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敵と味方

 普段そうそう見ることもない皇帝イゴール三世は、会う度に老けこんでいた。これぞ皇帝の姿と世間に広めている肖像画とは、もう似ても似つかない。加齢により頭髪は薄くなり、自慢の金の玉座は肥えた体に窮屈そうであった。


「皇帝陛下におかれましては、大変ご機嫌麗しく存じます。私に、どのようなご用向きでありましょうか」


 父ではあるらしいが、いつも通り固い挨拶をするしかなかった。打ち解けて話をしたことは一度もない。


「ふむ、ハインツ……久しぶりだが、立派になったものだな」

「もったいないお言葉にございます」

「私の若い頃に似てきた。しかしお前はミアラ王国が好きなのか? あの国について、熱心に嗅ぎまわっているそうではないか」


 ハインツはギクリと背筋を震わせた。事実だが、咎められる覚えはない。ある程度規模が大きくなった段階で商会をやっていることは報告したが、何の反応もなかった。


 イゴールは脂ぎった唇を歪ませる。


「ミアラ王国好きのお前に、ひとつ役目を授けよう。第7皇子のお前も遂に役立つときが来たのだ」

「何でございましょう」

「私はミアラ王国が欲しい。が、ミアラの海軍は強く、負けはせぬが帝国側の犠牲は多く予想される」

「私に金銭的な支援をお求めでしょうか」

「まさか。偉大な皇帝である私だぞ。皇子にそんなものは求めぬ」


 朗らかにイゴールが笑うので、ハインツは胸を撫で下ろした。金が惜しいのではなく、ミアラを攻撃する資金を出したくはなかった。


「お前には開戦のきっかけとなる栄誉を与えてやろう」

「察しが悪く恐れ入ります、きっかけと申しますと」


 一度も軍に所属したことがないのに、何をやらせるのかと嫌な汗をかきながら訊ねた。


「お前はミアラ製の船に乗り、ミアラの海軍と衝突事故を起こし、海に落ちて死ぬのだ。案ずるな。愛する皇子を亡くした私が、国を上げて仇を取る」


 眩い黄金に囲まれているのに、ハインツは目の前が真っ暗になったように感じた。


「普段からミアラに出向いているお前なら、不自然ではない。皇子が死んだとなれば士気も上がり、国内から反対意見も出ぬ」



 皇帝からの命令に逆らえるはずもなく、早急に準備は進められた。


 ひどいことに、船員は世話になっている商会のいつもの顔ぶれであった。彼らには事実すら告げられず、帝国の海軍数人を見張り役として、船は出航した。


 遠ざかる帝国の港を見つめながら、ハインツは静かに決意を固めた。


 どうせ死ぬのなら、最後に思いきりあがこうと。ミアラ王国に、ヴァレンティナに保護を求めることにしたのだ。幸運の女神にすがり、全財産を投げ出しても、帝国海軍の情報を明け渡しても、生きていたかった。折しもヴァレンティナの婚約破棄の知らせも届いていた。万にひとつ、彼女の配偶者になれたなら全てが上手くいく。


 自尊心などという、魚のエサにもならないものは捨てた。移動の間に全員に事情を話して説得し、応じぬ者は結託して海に沈めた。


 だが、誤算はあった。


 実際に会ったヴァレンティナは、この世のものとも思えぬまさに妖精のような美しさだったのだ。既に死んで、天国にいるのかと疑いさえした。


 彼女の雪のように真っ白な肌、知性溢れる物腰、静かな微笑みに胸の奥がごとりと動き、甘く苦いものが広がった。


(この方こそ、ミアラの秘宝だろう。なぜ得体の知れない外国人なんかと会ってくれるんだ。彼女は政務などせず王宮の奥で優雅に、美しいものを愛でてゆっくり過ごすべきだ)


 ヴァレンティナの周囲の無能さに腹が立ち、気付けば不遜な態度を取った。それに、この美しい人に厄介ごとを押し付けなければならないのだ。


(嫌われるに決まっている)


 その事実が恐ろしく、嫌われて仕方ない言動を取ってしまった。そうしなければ、自身を保てなかったのだ。


 それでも、ヴァレンティナは女王の器であった。好かれてはいないが、人道的な決断を下した。


「私がじっとしていては、面目が立たない……」


 長く情報を集めてきたハインツは、ミアラの内部の問題を知っているのだ。


(この現状。王室の血を引くフォンサール公爵なら、女王の政権を転覆させようとするのでは?)


 ハインツを救うために、氷の魔石の利益をほぼ捨てる貿易協定が帝国との間に決まりかけている。これは暗愚と批判されるだろう。


 起き上がったハインツは、片隅にあるベルを鳴らした。すぐにやってきた部屋付きのメイドに、馬車を用意を命じる。だがメイドは首を横に振った。


「あらあら、いけませんね。部屋から出るのは」

「何を言っている。チップならやるから、黙って言うとおりにしろ」


 良く見るとメイドは、初めて見る顔だった。


「チップをもらっても私は動きません。女王陛下にあれだけの恩情をかけて頂いて、不用意に動いてもらっては困ります」

「陛下のご命令か?」

「いえ、私の上司のエルンスト様が部屋から出さないように私をここに置きました」


 メイドは女装の名人ジュリアンであるが、ハインツは嫌な名前を聞いて顔をしかめる。


「あいつは本当にむかつくやつだな」

「そんなに怒らないで下さい。おかしいですね、みんな私を見たら目尻を下げていやらしくなるはずなのに。ほら、私の胸とかどうですか?」


 ハインツは頭痛を感じ、ため息をついた。この状況でメイドなどに手を出す馬鹿がいるだろうか。


「エルンスト君の頭はどうなっているのか」

「エルンスト様とお話したいなら呼びますよ。男同士の一騎討ちですね」

「では頼む」


 程なくやって来たエルンストを、ハインツは思いきりの渋面で迎えた。呼ばせたものの、今は最も見たくない顔である。ヴァレンティナの寵愛を受け続けている、羨ましくて堪らない存在。人は公平に生まれていないと知っているが、兄皇子より恨みが募った。


「君、変なメイドを私の部屋に付けないでもらえるかね?」

「変ではなく、最も信頼できる部下です。買収はできません」


 その鼻をあかしてやりたくて、あとで買収しようとハインツは誓った。しかし今はそれどころではない。


「……私は、出かける必要がある。女王陛下のために動くつもりだ」

「では用件を教えて下さい」

「フォンサール公爵を牽制する」


 はっと、エルンストが大きく息を吸った。


「ハインツ殿下とフォンサール公爵はやはり結託していたのですか?」

「全く違う。だが、私は外部の人間なりにミアラの内情に詳しいんだ。フォンサール公爵は、2代に渡る女王政権を良く思っていない」


 仕方ないので、知っている限りをエルンストに説明した。ヴァレンティナのすぐ傍で今まで何をやっていたのかと責めたい気持ちもあったが、近すぎて情報収集が難しい面もあったのだろうと我慢した。


「わかりました。フォンサール公爵の動向に注意するよう、手配します」

「注意だけか?」


 わかっていてハインツは不満を表す。フォンサール公爵が私兵を動かすなりしてくれなければ、公爵の地位にあるものを脅かすことはできない。


 ハインツ自身も、せいぜい帝国を傘に着て脅すしかないと考えていた。ミアラ国内で内紛があれば、その隙を見て帝国が動くなどという、下らない話だ。


「私なりに、罠の用意もしています」


 エルンストは、初めてハインツに笑いかけた。

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