熊と狐
エルンストはさも苦しそうに、黒い眉を寄せていた。
「それは、陛下が新しい婚約者の選定を止めさせているからです」
確かに、ヴァレンティナが宰相ネリウスに秘密に命じて、貴族院での新しい婚約者の選定は止めさせている。それというのもエルンストにプロポーズされたいが為だが、当のエルンストは何も気づかずに苦い顔をしていた。
「止めさせていたら、私が直々に誰かを指名するという話になるものかしら?」
「普通はそうですね」
エルンストは迷わずに断言した。
「誤解を生んだのなら、どこかではっきりと表明する必要があるわね。私は、誰かを指名するつもりはないの」
ヴァレンティナからは、決してエルンストに言い出すつもりはない。結婚は、一生を左右する大事なことだ。この、言いなりになりがちな幼なじみに、結婚しろと命令して従われるのだけは嫌だった。
「左様ですか」
「むしろ私にプロポーズするような、勇気ある男性を待っているというか……」
「まさか、先ほどのマルカン卿をお気に召したのですか?!」
震え上がるようなエルンストに対し、ヴァレンティナはつい赤面した。違う、気持ちは嬉しかったけど、あまり深く知らないマルカン卿に対してそんなことある訳ないじゃない――と否定したいのに、意識しすぎて顔に血が上ってしまう。見慣れたエルンストの瞳に、はっきりと傷ついた色が滲んだ。
「陛下」
折り悪く、マルカンの低い声が背後からかかる。話しながら廊下を歩いていたので、マルカンが追って来たことに気付いていなかった。
「少しだけ、お時間を頂けますか?」
◆◆◆
人払いをして、ヴァレンティナの執務室にマルカンと二人きりになった。勇気ある告白をしてくれた彼に誠意を持って、はっきりと断るつもりである。
ヴァレンティナは執務机の奥にある椅子に腰かけた。最高級のマホガニーの机が、盾のようにマルカンとの間を阻む形となる。
「マルカン卿、あなたの……」
「お言葉をさえぎる無礼をお許し下さい、陛下」
了承として、ヴァレンティナは頷いた。まだ言い足りないことがあるのなら、全て聞くくらいの寛容さを見せるつもりである。
「断られると、わかっております。ただ、このときだけは私の名前を呼んで頂けますか?」
悲しく微笑むマルカンの瞳は、やはり円らでかわいらしい。眉骨が高いので、影になって普段は分かりにくいのだ。ヴァレンティナは、女王に即位したときに手放した熊のぬいぐるみを思い出した。
「トビアス、あなたは素敵な人よ」
「私の名を、覚えて下さっていたのですね。ありがとうございます」
「当然よ」
親しみを込めた口調で、ヴァレンティナは微笑んだ。トビアスとファーストネームで呼ぶと、彼の家族にそう呼ばれて来たのかと想像してしまう。マルカン家は軍人一家で、父や兄も要職を務めているためヴァレンティナの記憶にあった。ただし、そのくらいしか彼を知らない。その為に彼の想いを断ろうとしている。
きっと、トビアスと家族みんなに呼ばれ、愛されて育ったのだろう。そんな人が自分を慕ってくれているという、その価値に胸が痛くなる。
「陛下と私は、ほとんど業務上の会話しかしておりません。しかし、言葉の端々に、陛下の温かいお心遣いを感じ、いつしか特別な思いを育てておりました」
「それは、ありがとう」
「陛下は、とても繊細な方とお見受けしております。それ故に人々に優しくできるのでしょう。そんな陛下のお心は、ときに寂しくあるのでは、私に何かできたらと、どうしても夢見てしまいます」
(もしかして、今、口説かれているのかしら?)
ヴァレンティナは最終的に断るつもりだが、その隙もないほどに果敢に攻め続けるやり口は、優秀な軍人らしかった。
「トビアス、あなたの気持ちはありがたいけれど……」
「はい、陛下。貴重なお時間をありがとうございました。無理であることは理解しております。私を哀れに思って頂けるなら、どうか数々の無礼をお許し下さい」
「いいわ、許しましょう」
勢いよく頭を下げ、マルカンは退室してしまった。
(これで、終わったのよね?)
落ち着こうとヴァレンティナは深呼吸を繰り返した。マルカンは、熊のぬいぐるみどころではなかった。森にいる本物の熊のように、爪痕を残していった。
◆◆◆
二人きりで話をするとヴァレンティナに言われ、隣室で仕事をするしかないエルンストは、気が気ではなかった。
壁や扉は分厚く、とても声は聞こえない。微かに察知できるのは、扉の開け閉めの音だけだ。案外と短時間で用件は済み、マルカンが退室したようだった。
(ティナ、男に色目を使われるのは気持ち悪いと言っていたのに、マルカン卿からプロポーズされて満更でもなさそうだった)
つい筆圧をかけすぎて、潰れたペン先で書く文字は極太になっている。港湾工事の追加予算申請書に対する指摘を書き込んでいるのだが、まるで激しく怒っているようになってしまっていた。
(それもそうだな、あいつ意外とやる男だ。あの作戦は効果的に過ぎるぞ。流石はミアラ王国が誇る海軍副将、早く大将に昇進してずっと海上にいてくれ)
醜い嫉妬心を認められず、エルンストは敵を誉めてみる。しかし結局、邪魔者はどこかに行って欲しいと願ってしまった。エルンストの持つペンの先がぐにゃりと曲がった。紙に穴が開く。
インク染みの広がった穴をぼんやり見つめていると、ノックの音がした。
「エルンスト様、迎賓館の帝国人たちの件でご報告に参りました」
やって来たのは、波打つ金髪を後ろで無造作に結い上げた青年だった。ハインツ皇子の商船に乗っていた乗組員から、何でもいいから情報を引き出せと要請しているエルンストの私的な諜報員だ。
「ありがとうジュリアン。良い報告だな?」
「もちろんですよ」
男にしては赤く艶やかな唇を笑ませ、ジュリアンは手頃な椅子を持ってきて隣に腰かける。
「僕がしっかり船長を誘惑して聞き出しました」
彼は女装の名人だ。メイドとしてあちこちに潜入させても、いざというときには腕っぷしが強く、危険がないので重宝している。ファビアン公爵令息のときも世話になった。エルンストは期待して次を促す。
「それで?」
「結論から言うと、みんなで死ぬ気だったようです」
「死ぬ気だと?」
「そうですよ。ミアラ王国製の船でもって、ミアラ王国の海域で皇子を含めて全員死ぬつもりだったようです。その事件を皮切りに、帝国の船団が押し寄せ、脅迫まがいに我が国を隷属させる腹積もりだったようで」
帝国の非道さに、エルンストは乾いた笑いが込み上げた。
「ではハインツ皇子は作戦を失敗したのか? ミアラの海軍と漁船の救助が迅速だったあまりに」
「いえ、むしろハインツ皇子が帝国を裏切ったのです。ハインツは船長を説得し、何も知らない乗組員が必ず救助されるように船を沈めたようです」
「一体ハインツ皇子はどうするつもりなんだ。命令に反したが、女王陛下と結婚したら挽回できると思っているのか? だが、焦ってるようにも見えない」
最近のハインツは、舞踏会だのを頻繁に開かせて享楽に耽っている。しかもヴァレンティナに警戒されるように求婚を匂わせるが、特に好かれるような行動を取っていない。
「ねえ、不思議ですよね。僕が皇子を誘惑してみますか?」
妖艶に顔を傾け、ジュリアンが肩をぶつけた。
「いやいい。女装したジュリアンは美人だが、ハインツ皇子はすごく女性慣れしているから見破られそうだ」
「確かに、船長が言ってました。ハインツ皇子は世紀の女たらしだって」
けらけらと笑うジュリアンを横に、エルンストは頭を抱えた。心優しいヴァレンティナがこの件を知れば、きっとハインツ皇子に同情するだろう。乗組員を救った点も誉められる。その隙を突かれるかもしれない。




