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約束は守られてこそ

 ヴラドワ帝国の外務事務次官フェルナンド・ジケルらへの歓迎パーティーはうやむやのうちに終わった。


 その夜のうちに、ヴァレンティナはエルンストを追及することにした。火事騒ぎの犯人はエルンストだろう、と何となくわかっていた。この大事なときに、王宮から離れた場所にいるというのが何よりの証拠である。また、人的被害が出ていない点、王宮に伝わるタイミングなども完璧すぎた。


 あのままだったら、ハインツはおそらくヴァレンティナに求婚していただろう。大勢の人々の前で――


 何時でも構わないから必ず来るようにと伝令に伝えると、深夜にエルンストはやって来た。既に湯浴みを済ませ、ナイトドレスに着替えていたヴァレンティナはそのまま迎えた。


 寛いだ姿に目を見開くエルンストだが、すぐに礼儀正しく視線を下げる。


「遅くなって申し訳ございません」

「ええ。どうぞ、かけて」


 ヴァレンティナは人払いをして、部屋には二人きりになった。いつもの秘書官の制服を着たエルンストは、対面の一人用ソファに腰かけた。


「それで、どういうつもりなの? 火事なんて起こして」

「何のことでしょう?」


 口調は何気ないエルンストだが、視線を逸らすまいとして目の周りがピクピクとしていた。


「その目が語ってるわ。私はあなたに調査の権限は与えたけれど、犯罪行為をしろとは言っていない」


 今になって強行手段に出るくらいなら、もっと早い時期にプロポーズでもしてくれたら良かったのに、と喉元まで言葉がこみ上げる。自分のために、その手を汚したのかと情けない気持ちだった。


「しかし私はどうしても、陛下とハインツ皇子との結婚を阻止したいのです」

「でも、私はハインツ皇子に、結婚する方向で検討すると約束したわ。私は約束を反古にしない」


 ヴァレンティナが足を組み替えると、スリットの入ったナイトドレスから真っ白なふくらはぎが覗いた。エルンストの視線が一瞬注がれ、すぐに顔を背ける。


「陛下、おみ足が見えています」

「別にいいじゃない、ここは私の部屋よ」


 女王として当然の上品な立ち居振舞いは身に付いているが、私室でまで遵守しようとは思っていない。


「私がいます。やはり、私のことを男と思っていらっしゃらないのですか?」


 エルンストの耳が赤くなっていた。ヴァレンティナは不思議な気持ちがざわざわと芽生える。今まで特に露出しなかったからか、エルンストのこのような反応は見たことがない。


 元婚約者のファビアンや、ハインツ皇子らの値踏みするような、舐めるような視線は気持ち悪いだけだが、それとは何かが決定的に違う。


「エル、私を見て」


 好奇心に駆られ、ヴァレンティナは命令してしまう。特に恥ずかしいとも思わなかった。侍女たちからいつも美しいと褒め称えられながら、全身を磨かれている。それ故に、自分の体であっても自分の体と思っていないところがあった。ヴァレンティナにとっての体とは、もう一枚のドレスのようなものだ。本当の自分は、心の中だけにいる。


「いけません陛下」

「ねえ、今は陛下じゃないわ。こんな夜でも、私は女王じゃなければいけないの?」


 首を戻したエルンストは困ったように、ヴァレンティナに向き直る。深緑の瞳はおろおろと彷徨い、顔中が赤らんでいた。もっと困らせたくなり、ヴァレンティナは立ち上がった。


「陛下?」

「名前で呼んで」

「ティナ、その、怒ってますか?」

「そうかもしれないわ」


 ヴァレンティナが立ち上がったことで、反射的にエルンストも立ち上がっている。女王が起立するとき、他の者が着席しているなど礼儀としてあり得ないからだ。ヴァレンティナは密着する程に歩み寄り、背が高いエルンストを軽く見上げた。エルンストの息を感じても、全く不快ではなかった。


「ねえ、もしも私が……」

「はい」

「キスしてって言ったら、キスしてくれるの?」


 ひゅっとエルンストが息を呑む。そのまま瞬きもせず固まり、長い沈黙が訪れた。流石に恥ずかしくなったヴァレンティナは、しばらく返答を待った。


「もういいわ。今の発言はなかったことにして」


 耐えきれなくなりそう言った瞬間、エルンストががっしりと両肩を掴んだ。


「ま、待って下さい、します!」

「こういうのダメよね、性的強要だったのでしょう?」

「違います、嬉しかったんです。でもどうして急にそんなことを?」

「詳しく聞くものじゃないわ」


 自分でも、発言の真意をよくわかっていなかった。このまま、為す術もなく好きでもないハインツと結婚するくらいなら、一度くらい好きな男とキスをしてみたかったのかもしれない。まだハインツとは婚約もしていないのだから、不貞行為でもない。そもそも、キスくらいなら咎められる謂れもない。


「わかりました。でも俺は初めてなので上手くないと思いますが……」

「知ってるでしょうけど、私もそうよ」


 初めてと聞き、ヴァレンティナは少し喜んだ。女王ヴァレンティナの行動はほとんど公然のものだが、エルンストはそうではない。一般的に積極性が高いと言われる男性が、そこまで経験がないとは意外だった。


 無言のまま、エルンストの顔が急に近付いた。ぶつかる、とヴァレンティナは目をぎゅっと閉じる。


 しかし痛みはなく、唇に優しい感触だけが触れた。羽根ぼうきで撫でられる程度の、恐がりな接触だった。離れてしまう温もりが惜しく、ヴァレンティナはエルンストの腕に手を添えた。引っ張って、もう一度とねだってしまいそうになるが、すんでのところで我に帰った。


「キスってこんなものなの?」


 結局、ヴァレンティナは強がりで笑う。


「ひどいですね」


 と、エルンストは背中に腕を回して抱きしめた。エルンストの体は熱いくらいで、力強い心臓の音が聞こえた。


「俺は嬉しいです、ずっとこうしたいと思っていました」

「そう」


 直接的な愛の言葉ではなかったが、ヴァレンティナの胸の奥が震えた。どんな甘ったるい表現より、本物のように感じられた。


「嬉しいけど、悲しいです」

「それは、私の今の状況のせい?」

「はい」


 少し体を離し、見上げたエルンストの瞳が潤んでいる。瞳は変わらない、とヴァレンティナは彼と初めて出会った頃を思い出す。エルンストは11歳、ヴァレンティナは9歳だった。


 体調を崩した侍女グレースの代わりに、と連れてこられたエルンストは緊張により、挨拶もできずに固まっていた。顔を真っ赤にして、泣きそうに震えてさえいた。


 当時から身長もずっと高く、年齢も上であったのに、ヴァレンティナはなぜか彼を守ってあげなくてはと思ったのだ。グレースがいない悲しみより、エルンストが怒られてはならないと必死に笑顔を取り繕った。


 あのとき、心に灯った小さな炎。心を温め、無力感から立ち上がらせるもの。勇気が湧き立ち、強く力を与えてくれるもの。エルンストに触れていると、そんな純粋な気持ちが甦った。


「ありがとう、エル。思い出したわ」

「何をですか?」

「私、エルと約束したわね。誰とも結婚しないと」

「ええとそれは……」

「そしてハインツ皇子には、結婚する方向で検討するとしか言っていない」


 さわやかにヴァレンティナは微笑んだ。


「私は、約束を守る女王なの」

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