どうするって?
サロンを出たヴァレンティナは、庭園の緑廊をゆっくりと歩いた。つる薔薇を透かして、午後の傾いた陽射しが時おり頬を撫でる。
「どうするおつもりですか?」
後ろからついてきたエルンストが、控えめに声をかけた。一番答えたくない相手だが、ヴァレンティナは喉につまったものを吐き出すように、深呼吸をした。
「ハインツ皇子と結婚するほかはないでしょう」
人を、見殺しにする判断はヴァレンティナの中になかった。また、自国民の安全の確保もしなければならない。
「もう少し待って下さい。ハインツ皇子は、事実と嘘を織り混ぜている可能性があります。罠かもしれません」
「ええ。正式な発表はヴラドワ帝国の人たちがハインツ皇子が連れ帰るまでに行えば良いから、まだ時間はあります」
ハインツがミアラ王国内にいるうちは、彼は安全である。まさか他国で騒動を起こすほど、帝国人は野蛮ではないはずだ。
「ところで、ハインツ皇子はあなたのことまで良く知っているようだったわね」
振り返って、エルンストと視線を交える。彼の常緑樹のような深い緑の瞳は、木漏れ日で輝いていた。
「はい。私のことは大した情報ではありませんが、近いところに内通者がいると思われます。調べてみます」
「お願いするわ」
それが誰かわかったところで今さら状況の打破はできないが、ヴァレンティナは知りたかった。ミアラ王国の人間でありながらヴラドワ帝国の味方をする者。帝国に乗っ取られて、誰がどのように得をするものなのか。自分の為政にどう不満を持っているのか。
連絡船が到着するまでは、オールも舵もない小舟で水面を漂っているような不安定な日々が続いた。それでもヴァレンティナにとって、良いことがひとつあった。
産休を取っていた侍女が復帰したのだ。侍女は、グレースという幼少期から姉のように慕ってきた存在だ。また、エルンストの少し歳上の、実の姉でもある。つまり宰相ネリウスの娘でもある。
コートニー家の人々を重用し過ぎだとヴァレンティナは理解しているが、実際に有能なので仕方ないと密かに言い訳していた。
「グレース、戻ってきてくれて嬉しいわ。体は大丈夫なの?」
ヴァレンティナの質問が終わる前から、グレースは柔らかく微笑んだ。ネリウスから遺伝した黒い髪は上品にまとめられている。長い睫毛に縁取られた瞳は草食動物のように優しげで、安心できるコートニー家の顔立ちだった。
「もう子どもは4人目ですから、慣れたものです。乳母も、実母もいますし、一番上の子もお世話してくれるのですよ。それより陛下こそ一大事ですからね」
事情を知っているグレースは心配そうにヴァレンティナの顔を検分し、両腕を広げた。迷うことなくヴァレンティナはその腕に飛び込み、抱擁を交わす。グレースからは、甘いミルクやリネンウォーターなどの温かい家庭の香りがした。ずっとヴァレンティナが憧れているものだ。
エルンストと結婚したら、このような温かい家庭が手に入りそうで夢見てしまったのかもしれない。ヴァレンティナは届かなかった想像図を胸の奥底にしまった。
「ありがとう。グレースが少し顔を見せてくれるだけで心強いわ。無理はしないで」
「無理なんてありません」
体を離し、グレースはヴァレンティナの手を握った。姉というより、母の包容力が溢れている。
「陛下がどのような選択をされても、私は絶対に陛下の味方ですからね。弟が今さら悪あがきしてるようですが、気にしないで下さい」
グレースまでそんなことを言うのかと、ヴァレンティナは目を瞬かせた。コートニー家では、エルンストの想い人として認知されていたようだ。もっと早く教えて欲しかったものだと思ってしまう。
「実は聞き出そうとしたけれど、エルは何も言ってこないのよ。だから、もう違うのかもしれないわ」
「言い返すようですけど、エルが心変わりなんてあり得ません。我が弟ながら、ぐじぐじしてるだけかと……」
「いいの。エルの判断が正しいのよ」
告白して欲しいと願ったのは、ほんのわずかな期間に過ぎない。それまでは意識したこともなく、今はエルンストを選べない状況にある。こんなに都合良く考えていては、愛想をつかされて当然かもしれない。
「悲しいお顔をされています。弟が陛下をこんなに困らせて、ごめんなさい」
「いえ、エルは頼りになる人よ」
もう一度、抱擁を交わした。グレースは太ってるうちには入らないが、温かく柔らかな感触が心地良かった。
◆◆◆
そうしてミアラ王国の連絡船が帰港した。高速を誇る連絡船は、ヴラドワ帝国の大船団を追い越して来た。その際に海上で帝国の船に乗り、話もしたという。
曰く、帝国はハインツ第7皇子を救助した礼をする目的で船団を組んだのである。侵略のつもりは一切ない。
――というが、船団のほとんどは軍用船であり、大砲や兵器が積まれていた。
礼をしたいという帝国の船を、防波堤の外に留めさせるべきかどうか、また会議が開かれた。
ヴァレンティナ、宰相、貴族院の面々、海軍と王国騎士団の上官が円卓を囲んでいる。エルンストは情報収集のため不在だった。
「帝国側に乗り込む大義名分を与えている以上、むしろ状況は悪いかもしれません」
マルカン海軍副将は苦く眉を寄せていた。国土のほとんどが海に面するミアラ王国は、とにかく敵を上陸させないことを念頭に置いている。その備えは万全であるが、礼をしたいとやってきた帝国の船団を追い払う訳にもいかないのだった。
「港周辺までは接近を許しても、上陸は禁止としてはいかがか?」
「しかし帝国軍が夜間に泳いで渡って来た場合、どう対処するべきか?」
「引っ捕らえれば、故意に怪我を負わされたなどと言いがかりをつけられるかもしれません」
王国騎士団たちは弱腰だった。強力な海軍と冷たい海の守りがある限り、自分たちは外国の兵士と戦うことはないとして生きてきたのだ。
出動するのは治安維持のための警備と、せいぜいが自国内の反乱だった。それもヴァレンティナの絶対的な人気の下にあっては、かなり小規模なものしかなかった。ヴァレンティナは、氷の魔石関連の利益を広く国民に行き渡らせているからだ。
「陛下、ハインツ皇子とはやはりご結婚されるのですか?」
王国騎士団を放置して、フォンサール公爵が質問をした。相変わらずフォンサール公爵はどこか不遜な態度であった。ヴァレンティナは澄まして答える。
「その様に考えています。大きな脅威であるヴラドワ帝国と友好を結ぶのは、悪い判断ではありません。もちろん、ミアラ王国の権利は確立させる方向で策を練っています」
「そんな!」
ハインツと結婚するつもりなのかと、マルカンは無骨な大きな手のひらを自身の口に当てた。また大声を出したり、余計なことを言い出さぬよう自制しているようだった。マルカンとは前回以来の顔合わせだが、ヴァレンティナは毅然と胸を張った。
「あなたたちの誰にも、危険は及ばせません。私の女王としての責務を果たす所存です」
「私は、陛下を守るために戦いたいと存じます!」
「発言を撤回しなさい」
会議室の温度が凍りつきそうに下がった。ヴァレンティナは無意識に冷気を放っていた。
「ヴラドワ帝国は、ミアラ王国の4倍は兵士がいます。ミアラの海軍がどれ程強くても無血の勝利はあり得ないのですから、回避するのが最善策です」
今度こそ、マルカンからのアプローチも終わるだろうとヴァレンティナは思った。マルカンは俯き、発言を撤回し謝罪した。




