第一話 「火」日常
夕焼けの空は、嫌い。青かったはずの空を、焼き焦がしているみたいだから。
『灯里……!熱い、熱い!やめて、やめてくれ!』
あの日、あの夏の、夕暮れ。
幸せだった私たちの日々は、焼け消えた――。
蔭野蒼葉――。
私が、はじめて……好きになった人。
私が、はじめて……傷つけてしまった人。
あの日。君は、皮の剥げた右頬を、焼け爛れた右手で必死に押さえながら、私を振り払うようにして、立ち去った。
あのときの表情。確かな拒絶の表情。
これが、私が最後に見た、君の「顔」だった――。
放課後の屋上。今日もまた、私はひとり、運動部の声がけたたましく響くグラウンドから目を離し、東京のビル街に沈んでいく太陽を眺めている。
もう、忘れてしまいたい。何度もそう思ったはずだった。それなのに、私は今日も、この空を眺めながら、君を思い出す時間を過ごしてしまっている。
忘れたくても、忘れない。いや、忘れられない、忘れたく……ない?
考えてもわからないことを考え続けているうちに、あたりは夜の世界へと呑まれ、空の炎は謐かに消火されていく。
私には、誰かを大切に思うことなんて、許されない――。
乾燥で霞んできたカラーコンタクトをそっと外して、私は藍色の空に右手をかざした。
私の右手からは、小さな青い炎が出て、しばらく燃えて、消えていった。
青い右目と茶色の左目。これが本当の、私。でも、隠さなきゃいけない、私。
「異能力者」の、印――。
誰かに見られないうちに、新しいの、つけないと。
トイレで予備のコンタクトをつけなおして、あまり帰りたくもない家へと向かう。
私だって、生まれたくてこの身体に生まれたわけじゃないのに。
駅から家までの道のりは、いつも風が強い。コンタクトがまた乾く。別に目が悪いわけでもないのに、これをつけないと私には「人権」がない。
途中、お揃いのランドセルを背負った、塾帰りの小学生とすれ違った。低学年くらいの男の子と、女の子。仲良く手を繋いで、迎えの車に乗り込んでいく。心に淡い羨望が浮かびそうになったので、すぐに消火しておいた。こんな感情なんて、無くなってしまえばいいのにと思った。
私の家は、東京郊外の、どこにでもある住宅地にある。
少し古い二階建て。庭もなくて、ただ車一台分のガレージがあるだけの、「普通」な家。
「おかえり、灯里。今日は遅かったのね。」
母の声はいつも通り優しかった。
食卓には煮物と味噌汁、そして焼き魚。私の帰りが遅いなんて、いつものことなのに、それでも母は、自身が「普通の母」だと信じる姿を、演じるのをやめようとはしない。
少しだけ、何かが焦げたようなにおいが漂っているが、これはきっと料理のせいじゃない。私の手だ。
「……うん、ちょっと寄り道してた。」
私は靴を脱ぎながら、いつも通りに答える。でも、今日は声のトーンを抑えすぎたのか、父の視線がこちらを向いた。
「まさか、学校で……何かあったんじゃないだろうな。」
スマホでネット記事を読みながら、顔を上げずにそう言うのが、うちの父親の「心配」の仕方だ。
「何もないよ。問題起こしてないし、誰も焼き殺してないから。」
冗談みたいに言ってみたけど、空気がわずかに張りつめた。
母は箸を止めて、小さく笑ったふりをした。
「もう、灯里。冗談でもそういうこと言っちゃダメよ。うちは『普通の家庭』なんだから、ね。」
「普通の家庭」って、何なんだろう。
娘が、火なんか出さない家庭?それとも、こんな娘なんて、そもそもいない家庭?
世の中の「普通」じゃない人たちはみんな、こんな思いをしているのかな。
母の得意料理である具だくさんの味噌汁が、今日はやけに冷たく感じた。
「ところでこれ、学校から?なんか変わった封筒が届いてたわよ。」
母がテーブルの端から、封を切っていない黄色い封筒を差し出してくる。
「光栄電力株式会社/能力者支援プログラムご案内」
私は一瞬だけ手を止めて、それから封筒を受け取った。
「じゃあ私、もう上がるね。」
「あら、もういいの?」
「うん。ごちそうさま。」
魚とご飯を少し残して、私は二階の自室に上がった。
ベッドに座って、封筒を指でなぞる。
聞いた事あるような、ないような社名。開封口には小さく「あなたのことを、必要としている場所があります」と書いてある。明らかに、怪しさ満載。でも、今の私には刺さる言葉だった。
この差出人の光栄電力とかいう会社は、どこで私の名前や住所を知ったんだろう。
学校のデータ?役所の戸籍とか?それとも、私の火を見た誰かが、ここに連絡した?
私は封筒を膝の横に置いて、深く息をついた。
開けるの?私。
開けるくらいなら、いっか。
もしかしたらこれが、私にとっての「正解」なのかもしれないと思うと、私の指は自然と未知の封を解き始めていた。
その先にあるのが希望の世界なのか、今までどおりの後ろ指を差される日々なのかは、まだ分からないけど――。
翌朝。私は学校に向かう電車の中で、昨夜見た「映像」のことを思い返していた。
吊り革を握る手に、まだ少し熱が残っている気がする。
あの封筒の中に入っていたのは、ただのQRコードだった。少しためらったけど、何も分からないままなのは、むしろ気味が悪い。
私はスマホをかざし、コードを読み取った。
リンク先には、5分ほどの動画。
アクセスは一回きり。URLも保存できない仕様になっていた。
再生ボタンを押すとともに、すぐに映し出されたのは、不自然なくらいに整った街並みと、どこか違和感のある笑顔の人々。
波の音。青すぎる空。島全体を取り囲む木製風の大リングには、都内では見たことないような乗り物が走っている。
そして、何よりも目を引くのは、不思議な形をした、白い施設群。その中央に立つタワーには、「ようこそ、夢と希望の人『天照島』へ。」と掲げられている。どうやら、この人工島の名前らしい。
「あなたの力は、まだ『否定』されるべきものでしょうか。」
画面の中のナレーションは、背筋をそっと撫でてくるような、穏やかな男の声だった。
言葉は、私の奥にある「何か」を、ゆっくりと、沸かしていった。
「異能力に目醒めた方々を、腫れ物のように扱う。僕はこれを、間違いなく悪であると断言いたします。暗黙の同調圧力と、『普通』を逸脱することへの極度の拒否反応。日本社会はこれらによって、世界に大きく遅れをとっています。2030年になったいまこそ、僕は、少し古い言葉ではありますが、ダイバーシティなくしてイノベーションはないと、皆さんの『個性』にこそ、力が宿るのだと感じています。皆さんが輝ける場所は、ここにある。」
映像はその後、また街の人々の姿を映し始めた。私はその中で、さっき感じた違和感の正体に気づくことになる。
みんな、コンタクト、してないんだ。
そこには、左右の目の色が異なる異能力者と見られる人々と、いわゆる『普通』に見える人たちが、笑顔で学び、働き、そして、家庭を築いている姿が映し出されていた。
本当に、こんな場所、あるのかな……。
映像を止めて、地図アプリを開こうとしたとき、親切にも動画は場所案内を映し始めた。
『皆さんの希望、天照島は、石川県能登半島から北に約50キロメートルほど離れた場所にあります。遠い!そう思われた方、ご安心を。羽田、関空、そして新潟空港から、直接アクセス可能です。ちなみに、輪島港から船もありますよ。電気船です。』
動画サイトの古い広告みたいな、ありきたりな演出や、効果音が続いていく。それでも、この語り手の声は、それらの陳腐さの一切を打ち消して、私の中にゆっくりと優しく、まるで手を差し伸べるかのように入り込んでくる。
『……空港や港では皆さんのプライバシーのために、行先表示をしていませんので、どの航路をお使いになる場合でも、朝9時にご集合のうえ、「北の灯台へ」と職員にお伝えください。皆さんのことを、適切に、丁重に、ご案内いたします。もちろん、交通費や滞在費用は支給いたしますので、ご自由にご観光のうえ、もし気に入らなければ、すぐにお帰りいただいても結構です。もっとも、すでに来られた皆さんは、居心地がかなり良いようで、ずっとこちらにお住まいになるという方がほとんどですけどね。その場合も、一度お帰りになって、しっかりとお考えになった上でのご転居を、おすすめしておりますのでご安心を――。』
『さて、最後に、光栄電力は経済産業省・資源エネルギー庁の後援のもと、この能力者支援プログラムを進めています。どうか皆さんの、居場所が見つかりますように。それでは――』
正直、胡散臭いようにも聞こえた。それでも、この声の主が語る「居場所」という言葉は、よく世の中のわかったふうな人達がいうそれとは、どこか違って聞こえるから、不思議だった。
そして、映像の最後。
職員たちが並んで、画面の先にいる私たちに手を振るシーンが流れたときだった。
「え……?」
私の口から、意図しない声が漏れていた。
だって、そこに映っていたのは――。
気づけば、私の足は学校に辿り着いていた。
チャイムの音は、どこか遠くで鳴ったように聞こえた。
ノートと、教科書を開いて、黒板を写す……はずだったのに。
黒板の文字が、ぼやけて見える。
教師の声も、プールの水の底から聞こえてくるみたいだった。
「……はい、じゃあ、日向灯里さん。この部分、光源氏が紫の上からもらった手紙を全部焼いてしまったのは、どうしてだと思いますか?」
指名された声に、私は反射的に立ち上がった。
でも、何も出てこない。教科書を開いていても、文字は目に入ってこなかった。
あの、映像の最後。職員たちの列の一番右で、ぎこちなく手を振っていた、マスク姿の男性。
わからない。そんなこと、ありえないとしか思えない。私の心に焼き付いて離れない願望が見せた幻に違いない。そう思っても、どうしても、もしかしたらという小さな小さな光を、拭いきれない。
「日向さん?」
気づけば、刺すような視線が集まっている。前から、後ろから、横からも。
私はうつむいて、かすかに震えた声で言った。
「すみません、……よく、分かりません。」
先生は小さくため息をつき、私に座るよう指示する。クラスメイトの誰かが、クスクスと笑っているのが見えた。
たった一度きり、見たのは一回きりだったはずだったのに、どうしてもあの映像のことが、頭から離れない。
島は自由を謳っていた。コンタクトをしていない人たち。笑っていた。何も、隠していなかった。私にはそれが、どうしようもなくまぶしく見えたんだ。あそこにはきっと、私の居場所がある。だから私は、こんなにも気になっているんだ……。
そう結論づけたくても、こんなの、無理に理屈をつけているだけだと思えてきた。
蒼葉――。
気づけば、私のノートの端には、小さな焦げができてしまっていた。
おまえは、火の化け物だ。そんな生き物に、幸せを追い求める権利なんてない。そう焼き告げられているようで、我に返った。
そうだ。もし本当に会えたとしても、きっとまた蒼葉を傷つけるだけ。それならもう、一生会わない方がいいに決まってる。
もう、変なこと考えるのは、やめよう。
心を消火して、今日も私は前を向く。
光源氏も、私とおんなじだったりして。そう思うとちょっと面白い。ちょっと、笑える。
笑うなんて、久しぶりだった。
2025/05/10 構成と表現の一部修正。
2025/05/17 冒頭部分の構成を一部修正。一部表現を微修正。
2025/05/19 一部表現を微修正。
2025/06/03 一部表現を微修正。




