第七話 居場所
蒼葉が、いなくなった。そう聞かされたとき、私の心にはぽっかりと穴が空いたような感覚が残った。
「自己都合退職」という言葉は、あまりに唐突で、実感のないまま耳をすり抜けていった。
管理塔を出た私は、居住エリアに続く道を、あてもなく歩いていた。その後ろからは、生暖かい追い風が、楓さんが、私を見守ってくれていた。
「ちょっと、ひとりにしてくれませんか?」
私の声は、私が思ったより、冷たかった。
「わかりました……。」
そう言い残して去っていった楓さんの背中は、遊び相手を失った幼子のようにも見えた。
私はあてもなく、蒼葉を探し歩いた。
居住区、農園、港、そして、リングの乗り物の、中。
太陽はいつのまにか傾いて、車両の窓から陽が射し込む。
やっぱり。この空は好きになれない。
しばらくすると、雨が降ってきた。遠くの空が晴れているせいか、二重の虹が空に伸びている。何周目かの管理塔駅を降りて、私はまた、まっすぐに歩き続けた。そして、居住エリア北側の入口付近にある、人工ビーチのあたりで歩みを止めて、座り込んだ。
蒼葉に会いたい、会わなければならない。でも、会って、どうしたらいいんだろう。
そんな悩みが杞憂に終わりそうな夕闇の視界に、急に映り込んできたのは、真っ白な手から差し出された、球形のペットボトルだった。
「これ……。」
私はそれを受け取らなかった。
しばらくそのままにしていると、楓さんは私の横に、並んで座ってきた。
「今日は……一緒に、夕飯を作りませんか?」
私にはその言葉が、何とも呑気に聞こえてならなず、思わず立ち上がってしまった。
「人の気もしらないで!私は、蒼葉に、会って言わなきゃ、いけなかったのに!」
正しい怒りなのかもしれないし、もしかしたら八つ当たりなのかもしれない。楓さんは少し驚いたような顔をした後、私と同じように立ち上がって、まっすぐに私を見て、言った。
「ねえ、灯里さん。あなたは、その彼に本当に恋をしているんですか?わたしには、あなた自身があなたを愛するために、きっと赦してくれるだろう彼に、ただ謝罪を聞かせつけたいようにしかみえません。」
なんて酷いことを言うのだろうと、憤りたかったのに、私のことを支配している脳だか心だか分からない部分は、私に沈黙を命じていた。
「幼い頃に犯してしまった原罪。灯里さんがしたいのは、それの贖罪に見えます。感じているのは、責任……ですか?わたしが言えたことではないのかもしれませんが、恋とは、相手を思い慕う気持ちであって、それは内向きの矢印ではないはずです。わたしたち能力者は、世間からどこか隔絶されているせいで、『幸せ』を知り難い存在です。だから……」
だから、彼のことは諦めろと、そう言うつもりなのだろう。頬に重く熱い涙が伝う。楓さんの言うことは、確かにひとつの正解なのかもしれない。それでも、私にとっては、大切な過去の時間であって、忘れてはいけない、私の、悪いところであって……。
「でも、私、蒼葉に会って、ちゃんと謝って、でも、綺麗な、綺麗な火って言ってもらいたくて、だから……。」
気づけば、声に出ていた。
「ぜんぶ、自分のためですよね?」
私はまた、何も言えなかった。
「わたし、灯里さんのこと、好きだし、素敵だと思ってます。会ったときから、この人とはきっと幸せな時間が過ごせる。この人のこと、いっぱいの幸せで包みたい。そのためなら、わたし何だってしたいって、思ったんですよ。わたしにとって、誰かを想うって、こういうことです。」
帰り際、楓さんは私に手のひらを見せるよう促した。意図がわからず少し固まってしまったけど、私は言われるがままにした。
私の手には、小さな貝殻が載せられた。楓さんはもうひとつ、同じ貝殻を持っているようだった。
「思い出……です。こういうの、初めてだけど、おそろいです。」
結局、私はまた楓さんの家にお邪魔することになった。私はいま、寂しいのだと思う。
「ね、灯里さん。お料理するのに、灯里さんの『火』使ったことあります?」
ただ無愛想に首を横に振る私に、楓さんは明るい声で続ける。
「え、もったいない。じゃあ、一緒にやりましょ!力のコントロールのやり方、教えますから。」
楓さんは、私を元気づけようとしてくれているのだとわかった。
「みて。灯里さん、こうです。やさしい気持ちで。でも、強くしたいときは、ぎゅって、自分の力を抱きしめてあげるような気持ちで。ほら、風で野菜が切れました。すごいでしょ。じゃあ次は、灯里さんの番です。」
私は、言われるがままに火を灯す。楓さんは、あたたかい風で、私のサポートをしてくれた。
結果として、ちょっと焦げたりはしたものの、いままで体験したことのないような、非日常的な「日常」のような、穏やかな時間を過ごせた。気づけば私は、楓さんと一緒に笑い合えてしまっていた。
「美味しいね、灯里。あ、灯里さん。ごめんなさい。」
「いいですよ、楓さん。私のこと、そのまま『灯里』って呼んでください。」
「え、じゃあ、灯里もわたしのこと、『楓』って呼んでください!」
「いいんですか?」
「いいに決まってます、灯里。」
透きとおるように真っ白な楓が、少しだけ頬を赤くして照れくさそうにしている。こんな会話、するはずじゃなかったのに。こんな顔、見せられるつもりじゃなかったのに。純な心が目の前にある。それは恐ろしくも美しく、私の心を温めてくる。もしかしたら、私も同じような顔をしているのかもしれない。
ふたりで囲む食卓は、私が今まで食べてきたどんな料理よりも、幸せで、なによりも美味しく感じた――。
翌日、何かに起こされるでもなく、自然と目を覚ますと、楓はまた私よりも早く起きていた。
「おはようございます。ぐっすり寝られたみたいで、よかったです。」
不思議と、何の夢も見ない夜だった。
しばらくして、身体を起こした私の耳に、空が怒号をあげるような、重たく鈍い轟きが響いてきた。こんなにも荒れ狂う雷鳴を、私はこれまで聞いたことがなかったからか、肌の奥まで震えるような感じがした。
「大丈夫ですか?雷の音、苦手なら、わたしの風で和らげますよ。」
私が頷くと、楓は小さな風を起こして、外の音を取り除いてくれた。
「ありがとう、楓。」
私の言葉に、楓はにこやかな、優しいお姉さんといった様子の微笑みを見せる。
「私が創りたいのは、灯里が嫌な思いをしないで済むような、『居場所』ですから。」
しばらく経っても、雷雨はその激しさを留めたままだった。
「楓、それは……?」
楓は、持ち運び用のバスケットを手にしていた。中には、とりどりの具材が挟まれた、サンドイッチがぎっしりと詰まっていた。
「作りすぎちゃいました。一緒に、食べようと思ってたんです。灯里と。」
楓は、窓の外を眺めながら悲しそうな顔をした。
「本当なら、晴れ予報だったんですけどね。せっかくのオフの日なのに、嫌な天気です。」
ふたりで、窓の外をただ見つめる時間が、数分くらい続いた。先に、この沈黙を破ろうとしたのは、自分でも驚いたが、私だった。
「せっかく作ってくれたんですし、どこかで、一緒に食べませんか?」
楓は、意外にもすぐには頷かなかった。何かをじっくりと考えるような様子を見せて、小さく、「午前中なら、大丈夫ですかね」とか、独り言を言っているように聞こえた。
そして、楓の中で何かが整ったのか、また、にこやかな表情で、私の方を見た。
「じゃあ、今日は、管理塔の中を、探検しましょうか。わたしが灯里を案内してあげます。」
このとき私は、楓がどうしてその場所を選んだのか、わからなかった。蒼葉がいなくなった今、あの場所に行ってもなんの意味もないような気さえしていた。
それでも私は、気づいたらまた綺麗に洗濯されていた制服に、袖を通している。それは、彼女の次に放った一言が、私の頭の中のどこか大切な場所に居着いて離れなかったせいなのだと思う。
「この島の『普通』を、知ったらきっとびっくりしますよ。みんな、幸せそうですから。」
楓に連れられて、管理塔内部を歩く。管理塔の高層階は、主にこの島の電気の流れを管理したり、この島の警備を担当したりする人たちのフロア。低層階は、主に発電業務に携わる人たちのフロアと分かれているらしい。
「灯里、そっちは地下フロア行き、職員の子どもたちが通う『ゆりかご園』があるところですよ。今から向かうのは、わたしが所属する、再エネ事業部の、ちょっとした『良い場所』です。」
楓がエレベーター内のカードリーダーに、職員パスをかざす。「B3」と書かれた階以外の全てのボタンが、うっすらと白く浮き上がる。
「押してみますか?」
楓に指示されるままに、私は「7」のボタンを押した。
「もしかしたら灯里、わたしたちの会社のこと、好きになっちゃうかもしれませんよ。」
楓は、時おり時刻を気にするような素振りを見せながらも、私と目が会う度に、にやにやと笑った。
ポーンという少しこもったような音とともに、扉は開いた。
私の視界に飛び込んできたのは、まるで公園のような、大きくて、高くて、広い、空間だった。
「ちょっと、急げますか?そろそろなので。」
楓の声に急かされて、広場の中央に向かう。天井は高く、真っ黒で見えないくらい。どうやら、7階より上の数階分は、回廊式になっていて、中央が吹き抜けになっているらしい。
「さん・に・いち・ゼロ。」
瞬間、あたりにミストのようなものが満ちたかと思うと、中央に高く高く、水が噴き上げた。次々に打ち上がる水の線は、やがて水の壁となり、そこには色とりどりの映像が投影されていく。
「き、きれい……!」
思わず、小さな火花が舞った。
間違いない。楓は、これを見せたかったのだろう。そう確信させるようなキラキラとした眼差しは、私のすぐ側に迫っていた。
「12時の時報ですよ。これから昼休みに入る人が多いです。わたし、ここ大好きなんですけど、普段はあまり見られないんです。」
私があまりに魅入っているからか、楓は語るのをやめて、一緒に鮮やかな水の劇場の移ろいを、静かに眺めていてくれた。
水の勢いと音が、少しずつ弱まり始めたのは、5分か、あるいは10分くらいが経った後だったと、思う。それと同時に、楓が、またゆっくりと、語り始めた。
「わたしの仕事、けっこう長く続くこともあって、気づいたら過ぎてたり……、そもそもお昼には……」
楓がその続きを言おうとした、そのときだった。
ピンポンパンポーン。
無機質な音に続いて、また無機質な音声が、あたりに響き渡った。
「加賀屋事業部長、加賀屋事業部長。至急、『ムーラン』まで、お越しください。繰り返します……」
楓は、ふうと溜息を吐いてから、やるせなさそうな顔で、私に告げた。
「やっぱり、午後から需給逼迫するみたいです。予報外れの雨でしたから、こうなる気はしてました。」
いまいちよく理解できていない私のことを察したのか、楓は説明の言葉を変えてくれた。
「休日出勤ってやつです。行ってきますね。でも、わたし、今日灯里と一緒にここに来れて、ちょっとでも一緒に素敵な時間を過ごせて、本当に幸せでしたよ。ありがとう、灯里。」
「そうだ、帰り方、分からなかったら、周りの職員たちに聞いてくださいね。灯里の指紋は登録しましたから、いつでもわたしの部屋には入れます。あとこれ、一緒に食べたかったですけど、食べててください。食べきれなかったら、無理して食べなくてもいいですからね!」
バスケットを手渡しながら、そう言い残して去っていく楓の背中には、強い使命感のような、誇りのようなものが、感じられたような気もする。
噴水の霧が晴れていく。目の前の光景に夢中で気づかなかったけど、あたりには職員とみられる人たちがいた。そうだ、ここにいる人たちはみんな、働いているんだ――。
「さっき、事業部長と一緒やったってことは、発電の人やんな?」
何をするでもなく、しばらくぼうっと立っていたら、急に聞き慣れないイントネーションの男の人に話しかけられ、戸惑った。
「これ、渡してきて欲しいねん。あいつまた、弁当忘れていきよったわ。地熱の『姫野』、たぶん8階行ってもろたら、誰かしらあれの居場所を知ってる人がおるはずやわ。ほな姉ちゃん、よろしくな。」
私が返事をする間もなく、その人は走り去っていった。去り際にちらっと見えた名札には、「警備部」、そして「紀本冬夜」と書かれていた。
どうしよう、とりあえず、8階に行けばいいのかな。
エスカレーターを見つけて、ひとつ上の階に行く。ただ、私の歩みはここで止まることになる。「地熱」と無造作な字で書かれた張り紙の貼ってある部屋に入るには、どうやら職員パスが必要なようだった。
しばらく、人が出入りするのを待った。けれども、なかなかその瞬間は現れない。
誰かに言って、開けてもらおう。
私は、休み時間にもかかわらず、忙しそうに歩く人たちのなかに、何とか話しかけやすそうな人はいないか、探してみた。すると、しばらくして、茶色い内巻きのボブの髪をした、いかにも優しそうな女の人が通った。
「あの、すみません……。」
「どうしたの?社会見学?」
言われてみれば、そう思うのも無理はないと思った。そして、私はいま、この人に話しかけた自分を、割としっかりと褒めたいと思えるような心地になった。
それは彼女の名札に、「地熱」、そして「姫野詩温」という文字がしっかりと書かれていたからだった。
「あの、これ……。」
「わ!わたしのお弁当だ〜!これ渡してきたの、こわーいお兄さんだったでしょ。頼まれてくれて、ありがとね!」
まるでお手本のような、「うれしい」の顔が、そこにはあった。
「あ。お姉さんわかったぞ。あなた、ひとりできたってことは、職場体験の子でしょ。お姉さんが色々教えてあげる。でも、その前に、お礼しなきゃね!お昼はいまから?」
早口な姫野さんの最後の問いに、なんとか私が頷くと、彼女はウキウキした様子で、「じゃあ一緒に食べよ!」といって、私を7階のベンチに案内した。
「あ、そうだ。お姉さんのことは、詩温お姉さんって呼んでね!で、あなたのお名前は?」
「私は日向灯里です。よろしくお願いします。姫野さん。」
詩温お姉さんは、分かりやすくむすっとした顔をして、「現代っ子だなぁ」とか言ったあと、「ま、いっか!」と笑った。なんというか、かわいい人だなと、思った。
変わった人のようにも見えるのに、でもむしろそんな「素」の姿がある「普通」の女の人みたいな気もしてくる。この人も、能力者……のはずなのに。
「お弁当って、冷たくなると味が落ちちゃうじゃん?でもね、こうすると、ほら!あったかくなっちゃうんです!すごいでしょ〜。」
また、自慢のお手本のような表情で姫野さんが言うので、私はとても、自分は火の能力で料理してますなんて、言えなかった。
「あなたのお弁当も見せて!……おっと、サンドイッチかぁ。じゃあ、このハムとチーズのやつとかどう?あっためたら、とろんっとろんだよ!」
姫野さんは、私が差し出すよりも早く、ウェットティッシュか何かで手を拭いてから、ハムチーズのサンドイッチを握って、ゆっくりと温めてくれた。
「どう?おいしい?」
こんなに覗き込まれると、食べにくい。
「おいしい……です!」
でも、これは本心だった。あったかくて、やさしくて、満たされるような味だった。
「でしょでしょ!なにしろ『愛』がこもってますから。」
得意げな姫野さんは、私が新しいサンドイッチを手にするたびに、ひとつひとつ、丁寧に温めてくれた。ただ、だんだんとそれが、私のある言葉を待っているような行動にも見えてきて、ちょっと、面白かった。面白かったから、言うことにした。
「ひとつ、食べます?」
「え!いいの?実はね、その言葉を待ってました!」
正直な人だなと、思った。
「ねえこれ、あなたが作ったの?」
温めた玉子のサンドイッチを食べながら、姫野さんは聞いてきた。
「いいえ、これは、私の……」
「わかるわかる、皆まで言うでない。私にはわかるよ。これ、あなたの大切なひとが作ったんでしょ?だって、こんなにも、やさしーい『愛』がたくさん詰まったお料理なんだもん。」
いいえ、それは。言おうとした言葉は、どこかで詰まった。楓……。楓が大切な人じゃないなんて、言えないし、実際大切だと思った。今の私にとって、楓は……お姉さん?そんな感じの人なのだと、思う。でも、そしたら、あの社長がお父さん、か。
よくわからないことを、漠然と考えていると、姫野さんは、私にスプーンを差し出していた。
「お礼に一口あげようじゃないか。私の大切なひとの、特製カレー。うまいぞ〜!」
甘口のカレーは、ほんのりチーズのような味がして、あったかくて、ほんわかとしていた。この人の表情は、これによって作られているのだと感じたと同時に、どうやったらこんなにもふわふわな優しい味を、あの強面関西弁お兄さんが作れるのだろうという純粋な疑問まで湧いてきた。
「ねえ、また一緒にランチしようよ。いつでも来てね。待ってるから!」
気づけば、あっという間に昼休みの時間は終わろうとしていた。
「ありがとうございました、姫野さん。」
そう言って別れようとする私のことを、姫野さんは、表情を変えないまま、見つめ続けた。
あ……、そうか。
「ありがとうございました。詩温お姉さん、また、ご一緒させてくださいね!」
「うん!またね、灯里ちゃん!」
ふとひとりになって、我に返る。私はいま、びっくりするくらい、「普通」なひとときを、過ごしたんじゃないかと、思った。
ちょっと……いや、すごく、たぶんとても、嬉しかった。
気づけば私は、何かの栓が抜けたように、笑っていた。
私って本当は、こんなふうに笑いたかったんだと、思った――。
2025/05/22 旧第七話「炎と風」の前半部分を残し、後半部分を新規追加。
2025/05/24 ルビを追加。




