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幕間:子守唄は歌わない

ネア君の継母の話です。一般人に比して自由な意識の持ち主が子供を置いて出て行く話ですので、ご不快になられる方もいるかと思います。この話を読まなくても今後のお話を読み進めるのに支障はありませんので、そのようなお話が嫌いな方は読み飛ばしてください。

 アルティオールの金糸雀(カナリア)

 その歌声は聴くものの心を震わせ、満たしてくれる。



 限りない贅沢に麻痺した特権階級の心を動かせるものは少ない。だが、彼女の歌は西の大国随一の歓楽街においても、熱烈な拍手とアンコールをもって歓迎された。


 16歳の時に夜会でデビューしてから約10年。ラナは常に一線級で歌い続けた。浮き沈みの激しいこの業界で、不動の地位を築くのは並大抵のことではない。



「西の大国ヘリファルテの下級貴族の第2子に生まれ、幼少のみぎりより彼女の歌は人々に感動をもたらしたが、ドラセナ一座で最高の教育を受ける中でその歌声は凄みをまし、今や稀代の歌姫(ディーヴァ)に登り詰めた。ラナ・アルティオールの半生はこのようにまとめられるだろう。」



 熾烈な競争を勝ち抜いた今宵の恋人が、次の公演の宣伝冊子(パンフレット)を芝居がかった口調で読み上げた。男は続いて次回公演の成功を祈って、彼女に贈り物をするつもりだった。しかし、何かが癇に障ったらしくラナの機嫌が一気に悪くなった。この話題を続けるのは明らかに得策ではなかった。男が機嫌を伺うようにラナを覗き込むが、それすらも彼女をイラつかせる。


 ラナは、不機嫌さを隠そうともせず廊下に出ると、薄いショールを身に巻きつけて自室に戻った。壁にクッションを投げつけて叫ぶ。



「なーにが最高の教育よ! 座長から教わったことなんて、金貨の数え方と男への取り入り方くらいなもんよ! それに、銀貨一袋で私を人買いのように引き取った一番感動的な場面が抜けてるんじゃなくって?」



 きつく巻いた輝く金髪に、意志の強そうなエメラルドの双眸。そして、ラナは激情家だった。こういった女性というのはなぜか男性陣から根強い支持を受ける。たとえ、何度汚い捨て台詞を投げつけようとも、最後の一線さえ超えなければ、「強情なところも可愛らしい」で済ませられるのだ。

 


 すでに察しておられる方もいるかもしれないが、ラナは、歌姫であると同時に恋多き女でもあった。



「この泥棒ネコ!」「貧民街のヒキガエル!」「蛙の声は、ほんとよく響くこと!」



 婚約者や夫を寝取られた女性からの風当たりはかなりキツかった。しかし、ラナはそれらを一笑に付した。



「艶やかさは偽りで、美しさでさえ束の間よ? 今は私のしたいようにするわ!」



 そして、(ただ)れた生活をおくっていたにもかかわらず、彼女が最も得手とするのは清らかな旋律だった。蓮っ葉な物言いなのにあどけなさが残る。妖艶なのに儚げ。そのアンバランスさが逆に人々を魅了したのだろうか。とにかく、天上から降ってくるが如き調べに人々は酔いしれた。彼女をよく思わない女性陣でさえ、ラナの歌には不覚にも聞き惚れてしまった。


 昼も夜も、無垢に、艶やかに、時にもの悲しく、彼女は歌い続けた。

 彼女はいつしかラナンキュラスの花に喩えられるようになり、アルティオールの金糸雀(カナリア)という二つ名に加えてに、饗宴のラナンキュラスと呼ばれることが増えた。




 そんな彼女の運命の歯車は、ある夜を境に大きく動き始めた。

 出番の終わったラナが頬を薔薇色に上気させて楽屋に戻ろうと暗い通路を歩いていると、壁にもたれて黒いシルクハットをくるくると回している男と出会ったのだ。偶然か必然かでいえば、必然だ。だが、彼女の恋はいつも必然だった。


 彼はサリオスと名乗った。


 黒い髪に整った顔立ち。しかし、どことなく遊びなれていそうな軽薄な印象を受ける。一言で言ってしまうと、彼は「危険な男」だった。


 だが、その危うさにラナは夢中になった。これまでに落ちたどの恋よりも、彼はラナを溺れさせた。歌に身が入らぬほどに。彼はラナが欲しい言葉を欲しいだけくれた。ラナはどんどんのめり込んでいった。


 座長が怒っても、後輩の歌姫達がこの機を逃してなるものかと目の色を変えても、パトロンが引いていっても、ラナは夢から醒めようとしなかった。


 ラナを冷たい現実に引き摺り戻したのは、嫉妬に狂った《魔女》の呪いだった。


 


 その日の夕暮れ時、二人でしどけなく横になっているとき、ラナは尋ねた。



「ねぇ、どうしていつも、そんな気取った喋り方をしてるの?」


「確かに、素で喋っているとは言い難いですね。でも、仕事中だから、仕方ないんですよ。」


「仕事中?」


 ラナが可愛らしく首を傾げる。サリオスはラナの耳に唇をよせて「貴女を夢中にさせるというお仕事ですよ」と答えた。歯の浮くような答えだったが、恋は盲目。ラナはここぞとばかりに身を寄せた。だが、彼はラナを抱きとめてくれなかった。



「ずいぶんと熱心にお仕事してるのねぇ? ちょっと熱心すぎないかしら?」



 見知らぬ声が響き渡るのと同時に、冷たい外気が部屋に入ってくる。豪華な部屋の窓辺に、一人の《魔女》が静かに佇んでいた。どうして《魔女》だと分かったかなんて、聞かないで欲しい。分かったものは分かったのだ。


 《魔女》は、これまでの女たちのように喚くことも、じめじめした恨みがましい視線を向けることもなかった。しかし、《魔女》が怒っていることは間違いなかった。そして、その怒りは純粋に男に向けられており、まるでラナのことなど眼中にないかのようだった。


 気に食わない。


 そう思った瞬間、生来の気の強さから、ラナは噛み付いた。


「あんた、誰よ? 女の嫉妬なんて見苦しいだけよ。さっさと出ていって頂戴。」


 しかし、横を見ると、彼女の愛しい恋人は明らかにマズいといった表情を浮かべていた。



「人間は黙ってなさい。」



 《魔女》が火花を散らせながらピシャリと言うと、ラナは声を出すことができなくなった。喉を掻き毟っても声はでない。諦めきれず詰め寄ろうとしたが、《魔女》が右手をあげると、動くこともできなくなった。


 《魔女》は動けないラナの横を通り過ぎて、サリオスの元まで優然と歩いていった。顎の下に指を這わせて上を向かせると、優しく微笑んでから「お仕置きよ?」といって、その腹に右膝を蹴り入れた。

 

「さて、あなたのことはゆっくり甚振ることにして、先にそちらのお嬢さんに泥棒猫に相応しい末路を用意してあげないとね?」


 《魔女》がゆっくりとラナのほうを振り向いた。その顔はあまりにも無表情で、さすがのラナも怯むくらいだった。


「ちょっとばかし歌がうまいからといって、調子に乗りすぎなのよね。うん、あなたにはこれしかないわね。《二度と歌えないように》」


 《魔女》はさらりと呪ったが、ラナにとっては死刑判決とも言える言葉だった。しかし、ラナは、残った気力を振り絞り、気丈にも口の端だけで笑ってやった。

 すると、《魔女》はいいことを思いついたと言うように、酷薄な笑みを浮かべて冷ややかに付け加えた。



「でも、そうね。あなたから最も遠いところにある愛についてだけは、歌うがいいわ。」



 《魔女》はそれだけいうと、男を連れて消えてしまった。



 残されたラナは我にかえると、《魔女》の言ったことを確かめるため、歌ってみようとした。しかし、声は出なかった。話すことはできるのに、歌おうとすると、途端に音が消えてしまう。クラシックも流行曲も、童謡すら歌うことが出来なかった。

 

 ラナは床に崩れ落ちた。



 その後、ラナのことをよく思っていなかった人達は、歌えなくなった歌姫(ディーヴァ)をここぞとばかりに罵った。彼女を金儲けや売名の道具としてしか見ていなかった人たちは興味を失い、知らんぷりをした。


 歌えない金糸雀(カナリア)にどんな価値があるのか?


 その問いの答えはラナに限って言えば、娼婦としてしか見られないというものだった。しかも、男達は一銭でも安く値切ろうとした。


 栄華を極めた歌姫(ディーヴァ)の転落劇は、歓楽街の格好の娯楽になった。もちろん、気位の高いラナに我慢できるはずもなかった。

 そして、一座からも、恋人からも、そして歌からも見捨てられたラナは、最終的に土砂降りの雨の中を薄い着物一枚で彷徨うことになった。



 濡れ鼠のような彼女を拾ったのは、一人の職人だった。元は良いところのぼんぼんだったらしく、世間に疎く、ラナのこともよく知らないようだった。



 結局、男に頼るしかないのか。少し休ませてもらったら出て行こうか。でも出ていって何をするのか。



 ラナの思考を遮ったのは赤ん坊の泣き声だった。ラナを拾った男が慌てて奥の部屋に駆け込みあやし始めたが、泣き止む気配はない。むしろ、不器用なあやし方に泣き声が大きくなった。



 子持ちかよ。



 ラナは思ったが、いつまでたっても泣き止まないので奥の部屋に行き、「かして」とだけ言って男の腕から赤ん坊を奪い取った。

 両手に抱いてみると、赤子と言うには大きかった。もう2歳になるくらいではないだろうか。遠い昔、弟や妹にしてやったようにあやしてやると、直、ラナの腕の中で規則正しい寝息を立て始めた。


「助かった。3ヶ月前に母親を亡くして、それから夜泣きが激しくなったんだ。いつもは泣き疲れて眠ってしまうまで泣いているんだが、君はすごいな。」


「そう。」


 ラナは、呟くように素っ気なく返事をした。



 子供の名前はネアルコスと言った。ネアは、ラナがいないと泣き疲れるまで眠れないようだった。他に行くあてもないラナは、これを口実にもう一日、もう一日と滞在を伸ばした。


 こうして半年間、ラナはこの親子と一緒に生活した。そして、半年後、ラナは男からプロポーズを受けた。


「わたしを知っている人が誰もいない、静かなところに連れてってくれるなら。」とラナは答えた。



 ラナの願いを聞き入れ、男は自分の故郷に彼女を連れ帰った。

 田舎の小国の、王都の外れのアパルトマンの一室で3人は暮らし始めた。



 ネアはとても大人しい子で、ラナによく懐いた。ラナを母親(ママ)と呼び、どこに行くにもついて来た。

 窓辺に置かれたゆりかごの中で眠るネアを見守る日々は、彼女の生涯で最も穏やかな時間だった。ラナもこのまま穏やかに時間が流れ、人生がゆっくりと色褪せていくのをただ見守るものだと思っていた。



 ある日、ネアをお昼寝させているうちにラナもうとうとし始めてしまった。夢か現か、ラナは陽だまりの中で子守歌を口ずさんでいた。幼き日に聞いた子守歌の旋律が記憶の底から浮かび上がるように口をついて出てきたのだ。ラナははじめ、自分が歌っていることにも気がつかなかった。その位自然に歌っていたのだ。


 「わたしから最も遠いところにある愛」とは言い得て妙だと自嘲気味に笑う。しかし、子守歌も歌であることに違いない。ラナは、ネアを寝かしつける時だけ、歌うことを許された。涙をこぼしながら歌うラナをネアは小さいながら心配してくれた。

 歌うことはラナにとって無上の喜びだったが、ネアのために歌うことは幸せそのものだった。


 たった一人の私の観客。


 歌うたび、愛おしさが募る。こうして、以前にも増して、ネアルコスはラナにとって大きな存在となった。


 

 リーンハルトでの平穏な日々は、2年半続いた。2年半しか続かなかった。


 

 その日、ネアが近所に出来た友達と遊びに行くのを見送った後、黒いシルクハットの男が訪ねてきたのだ。かつて自分が溺れた相手だというのに、ラナの心には警戒心しかなかった。


「まさか、貴女が母親をしているなんて、思いもよりませんでした。」


 物言いも雰囲気も変わっていなかったが、今のラナには胡散臭さしか感じられない。あの日、自分はこの男に失望したのだと唐突に理解する。

 ラナはゆっくりと口をひらいた。


「何をしにきたの。帰って頂戴。」


 思ったより冷たい声音だったが、彼は片眉を上げただけで軽くいなしてしまった。


「まぁ、そう言わずに。今日()仕事できたんです。単刀直入に言いましょう。もう一度歌いたくはありませんか?」


「もう歌えるわ。お帰りは窓からがいいかしら?」


「そうではなく、貴女の好きなように、自由に、心の赴くままに歌うということです。」


 彼はシルクハットを脱ぐと、髪をかき上げ誘惑するように笑った。今なら分かる。彼の浮べる笑みは、私の心を見透かし、嘲笑うものだ。どうしてあの時の私は気がつかなかったのだろうか。


「悪魔のような笑みね。同じ手は通じないわ。」


「それは重畳。簡単に落ちる女性はつまらないですからね。でも、もう歌えるようにしちゃいましたから。私、貴女の歌には本当に惚れていたんですよ?」


「サリオス!!」


「それ、偽名ですからね?」


 すぐに返された言葉に思わず声が詰まる。その隙に、彼はシルクハットを被り直すと、さよならも言わずに出ていった。



 ラナは再び取り残された。歌を失ったあの日と同じように。だが、あの日とは逆に澄んだ歌声が部屋に響き渡った。



 涙が次から次へと溢れてくる。今まで、私は自分の気持ちを騙してきたのだろうか。いや、ネアと過ごした日々の満ち足りた気持ちに嘘はない。ないはずだ。


 悩む時間はたっぷりとあった。しかし、いつも結論は同じだった。私は歌いたい。


 冬の初め、ラナはかつて所属していた一座の座長に連絡をとった。座長はラナが歌を取り戻したと知ると、飛んで来た。


 自分に残された歌姫ディーヴァとしての時間は決して長くはないだろう。決心した以上、全ては迅速に運ばねばならない。夫にはきちんと説明した。支度金のほとんどは無理を言って押し付けた。大家さんにもネアのことを頼んだ。思いつく限りのことをして迎えた冬の冷たい雨の夜。ラナは、いつものようにネアを寝かしつけると、心の中だけで別れを告げ、静かに家を出た。



◇◆◇



 アルティオールの金糸雀(カナリア)の復活の舞台は、私の強い希望で2年半を過ごした街の野外コンサートになった。

 4年ぶりの舞台でも、私の歌は観衆の心を満たした。


 幕が下りても私を呼ぶ声が鳴りやまない。耳に届くのは、アンコール。アンコール。アンコール! 



歌姫(ディーヴァ)、アンコールだ。」


 座長が拍手をしながら声をかけてくれる。


「私を誰だと思ってるの? 当たり前でしょう。」


 

 思わず半眼になってしまったが、私は再度所定の位置につく。だが、座長はまだ言いたいことがあったらしい。他のスタッフの中にも戸惑うように私を見るものがいる。



「本当にその曲でいくのか?」


「ぐだぐだうるさいわよ。私が決めたの。その通りになさい。」



 ピシャリとはねつけると、座長はすぐに諦め、舞台の袖に合図を送った。



 この3年間、私の心を支えてくれたのは間違いなくネアだ。たった一人の私の観客。かわいい坊や。

 なのに、私はあの子を捨てて、自由に歌うことをとった。我ながら自分の身勝手さには吐き気がする。頭では分かっていても、私は自分の可能性を諦めきれなかったのだ。

 今までだって良い母親とは言えなかったが、もはや母親ですらないのだろう。

 私に子守唄を歌う資格はもうない。だから、これは私が最後に歌う子守歌。


 高揚感を抑え、真っ直ぐ前だけを見つめる。


 ネアがフィナーレコンサートに来ている可能性は低い。父親は仕事だろうし、ネアを今宵この場所に連れて来てくれる人なんていないだろうから。でも、私はアルティオールの金糸雀。この名にかけて、たとえこの場にいなくても届けてみせよう。


 幕が再び上がっていくのを、私は挑戦的な笑みで見守った。初めの音はすんなり出た。



 その愛は偽り。全てはまやかし。



 家族ごっこはもうおしまい。

 だから、強く生きて。

 



補足


ラナの恋人とラナをもう一度歌えるようにした不審者は別人です。あえて分かりにくいように書いていますが、不審者の名誉?のために補足しておきます。


不審者はただ状況を利用しただけですが、ラナにかかっていた呪いを解いたために、とある高位の《魔女》の怒りを買い、魔力を根こそぎ抜かれて地上にポイ捨てされました。

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