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ハインツ皇子の懇願

  ヴァレンティナとエルンストは、揃って顔を見合わせた。3日ほど引きこもっていたハインツ皇子が、急に午後のお茶を願ってきたのである。


「いいわ、皇子とのお茶の時間を作りましょう」


 自身の机にある、政務書類をペラペラとめくりながらヴァレンティナは答えた。少しは予定が狂うが、夜にがんばれば済みそうと計算していた。


「陛下は優しすぎます」


 エルンストが苦言を呈するが、侍従は頭を下げて退室してしまった。早速、準備を始めるのだろう。


「お茶の時間くらいなら、大したことではないもの。それより、ハインツ皇子が帝国に帰ったあとにどうなるのか考えたら……」


 言い淀むのは、口にしたくなかったからだ。



 午後のお茶はヴァレンティナのサロンに用意された。


 この3日、部屋に引きこもり、出された食事にもほとんど手を付けなかったハインツはやつれていた。頬がこけ、野心的な鳶色の瞳にも力がない。悲壮感は十分に演出されていた。


「ああ女王陛下、拝謁をお許し下さったこと、心より感謝致します」


 先に来ていたハインツは、ヴァレンティナがサロンに入るなり恭しく礼をした。その後ろに続くエルンストには、ちらりと視線を送る。


「秘書官の彼は、別に動いた方がよろしいのでは?情報収集がお得意なのでしょう」

「私は空気とでもお考え下さい」

「ははは……空気になるのは私も得意だな」


 それは帝国でのことを言っているのか、ヴァレンティナもエルンストも笑えなかった。ヴァレンティナは席に着き、エルンストはその後ろに立った。


「さて、私がこの国にやってきた事情は、既にご存知でしょうか。ですが改めて申し上げます」


 商船の船長が口を滑らせたと、ハインツにも伝わっているようだった。


「我がヴラドワ帝国は、氷の魔石を持つミアラ王国を統治下に置きたいと望んでいます。その布石として、私は父である皇帝に、死ねと言われてやって参りました」


 淡々と語られ、ヴァレンティナは胸が痛んだ。ハインツの瞳に暗い炎が宿っている。父への憎しみか、第7皇子という自身の立場へのやるせなさか。


「陛下、私を救って下さいませんか?」

「どのように?」

「私と、結婚して欲しいのです」


 ごく簡単に、ハインツは要求を口にした。舞踏会を要求するのと同じ軽さだ。その呆気なさにエルンストは目眩さえ感じた。愛情がないからこそ、戦略的だからこそ、容易く言えるのか。


「私との結婚が、ハインツ皇子を救うことになるのですか?」


 わかっていたが、敢えてヴァレンティナは質問をした。


「ええ。誰の命も損なわれないでしょう。ヴラドワ帝国とミアラ王国は親交国、兄弟国となり、共に更なる繁栄を望めます」


 その言葉の裏をヴァレンティナは読み取ろうとした。ヴラドワ帝国は巨大な鯨のように、あらゆるものを貪欲に飲み干す国だ。


 ハインツ皇子との結婚を契機に、帝国の人間はミアラ王国になだれ込むだろう。そうして独立や、文化、誇りも呑み込まれるかもしれない。ただし人命は損なわれないだろう。また、基本的には氷の魔石の莫大な利権が狙われているだけなので、交渉の余地はある。


「私が断れば?」

「私と商船の皆は帝国に連れ帰られ、闇に葬られるでしょう。私の母も同様に」


 ハインツは冷静になろうとして失敗しているのか、あるいは演技の一環なのか、鳶色の瞳を潤ませていた。ハインツの母は、戦争に負けて帝国に統合された亡国の王女だった。弱い立場の人だ。


「陛下、これは帝国側の問題です。我が国が関知すべき事柄ではございません。陛下は、一切責任を感じる必要はないのです」


 震えそうに見えて、エルンストはヴァレンティナの肩に触れた。ミアラ王国は沈没する船の乗組員を救助し、保護ののち送り返す。それで道義は果たせるのだ。また、殺されるとわかっていても、他国の皇子をいつまでも国に残らせることはできない。誘拐とみなされてしまう。


「だけど……」


 ちらりとアイスブルーの瞳を揺らし、ヴァレンティナはこめかみを押さえる。悩んでいるときの癖だった。この問題に関しては、どれだけ悩んでも明確な答えが出ない。


 結局は、ヴァレンティナがハインツと結婚したくないというだけ。気持ちひとつで、他者の命が奪われる。


「エルンスト君」


 ハインツは、唐突に名前を呼んだ。今までは『秘書官の彼』などと呼んでいたので、エルンストは目を見開く。


「何でしょうか」

「君は、両親に愛されて育ったようだね」

「急に何のお話でしょうか、殿下」

「宰相の父親、優しい母親、そして美しい女王に寵愛されてきた。少しは幸せを私に分けてくれないかね?」

「陛下は、分けるものではありません」

「私が王配になっても君の立場はそのままにしよう」


 挑発されているのかと、エルンストは背中の後ろで手を握りしめた。


「皇帝である私の父は、ほとんど私を見てくれなかったよ。皇宮において省みられることなく、母と二人で肩を寄せあってどうにか生き延びた。皇位継承権など、あってないようなものだ。だから自分なりに努力して、商売の世界で生きてきた。これでもかなりの財を為したから、父に呼ばれたときは期待したよ。商売か金のことで頼られるのかと思った。だが、ミアラ王国を乗っ取るための犠牲になれという。私の人生は何だったんだ?」


 エルンストは何も言えなくなってしまう。事実なのだろうが、ハインツは自分の人生すら交渉に使っていた。


「死にたくない」


 心の底から、絞り出すようにハインツは言った。


「ヴァレンティナ陛下。もし私の願いが聞き入れられるのなら、生涯あなたを大切にします。あなたが築き上げた国も、大切にします。どうか……」

「検討します」


 ヴァレンティナは即答を避け、立ち上がった。内心ではとうに答えが出ていたが、まだ時間が欲しかった。

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