祖父王と妖精姫
数日後、予定通りにヴァレンティナとエルンストはタザカン山の麓にいた。病み上がりのエルンストを気遣って登山はしないが、山頂から涼しい風が吹き下ろしてくる。初夏らしい草木が繁り、常緑樹である松や、もみの木からの芳香が爽やかだった。
ここに王家の所有物のコテージがあり、そこで久しぶりにのんびり羽を伸ばして過ごす予定だった。だが、秘書官であるエルンストに準備を任せると、結局それなりの人数となった。護衛騎士、メイド、料理人、馭者などなどである。
「結局エルに色々準備させて悪かったわね」
「いえ、お誘い頂けただけでとても嬉しかったので……」
エルンストは詰襟の普段着とは違う、動きやすいシャツとジャケットという服装をしていた。もちろん、言われた通りに防寒具も用意してある。
「エルにもうひとつだけお願いがあるのだけど」
「何でしょう」
同じように、ドレスではなく動きやすい軽装のヴァレンティナは、髪を後ろで三つ編みにしていた。
「今日は、お仕事がお休みの日じゃない? 私もすごく久しぶりにここに来たのよ。たまには、昔みたいに打ち解けて話をしてくれないかしら」
「……わかりました」
エルンストは深い緑色の瞳をさっと上に向け、記憶を掘り出すように瞬きをした。
「俺、多分こんな感じでした?」
「大体そうね」
照れ笑いを浮かべながら、エルンストは黒い髪を少し乱した。ヴァレンティナの即位以前、二人は『友達』という関係であった。ヴァレンティナは、彼以外に『友達』という呼称を使わなかった。エルンストが密かに、誇りに思っていることだ。
もちろん即位以前でも、たったひとりの王女であるヴァレンティナに馴れ馴れしくはできないので敬語は使っていたが、純粋な親しみだけで繋がっていた頃が戻ってきたようだった。
「久しぶりすぎて感動してしまうわ」
「昔を懐かしんで、また木にでも登りましょうか?」
手頃な木を探し、エルンストは視線を左右に送る。まっすぐに伸びた常緑樹が多く、どれも登りづらそうではあった。
「大人の木登りは危険らしいわよ、もう体重が重いのだから」
「そうですね、確かに」
笑い合うヴァレンティナたちを近衛騎士たちは見守り、預かっていたコテージの鍵を使って扉を開けた。
ヴァレンティナが家族でここに来たのは、父が亡くなる前のことだった。5歳の頃だったのでかなり記憶は曖昧なものだ。それでも管理人に掃除や保持修繕を頼んであるので、あまり傷んではいなかった。
「こういうのも、大人になってから来ると少し小さく感じるわね」
入ってすぐにあるリビングの天井は吹き抜けになっているが、木製の梁などがむき出しになっている。ただ普段は王宮の白を基調とした建物にいるので、木目調の小さなコテージは、別世界に来たように新鮮な気持ちになれた。
「裏庭でエルと話をしてくるわ。あなたたちは暖炉に火を入れて、食事の準備をお願いね」
懐かしいコテージの中を眺めるのはそこそこに、ヴァレンティナは裏口からまた外に出ようとする。タザカン山から吹き下ろす、清らかな冷気を吸い込みたくて仕方がなかった。
「いえ、我らもお供致します」
護衛騎士らがついて来ようとするのを、ヴァレンティナは制止した。
「結構よ。そんなに離れないし、エルもいるし、氷の妖精たちも遊びに来ているから」
建物全体を、先ほどまでとは違う冷気が這いよるように覆っていた。ヴァレンティナ以外には見えないが、氷の妖精たちの仕業だった。
「エルはちゃんと防寒具を身につけて」
「はい」
ついいつも通りに命令を下してしまうが、大事なことだった。言われた通りにエルンストは分厚いコートを羽織り、耳当てつきの帽子を被って手袋をはめた。
なお、ヴァレンティナは氷の妖精の血を引いているため、寒さを感じない。何の対策も必要ないのだ。むしろ冷気を吸い込み、普段より生き生きとしていた。
裏庭へと続く扉を出ると、思った通りに妖精たちが迎えてくれた。ヴァレンティナは氷の粒を飛ばして挨拶をする。
晴れているのに、ちらちらと雪まで降り始めた。不思議そうにエルンストが手のひらで受け止めるが、雪の結晶は儚く溶けるばかりだ。
「妖精たちが遊びに来てくれたみたいね」
「俺には見えません」
手を振るヴァレンティナの視線の先には、虚空があるばかりだ。
「そうなのよ、妖精は普通の人には絶対に見えないものよ。そしてうっかり姿を見せてしまうこともないの」
ヴァレンティナは戯れに今そこにいる妖精の姿をした氷像を作り出すが、恥ずかしがった妖精にすぐ壊されてしまう。エルンストは呆気に取られてそれらを眺めていた。
「だからね、私のお祖父様と妖精のお祖母様が出会ったお話あるでしょ?嘘なのよ」
「そ、そうなのですか?」
深い森の奥、ひとり歌を唄う美しい神秘的な女性、カフィーザにバスティアン王子がひとめ惚れをする。だが女性は妖精の姫であった。カフィーザ姫とバスティアン王子は様々な困難を乗り越えて、やがて結ばれる――というのが、エルンストの信じていたミアラ王国の愛の物語だ。この話は多くの絵本や小説、または歌劇になっている。
「ここで歌いながらのんびり薪割りをしていたお祖父様を、お祖母様が見つけて恋に落ちたのよ」
「ええっ」
信じていたロマンチックな幻想が作り話と知って、エルンストはわかりやすくショックを受けた。
「これが話すと約束していたミアラ王室の秘密。でもお祖父様が惚れ込んで、多少無理にでも迎えたという形にした方が、みんなお祖母様に優しくしてくれるでしょ?」
「ええ」
「でも実際は逆だったのよ。それどころか、お祖母様が、妖精の国に連れて行こうとしてたんだから」
「肖像画でしか拝見したことがありませんが、バスティアン王は素敵な方でしたからね。王子時代もさぞかし魅力的だったのでしょう」
ヴァレンティナの祖父、そして先々代の王であるバスティアン王。エルンストは脳裏にその姿を思い浮かべ、ため息をついた。彫りの深い眉から伸びる鋭い鼻筋、知的な光を宿す瞳は、ヴァレンティナの面立ちに僅かに繋がっている。
「でも、バスティアン王子が妖精の国に行ってしまわないで本当に良かったです。じゃないと俺はティナに出会えなかったから」
ヴァレンティナは妖精と遊ぶのをやめ、振り返った。
「やっとティナと呼んでくれたわね」
「……そうでしたね」
自分で驚いたように、エルンストは口をおさえる。
ヴァレンティナは冷たい空気を深く吸って落ち着こうとするが、ドキドキと胸が高鳴った。今、ティナと呼ぶのは、そして呼ばれても良いと思うのはエルンストだけだった。父を5歳で亡くし、母は15歳で亡くなった。祖父母のことは幼すぎて、ほとんど記憶にない。叔父一家は遠慮しているのか、いつも敬称を使う。
「ねえ、エル」
「ところで、どうして俺にこの話をして下さったのですか?」
「それは」
ヴァレンティナの予定では、結局お祖父様からプロポーズした話に繋げるつもりだった。だが話の腰が折れすぎて、最早どう繋げたらいいかわからない。
「何となくよ」
「はは、そうですか」
飾らない笑顔のエルンストの周りで、一斉に氷の精霊が囃し立てていた。精霊たちは、ヴァレンティナの気持ちを察しているようだった。
「話を戻すようですが、カフィーザ様はすごいですね。妖精の国を離れ、よく私たちの国に嫁いでくれたと思います。全く環境が変わるというのに、それだけバスティアン様を愛していたのでしょう」
「ええ」
そうしてカフィーザは、ミアラ王国に恩恵を齎した。氷の妖精たちとタザカン山の冷気によって生まれる氷の魔石を、安全に採掘できるように交渉したのだ。
それより以前は、強欲な人間に根こそぎ持っていかれることを嫌い、妖精たちは魔石に近付く人間をひどい冷気を浴びせて追い返していた。中には凍傷で耳や鼻を失ったものまでいる。それでも、氷の魔石は金や銀のように価値のあるものなので無謀な盗掘者が後を絶たなかったのだ。
今では、氷の魔石の輸出でミアラ王国は裕福になった。それが故に、妖精の血を引くものの王位も欠かせないのである。
「エルは、愛するひとりのために、今までと全く違う暮らしを選べる?」




