人生は交渉の連続
心の決まったヴァレンティナは、朝早い時間にハインツを呼んだ。場所はサロンとした。午後にはヴラドワ帝国との会議が控えているので、一度期待させた以上、先に話を通しておこうと考えたのだ。ハインツとは結婚をせずに、誰も命を落とさぬ方策を探すと――
「昨夜遅く、陛下の私室にエルンスト君を呼んで二人きりの時間を過ごしたそうですね」
やって来たハインツは、朝の挨拶もなく開口一番にそう述べた。昨夜ハインツの商会が使用する倉庫に火事が起こり、大量の重火器が発見されたにしては、堂々とし過ぎている。どうせ罪には問われないと確信しているようだった。
ヴァレンティナは少し笑って、人を下げた。
「困りましたね、いつの間にかこの王宮の人間を買収していたのですか?」
私室周辺には信頼できる者ばかりと思っていたが、早々にハインツに動きを伝えたのは誰か、と使用人たちの顔を思い浮かべた。特に罰を与えるつもりはないが、面倒なので遠ざけたい。
「私は少々の心づけを渡しただけですよ。他人の倉庫に火を放ち、更に危険物を持ち込んで、ありもしない罪を捏造するよりかは穏やかだと思いますが?」
「その件は、現在捜査中です」
「陛下は怪しい人物に恩情を与えたようですね」
ヴァレンティナは首を傾げ、何も答えなかった。ハインツまで、犯人はエルンストと疑っている。それにしても、この流れで結婚話を白紙に戻したいと言い出しにくかった。
「ヴラドワとミアラ、両国が友好関係を結ぼうという時期に、男と夜遅くまで遊ぶのは如何なものかと思いますよ」
「はしたない想像をしないで下さる?私とエルは、そのような関係ではありません」
純粋な、あの美しい時間を侮辱されたようでヴァレンティナの口調は強いものとなった。エルンストの真心は、確かにヴァレンティナを温めた。ハインツが口の端をつり上げる。
「はしたなくはありません。誰もがそのような行為を経て生まれています」
「……あなた、私が嫌いでしょう」
挑発されている、とわかっていてヴァレンティナはその挑発に乗った。ハインツの物言いは、ヴァレンティナまでも侮辱していた。大人しくすると誓ったばかりなのに、ハインツの鳶色の瞳はまたギラギラと輝いている。
「嫌ってなどいません。陛下を愛しております」
なんて軽薄な愛の言葉だろうとヴァレンティナは呆れた。
「ではどうして、私が嫌がるようなことを仰るのです?」
「陛下があの秘書官ばかりかわいがり、私を見てくれないからです。愛と憎しみは表裏一体ですから」
まだ着席もしていなかったハインツは、素早くヴァレンティナの隣の椅子に腰かけた。
「私は、昔から遠い北方におわす美しい女王陛下に憧れ、密かに敬愛しておりました。陛下がいてこそ採掘可能という氷の魔石により、船の食料は腐らず、長い船旅が可能となりました。また、ミアラ製の船の素晴らしさといったら一言では言い表せません」
「ですが、私など存在しなければ皇帝から無茶な命令を下されることもなかったでしょう?」
横の席から、ヴァレンティナの顔を覗くようにハインツは姿勢を崩した。
「いいえ、そもそも陛下がいなければ、私の商会の成功はありませんでした。今でも皇宮の片隅で埃を眺めていたかと思いますよ。陛下が、私の人生を変えてしまったのです。そのような方に、特別な感情を持つのは当然です」
許可なくヴァレンティナの手を取り、ハインツは口づける。ハインツの予想に反し、ヴァレンティナはその手を振りほどくことなく微笑んだ。
「私に触れられるのがお嫌では?」
「わかっていてするから、おかしくて」
ハインツの引き締まった男らしい頬を撫でると、にわかに赤らんでいく。初めて、自分への好意があるのだとヴァレンティナは理解した。であるのに、わざと嫌われようとする、精一杯の強がりまで。愛されない理由を自分で作らなければ自分を守れないでいる男は、顔を険しくさせた。
「陛下、期待させないで下さい。良くない知らせがあるとお顔に書いてあります」
「ごめんなさい」
そう言って、ヴァレンティナは同情心がこれ以上膨らまないよう、彼について考えることをやめた。
「ハインツ皇子、あなたと結婚はしません」
「そうですか。陛下まで、私に死ねと仰るのですね」
「いいえ、あなたと、母君は我が国で保護します」
「どうやって?」
「ヴラドワ皇帝が欲しいのは、結局のところ氷の魔石による莫大な利益です。交渉を重ねます」
細く、長くハインツは息を吐いた。
「陛下が私を愛して下されば誰も苦労せず、傷つかないというのにどうしてですか」
「ハインツ、あなたにはもっと幸せな人生があるわ。私は、あなたの望むものを決して与えられない」
ハインツが心の底から渇望している愛情は、ヴァレンティナには与えられない。
「けれど、守って差し上げます。私は弱くてダメな男が好きですから」
◆◆◆
午後からは、長い会議が行われた。
まず、ミアラ王国を取り囲んでいる、ヴラドワ帝国の大船団の早期撤退について要求をした。
ジケルはそれについて明確な返答をせず、氷の魔石の貿易条約の改定を要求をした。示された条約には、現在の半値で、安定供給することが盛り込まれていた。
「我がヴラドワは最早、氷の魔石なしには社会が成り立ちません」
帝国の外務事務次官フェルナンド・ジケルは、冷徹な瞳を細めて流暢に語った。帝国は、大きな大陸を統治している。内陸部に魚介類を運ぶにも、夏に野菜や果物を腐らせずに保管するためにも、氷の魔石は代わりが効かないものであった。冬の栄養不足が解消されたことにより、人口増にまで一役買っている。
「わかりました。我が国が氷の魔石を売り、他国から利益を得ている以上、その責任は取るべきでしょう」
ヴァレンティナはジケルの要求を飲んだ。
全てハインツとの結婚抜きで、帝国にとって有利すぎる内容で、仮の条約が成立していく。参加していたハインツは、一言も口をきくことはなく、青ざめながら成り行きを眺めていた。
「差し出がましいようですが、本当にこの条件でよろしいのですね?」
ジケルは疑って、何度も確認をした。
「はい。ですが、付け加えて頂きたい条件があります」
ヴァレンティナは全員の顔を見渡し、余裕を持って発言をした。既に重臣たちの了承は取っている。
「ハインツ皇子、並びにハインツ皇子の母君を当国に居住させること。また、今回の貿易条約はハインツ皇子の生存中のみ有効とします」




