撃か二撃で打ち殺すことが強さの証であり、何撃打っても獣を倒せなければ無能とされた。
大体の場合は闘獣士が勝利したが、猛獣が生き残って人気を得ることもある。闘獣士は(※不名誉ではあるが)負けそうになったら逃げることができたし、樹木や回転パネルなど身を隠す場所も用意されていた。また動物が逃げないように柵や網で囲ったり、周りに堀を掘ったりもしていた。コロッセオの床下が開いて猛獣が登場することはよく描写されるが、ときには檻に入れられたまま入り口から運ばれてきたりもした。
猛獣同士での戦いも開催された。マルティアリスは『見世物の詩』において、ローマのコロッセオで行われた試合で、サイの突進を受けて熊が吹っ飛ばされたことを詩にしている。ラデスのモザイク画には名前付きの熊がダチョウを追いかける姿があり、またズリテンのモザイク画には闘技場で熊と雄牛がぶつかり合う姿が描かれている。
怪我をした獣の治療をする獣医もいて、獣医自身が闘獣士を兼任していることもあった。
熊は死刑囚の処理にも利用された。
セネカは朝方のコロッセオで死刑囚が熊やライオンの中に投げ込まれていたと書く。
罪人たちはシンプルに杭に拘束されて喰われたか、拘束されることなしに猛獣に喰われた。ときにはプロメテウスとして岩に縛り付けられたり、オルフェウスの装いで熊を宥めたり、ダイダロスの姿で空を飛ばされるといった演出の中で食い殺された。たまたま食われなかったときは別の猛獣が差し向けられたり、異なる処刑方法が採用されたようだ。
マルケリヌスによれば、ウァレンティアヌス帝は罪人を喰わせるための雌熊を二頭飼っていて、自室の傍をねぐらにさせて名前まで付けていた(Mica Aurea と Innocenti)という。
そのほか熊は見世物として展示されたり、パントマイムや熊踊りを披露するために利用されることもあった。マルティアリスは猛獣使いが手綱を使って熊を操っていたと書く。
コロッセオの熊たちは帝国各地から運ばれてきた。
近場ではルカニアやテッサリアの山地。またリュカオニアやキリキアなどトルコの山地に棲むシリアヒグマ。リビアやヌミディアのアトラスグマ。そしてゲルマニア属州やダルマチア属州、ノリクム属州のユーラシアヒグマ。基本的には帝国の支配の及ぶ地域だが、カレドニア──すなわち西暦80年当時、軍事侵攻中にあったスコットランドからも連れて来られた。
動物はローマだけでなくカプアやコリントス、さらにはロンディニウムまで各地の会場にも輸出されていたが、ローマのイベントと比べると小規模だったし、獣の購入や輸送コストの都合から展示やパフォーマンスを行ったり、あるいは殺傷性の低い縄や鞭で戦うだけであまり殺されなかったようだ。ディオクレティアヌス帝の最高価格令によれば熊の価格は2万5千デナリウスで、牛2.5頭分に相当する。
帝国内で熊を捕らえるのは主にローマ軍団の職務だった。こうした仕事は熊狩り役ursariiが負い、追跡役や罠係など基本的には複数人で捕らえた。彼らは軍団内でも特に熊狩りの技能に長けた者たちで、そのために一部の軍務を免除されていた。
エスクイリーノのモザイク画からは、まず網で囲い地を作ってから檻の上から餌を垂らし、一人が檻の擦り上げ戸を構えている間にもう一人が何頭かの犬と共に熊を追い立てることで、檻の中に閉じ込めようとしているようにみえる。二人は鎧を身に着けず、軽装で事に当たっているようだ。
他の狩猟モザイク画には、熊は描かれないものの例えばテストゥドのような密集隊形で(※上部には盾を構えない)猛獣を抑え込もうとしているように見えるものもある。
捕獲する際の武器は主に鞭で、大規模な狩猟が行われるときには担当部隊に支給され、商品に傷をつけないようにしていた。
大規模遠征を主導するのは現地の百人隊長で、皇帝の特別な催し物のために動員される。そして一ヵ月から一ヵ月半ほどの遠征をして猛獣を捕まえる。長い例では半年ほどかけて50頭の熊を捕まえた百人隊長もいた。テウルニアやモエシアなどの碑文によれば、彼らは女神ディアナやシルウァヌス神に捧げ物をして狩猟成功への感謝を捧げてきた(CIL 03 04738,AE 1987 867)。こうした形の熊狩りの記録は西欧に多く残る。
グラティウスの狩猟詩Cynegeticaでは、湿っていない麻糸で編んだ袋でなら熊を閉じ込めることが出来ると書く。
またアパメアのオッピアヌスの狩猟詩Cynegeticaでは、アルメニア人による熊の捕獲方法を記している。
そこでは、犬に熊の足跡を辿らせて巣穴を探し出すと、まず杭を打って周囲に網を張り、網の両翼に二人ずつ男を伏せさせておく。それから狩人がサルピンクス(※トランペット)を鳴らすと熊が唸り声をあげて飛び出してくる。そこで、男たちが一斉に突撃すると、熊は驚いて逃亡するので、伏せていた男たちが連携して網の中に包み込んで捕らえる。なおも暴れる熊に対して、最も屈強な男が熊の足を縛って木の板に張り付け、熊が身体をよじるのに合わせて樫と松の檻に閉じ込めるという。
キリキアのオッピアヌスも、犬を使って熊の巣穴を探し出せるという。
さらにネメシアヌスの狩猟詩Cynegeticaでは、鳥の羽を付けたロープで囲い地を作ることで、熊など野生動物を怖がらせて、ロープの境界から逃げられなくするという。
捕獲された熊は、一時的にケルンにある移送用あるいは兵站用の囲い地で管理された。
民間の事業者が熊を捕まえることもある。彼らが捕まえた熊は見世物用に仲介業者に売り飛ばされたか、猛獣の関わる公演の開催を望む政治家あるいはその代理人に買い取られた。
熊は動物輸送の契約をした海運業者の船に乗せられ、航海には半月から一ヵ月超。基本的には檻に入れられたまま海路で運ばれ、オスティア港やプテオリ港で荷卸しされる。動物は検査を受けた後、陸路を車で運ばれるかあるいはテヴェレ川を遡上する。途中で船が難破したり弱って死んだ動物もいたという。それから野生の熊はまず前述の獣闘士学校で人を襲う訓練を受けることになる。調教には鞭が使われていた。
熊は訓練を終えると競技場に移送される。そして到着してからは、コロッセオの地下には動物を入れる檻があるので、興行の日が来るまでそこにいたのだろう。これらの間に猛獣が人を殺すと所有者が罰金を払うことになる。
それだけでなく法律には熊を飼うときは鎖で繋がなくてはならない(Digesta 21.1.40-41.)、人通りのある所で熊を飼ってはならない(Inst. 4.9.1)とあるから、こうした宿命の熊だけでなく見世物用動物の飼育場に送られた熊や、前述の皇帝の私物のように裕福な市民に飼われる熊もいたのだろう。
捕獲だけでなく、狩猟も行われた。
古代ギリシアの頃と同様に、田園では熊や猪は人間一人では太刀打ちできない猛獣であり害獣だった。ホラティウスの抒情詩では、羊小屋の周りで唸る熊をローマにおける不幸の一つとしている。そしてローマ軍は地元民の要請を受けて害獣駆除を担当することもあった。ゆえに熊狩り興行の価値は、皇帝の権威や帝国支配の拡大に関するアピールだけでなく、そこにもあると考えられる。
シケリアのディオドロスは熊狩りについて、勇敢で小柄な犬を放てば熊が逃げるので、そこで弱点である柔らかい熊の踵を攻撃すれば止めを刺すまでじっとしていると書く。
ハドリアヌス帝やヴァレンティアヌス2世帝など熊狩りを好む皇帝もいた。ハドリアヌス帝にはミュシアで狩猟をした碑文が残っており、コンスタンティヌス凱旋門に残るハドリアヌスの浮彫にも騎乗して熊を狩る姿が描かれている。またヴァレンティアヌス2世帝はローマかどこかの私有の飼育場で熊やライオンの狩猟をしていたという。
熊を食べたかどうかは明瞭でない。サテュリコンには貧乏人が熊に喰われるなら熊が貧乏人に喰われてもいいはずだとあり、黄金の驢馬では他に食べるものがない庶民が熊の肉を食べている。
ガレノスは熊を食べる者もいると書くが、その上で不味いし健康にとても悪いと書く(※De alimentorum facultatibus)。料理書に記述はない。食べたかもしれないが、一般的ではないというのが良いだろう。
熊の毛皮は異民族の装束とされていた。
古代の裕福なゲルマン人は熊の毛皮と共に埋葬されていたし、ストラボンはマウレタニア人が熊などの毛皮を纏ってその中で眠っていたと書いている。
しかし買う人間はいたようで、最高価格令の毛皮の項目には熊毛皮100~150デナリウスとあり、職人3日分の給料に相当している。
熊の死体のより積極的な利用法は薬の材料だった。用法や効能はガレノスとプリニウスがまとめている。
例えば熊の肝や睾丸はてんかん薬の材料と考えられた。肝は他にも肝臓や黄疸、喘息や神経痛の治療薬として扱われた。
また脂肪は育毛剤に使えるという。熊が毛むくじゃらなことと関係するのだろうか。プリニウスは樹脂やシダ草を混ぜて使うよう指示し、ガレノスは髪が抜けないようにする薬として乳香やフェンネルなど大量の材料を加えて仕上げに熊とアザラシの脂肪を加えて鉛の容器に保管し、ときどき食すようにするとある。
他にもプリニウスは熊の脂肪が痛風や潰瘍、火傷に効くといい、ガレノスはしもやけに効くと書く。ディオスコリデスによれば熊の腎臓から良質な熊脂が採れるとし、冷たい水に漬けてから膜を剝がして擦り取るという。
そのほかの用途として、プリニウスは樹木の剪定の後、剪定ナイフに熊の血を擦りつけることを推奨している。
帝国の拡大と共に多くの熊が狩られるようになり、死体の有効な利用法が編み出されたのだろう。




