女王は婚約を破棄してふと思う
「ファビアン、あなたとの婚約を破棄するわ」
ミアラ国女王、ヴァレンティナは威厳を持ってそう宣言した。昼下がりの午後、女王のティーサロンに呼ばれていたファビアン・フォンサール公爵令息は驚愕した。
「ど、どうして?!この僕のどこが相応しくないとおっしゃるのですか?」
ファビアンは長めの前髪を手でさっと流し、自慢の甘いマスクを見せつけた。そろそろ結婚を考えなければいけないヴァレンティナ女王の配偶者に最も相応しい者として、貴族院であれこれと会議の結果選ばれ、半年前に婚約をした。彼は公爵家の二男であり、4親等以上離れていて女王との年齢差が5歳以内という条件に当てはまった。また、同じ曾祖父を持つという点で昔からの知り合いである。
しかしヴァレンティナは答える代わりに、背後に控える秘書官に合図をした。それまで気配を消していた黒髪の秘書官は、ばさっと書類をテーブルに広げる。
「ファビアン卿が陛下と婚約後に、別の女性と個人的な関係を持ったとする記録と証言です。証言者からは、必要なら姓名を明らかにして法廷で証言しても良いと言質を取っています。関係を持った女性の中には、夫のある貴婦人すらいるようですね。これらは王室の品位を貶める行為であり、婚姻契約条項5条の2に抵触し、婚約破棄要因となり得ます。しかし寛大なる女王陛下は違約金などお望みではありません。慈悲を持って、お互いの性格の不一致により婚約を終了させる、という形を望まれました。こちらの書類にお目通しの上、サインをお願いいたします」
秘書官エルンストは冷徹に言い放ち、婚約破棄の同意書をファビアンの前に置いた。てきぱきと羽ペンとインク壷まで配置する。既にティーカップなどは背後のワゴンに下げられていた。
「くっ……最近大人しくしていると思ったが、女王の飼い犬が僕に吠えるのか!なあ、おいエルンスト!僕に嫉妬してるのか?」
ファビアンに侮蔑的な言葉を投げかけられても、エルンストの深い緑の瞳は揺らがなかった。反応がなかったので、ファビアンはヴァレンティナに向き直る。
「女王陛下ともあろう者が一度決めた相手との婚約破棄など、民衆のお笑い草になりますよ?! 男の浮気なんて、貴族ならよくあることでしょう。今ならまだ許してあげますから、こんなことはお止めください」
「私が、あなたの許しをもらうですって?」
ファビアンの下卑た物言いに、ヴァレンティナのアイスブルーの瞳が細まった。周囲の温度が冷えていく。ヴァレンティナが、氷の女王と人々に呼称される所以であった。ヴァレンティナは氷の妖精の血を引いているため、冷気を操った。
また15歳で両親が他界し、玉座に就かざるを得なかったため、親しくない人の前でほとんど感情を露にすることがないからでもあった。その親しくない人物にファビアンは含まれている。
「ファビアン、あなたは物怖じしない性格が長所かと思っていたけれど、ただ蒙昧で愚かなだけだったのね。あなたの醜聞を表沙汰にせず、静かに婚約を終わらせようとしているのに、それもわからずエルを侮辱するなんて。もう結構よ、お帰りになって」
手を軽くあげると、女王の近衛騎士たちがファビアンを両脇から抱えあげた。
「はっ、はなせ!! 私を誰と心得る!」
ファビアンはそれなりに剣術で鍛えていたが、精鋭の騎士二人に挟まれては身動きすらできない。足を地面から浮かせ、みっともなくばたつかせてファビアンは叫んだ。
「女王陛下の慈悲がわからぬ、幼児以下の頭脳をお持ちのお方でしょう。これらの書類はあなたのお父上、フォンサール公爵閣下に送りますので、たっぷり絞られて下さい」
エルンストは餞別の言葉を彼に投げかけた。騎士たちに運ばれるファビアンはサロンから遠ざかっていく。騒げば騒ぐほど、彼自身の名誉が傷つくとわかっていないようだ。
エルンストはヴァレンティナのために、新しい紅茶をカップに注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう、エル。横に座ってくれるかしら。皆は下がって」
その一言でサロンにいたメイドや騎士は扉の外へ出ていった。慣れた動作でエルンストはヴァレンティナの隣の席にかける。長身で、肩幅も広いエルンストの肩が触れる距離だが、どちらも気にしていなかった。
「エルの淹れてくれた紅茶はいつもおいしいわ」
ソーサーを持ち上げ、紅茶の香りを楽しむヴァレンティナは微笑んだ。女王としての顔ではなく、私的な場での本当の笑みであった。
「ありがとうございます」
しかし、猫舌のヴァレンティナは冷めるまでは紅茶に口をつけない。香りを嗅ぎ、揺蕩う紅茶の水色を見つめる穏やかな時間が流れた。エルンストはそんな彼女の横顔を眺めるのが好きであった。
ふと、知的な輝きを帯びたアイスブルーの瞳がエルンストに向けられる。
「私、一生結婚できないかもしれないわ」
「ご冗談を。美しい女王陛下に選ばれる光栄を、誰もが待ち望んでおります。この国の男全て、陛下のご意向のままですよ」
ヴァレンティナは一般的な貴族令嬢の結婚年齢を上回ってはいたが、女王である。独身の男なら命令ひとつで配偶者とする権利を持っていた。また、ヴァレンティナは十分な美貌を兼ね備えていた。柔らかそうな白金の髪、卵形の顔に上品な目鼻立ちをしている。
しかしヴァレンティナは、眉を寄せ白い額に縦線を刻んだ。
「無理なのよ。なぜなら、先日騎士に離れてもらってファビアンと二人きりで庭園を歩いたとき」
「何かされたのですか?!」
エルンストはガタッと椅子を鳴らした。秘書官であるエルンストだが、四六時中側にいるわけではない。女王が私的な時間を過ごすときは、別の仕事をしているときもある。そのときは丁度、ファビアンの身辺調査を頼んだ者と会っていた。
あまりの反応に首を小さく首を振りながら、ヴァレンティナは続ける。
「特別なことではないの。ただ、不意に腰を抱き寄せられて、キスをされそうになったの」
「不敬ですね! 処刑に値する」
「落ち着いて。半年も経った婚約者だからそのくらいは当然なのよ。断ったらやめてくれたわ。でも、ファビアンは一応、私を女王ではなく、ひとりの女性として見てくれていたのよね……だけどあの瞬間にすごく気持ち悪いと感じてしまったの」
ヴァレンティナとエルンストは、蒼白となった顔を見合わせた。
「おかしいわよね? でも私、昔から妖精の血を継いだ王女、それから女王としか見られてこなかったの。だから普通の女性扱いが駄目になってしまったのかもしれないわ」
「陛下はどこもおかしくなどございません! 単に相手が悪かっただけです。ファビアン卿は同性から見ても、存分に気持ち悪い男でした」
過去形で表現することで、終わったことだと強調されていた。それどころか亡き者としているようで、ヴァレンティナは笑みをこぼした。
「まあ」
エルンストは手早く3段のケーキスタンドから彼女の好きなものを取り分け、小さな一口サイズに切り分けた。
「でも、もうしばらく婚約はしないわ」
「それがよろしいかと。さあ気分を変えましょう。お召し上がり下さい」
エルンストはフォークに差したガトーショコラを彼女の口元へと運んだ。
「あなたは昔から、気持ちが沈むと食欲を失くしてしまいますから」
ヴァレンティナが食欲を失くしたとき、このようにエルンストが勧めて食べさせていた。妖精の血が濃いヴァレンティナはしばらく食べなくても常人ほどは影響を受けないが、エルンストが心配なのだった。
流石に婚約者ファビアンがいる半年間は控えていたが、エルンストの甘やかしがめでたく復活したのだ。
「……ありがとう」
久しぶりにエルンストに食べさせてもらうのは照れもあったが、ヴァレンティナは大人しく受け入れた。ガトーショコラの甘く、ほろ苦い味が口に広がる。長らく支え続けてくれる、この温かく優しい人はいつまで隣にいてくれるのだろうと微かに胸が痛んだ。




