こぼれた花びら 三枚目 評価について
あるネット通販サイトで音楽のCDを探していた時のことです。
目当てのピアノ曲を見付け、レヴューの欄をのぞいたら、こんな書き込みを見付けました。
「演奏はよかったが、求めていたものと違ったので、星三つにしました。」
星は一つから最高で五つまでつけられます。
私は首を傾げました。
レヴューを書いた人はよい演奏だと認めているのに、星の数を減らしているのです。
そのCDを聞いて、「求めていたものと違った」理由が分かりました。
CDの中で一番有名な曲はもっと元気でノリのよいイメージでしたが、おだやかで落ち着いた弾き方だったのです。
それでもよい演奏であることは間違いなく、星三つは評価が低すぎると私は思いました。
けれど、少し考えて気が付きました。
この人は演奏の素晴らしさを評価したのではありません。
そのCDを買ってどの程度満足したかを星で表したのです。
演奏はよいと思ったけれど、購入してあまり満足はしなかったというのです。
実に正直な評価の仕方です。
考えてみれば、通販サイトのレヴューとはそういうものです。
「買ってよかったから、みんなも買ってみてね」というのが趣旨で、商品の絶対的な価値を採点するものではありません。
素人が自由に作品を公開できる小説投稿サイトの評価もこれに近いものがあります。
多くの読者は、分析的に批評して、文学作品としての価値を採点しているのではないでしょう。
プロの小説家が書いたものに比べればいろいろと不十分だけれど、自分は楽しめた、面白いと感じた、読んでよかったと思った作品に、「よかったよ。ありがとう」という気持ちの強さの度合いを星の数で表しているのだと思います。
つまり、読んだ人の好みや、そのサイトの小説に求めるものが何かによって、点数が決まるのです。
作品の内容や出来の良し悪しに公平な評価をしようと思うなら、満足度で採点しては駄目なはずです。
期待していたものと違おうと、すぐれているものは高い点数にし、大好きな作品であろうと、欠点が目立つのであれば低めの点数にするべきです。
採点者の好みや満足とは無関係に一定の基準にしないと、えこひいきや応援する気持ちによる甘い評価や、嫌悪感や攻撃的感情による酷評が入り込んでしまいます。
そうならないようにするには、自分の採点の仕方が本当に公平無私なのか、厳しくおのれ自身に問いかけて点検しなければなりません。
しかし、現実には素人による評価、とりわけ通販サイトなどインターネット上での採点では、自分の好きなものや気に入ったものに満点を、嫌いなものや不満を感じるものに最低点をつける人が後を絶ちません。
これを採点する人の性格や資質の問題ととらえる人もいるかも知れませんが、問題はそう単純ではありません。
そもそも、評価とは難しいものだからです。
百円のカップラーメンを一万円のコース料理と同じ基準で採点して低い点をつけるのは正しいのでしょうか。
三輪車をスポーツカーと比べて「遅い」と批判するのはどうでしょうか。
恋愛小説と本格推理小説と童話を比べてどれが上だ下だと言えるでしょうか。
百万部売れたけれど一年後には本屋から姿を消した小説と、細々と何十年も売れ続ける古典扱いされる名作を、同じ基準で評価してよいのでしょうか。
B級グルメのように、初めから最高得点をねらっていないものもあります。
映画やテレビドラマにも、設定や道具立てやストーリーを見れば名作にならないことは明らかだけれど、そうしたものとしてはとてもよくできていて楽しめる作品は珍しくありません。
ベートーヴェンの交響曲を百点としたら素人の書いた曲など三十点にもなりませんが、多くの人がよい曲だと思って人気が出ることもあります。
また、芸術作品に星の数での採点やランキングがなじむのかという疑問もあります。
モーツァルトの交響曲とショパンのピアノ曲とヴェルディのオペラを比べて順位を付けることに意味があるのでしょうか。
夏目漱石と芥川龍之介と太宰治の小説はそれぞれ違った面白さがあり、他の作者には書けないものです。
書いたオペラが全て大当たりして大富豪になり生前は天才と絶賛されたけれど、死後すぐに忘れられて全く作品が演奏されない作曲家もいます。
その時々の気分によって読みたい本は違いますし、同じ本でも感じ方は変わります。
少しお腹が空いた時にコース料理を食べたくはないですし、誕生日の晩餐がカップラーメン一つだったらがっかりするでしょう。
読む人の経験や知識や文化的背景によっても面白いと感じる本は異なります。
明らかに下手な作品と上手な作品は比べられるでしょうが、技術や才能が高水準の作品は簡単に優劣をつけられません。
ましてや、通販サイトや小説投稿サイトに集まる消費者や読者は、評価のあるべき姿について深く考えたことなどない人たちです。
その対象物の専門家の間ではどこを見るべきかに学会なりで共通認識や合意があり、その基準に基づいて評価するでしょうが、そういう知見を持たない人々の採点に公平性や妥当性を求めるのは無理があります。
公平を期するなら、自分はこういう趣味・嗜好・価値観の人間で、どういう点に注目して見ているとはっきり表明する必要がありますが、おのれの意見が偏っていることを自覚していない人がほとんだと思います。
作品を理解できなかったりつまらないと思ったりした時、面白さを感じ取れない自分が悪いとは考えず、作品に価値がないのだと決め付ける人はとても多いです。
古典とされる名作であっても、自分に問題があると認めない人が少なくありません。
それくらい、人は自分の考えや感性や批評眼は正しいと根拠なく信じ込んでいるものです。
一方、自分の感性で判断したくない人も多くいます。
そういう人は、流行のものや名作と呼ばれるものなど世間の評価が高いものは色眼鏡で見ますし、よさがよく分からなくても感性がおかしいと思われたくなくて低い点数はつけたがりません。
逆に無名のものはよく味わいもしないで価値がないと決め付けます。
岡目八目ということわざがあります。
囲碁は勝負している二人より横で見ている人の方が冷静に先を読めて八目分勝っているという意味で、それくらい自分の置かれている状況を客観視するのは難しいのです。
正しく公平に評価しているつもりでも、他人から見れば考えが浅く偏見や思い込みに惑わされているものなのです。
ましてや、面白さや深さのように定規や機械で測定できないものは、主観を排して評価するのは非常に困難です。
また、評価や感想をどう伝えるかも簡単ではありません。
人は自分の好きなものや気に入ったものは実際の価値以上に絶賛し、嫌いなものはひどくけなす傾向にあります。
よいものと劣るものについて語る場合も、差や違いを伝えようと大げさな言葉を使ってしまいがちです。
すぐれていると思うものと少しだけ劣ると感じるものを比較する時は、いまいちな方についての言葉が辛辣になりやすいです。
大きな差はないと本当は思っていても、「あれが足りない」「ここが駄目だ」「この点が及ばない」「もっとこうだったらよかった」と欠点や足りない部分ばかりあげつらうことになりやすいのです。
本人はほめているつもりでも「悪くない」「まあまあだ」「嫌いではない」などと歯切れが悪くなり、聞いた人に低い評価だという印象を持たれることもあります。
比較する時や批判する時は、言い方に十分気を付けなければならないのです。
他人の作品に難癖をつけるのは簡単です。
つつこうと思えば欠点はいくらでも見付けられますが、自分で作ろうとするととても難しいのです。
このように、普段目にすることのできるランキングのほとんどは、作品の価値や作者の才能の順番を示してはいません。
表しているのは、今どれが人気であり話題になっているかにすぎないのが大抵です。
小説投稿サイトで公表されているランキングや、本屋の売り上げの順位も、人気の度合いを表していて、面白さの順番ではありません。
図書館で貸し出し数が最も多い本が一番面白くはないでしょう。
パン屋や寿司屋で最も売れているパンやネタが一番おいしいとは限りません。
多くの人に好まれるものは、目立った特徴がなくありきたりであたりさわりのないものが多い傾向にあります。
鋭いものや激しいものは熱狂的な支持者を生み出しますが、反発や嫌悪感を覚える人もたくさんいます。
刺激の少ないものや馴染み深いものを少し変えて新味を出しただけのものの方が、多くの人に受け入れられてよく売れるのです。
その結果、鬼才の作った専門家が激賞するすごい傑作よりも、器用な秀才が量産するそれなりの作品の方が、商品としてはたくさん売れることも珍しくありません。
それに、作品を面白く感じるかどうかは好みによって大きな差が出ます。
十冊の本があって面白い順に並べるとなると、意見は様々になるでしょう。
作品に注がれた技術や工夫と出来栄えは詳しい人にはある程度の共通認識ができますが、面白さは非常に主観的なもので、客観的に評価するのは困難です。
料理も、音楽も、恋人も、人それぞれ好みが違うのと同じです。
自分の採点が正しく他の人も同じ感想を持つはずとは思わない方がよいでしょう。
個人の好き嫌いを集めたランキングは、人気を得たい人、たくさん売りたい人には重要な情報かも知れません。
しかし、素人の採点によるランキングの順位には、少なくとも作品の内容の価値の面では、あまり意味がないと思われます。
一時の流行でなく、ある程度の期間が過ぎても人気を維持しているのならば、その作品には多くの人を楽しませ引き付ける何かが含まれている可能性が高いでしょう。
古典と言われる作品群がこの代表です。
また、始めは評価が低かったけれどじりじりと順位を上げて上位の常連になるようなものも、内容がよいことが多いようです。
生前は無名だったりまったく売れなかったりした作品が、死後に注目されて名作と評価されるような場合がこれに当たります。
では、そういったランキングは役に立たないのかと言いますと、こういう作品があるのかと新しい候補を知ることはできると思います。
通販サイトのレヴューは、明らかなはずれや問題のある商品を避けるのに役立つでしょう。
企業が付けた商品の説明には書かれていないことが分かることもあるからです。
それ以上は信じず、参考程度にしておくのがよいと思います。
どんなものも自分で味わってみるしかないのです。
そうしてつけた点数は他の人の参考にはならなくても、その人自身には意味のある評価なのです。
なお、評価をゆがませる大きな原因として、優越感があります。
素人による責任を負わない批評やレヴューは、自分の評価や考えは正しいはずだ、他の人に賛同してもらいたいという感情に突き動かされて書かれることが少なくありません。
すぐれた意見を書ける自分の価値を認めてほしい気持ちがあり、他の人に見せることや反応してもらうことでその感情が満たされ、喜びを感じるのです。
以前は頭のよさを示そうと思ったら、試験でよい結果を出したり編集者に認められるだけの内容を書いたりする必要がありましたが、今は自分では深いと思う考察を手軽に公開することができます。
そこには、他の人の考えを変えたいという支配欲も隠れています。
そもそも、人は自分と違う考えを持つ人が好きではありません。
自分の好きなものを否定されたり、自分は価値がないと思うものをほめられたりすると不快に感じます。
違う意見の人がいると、脊髄反射的に、こいつが間違っている、ばかだと相手を否定し、私の方が正しい、こんな当たり前のことも分からないのか、と自分を守ろうとします。
自分を肯定したいという生物としての本能が引き起こす気持ちです。
基本的に、人が面白いと思うのは、自分の価値観や趣味や考えに合っているものです。
好みの物語や求めていた展開や結末には感動し、そうでなかった場合はがっかりします。
はっきり自覚してはいなかったものの何となく感じていたことをずばりと言葉にされると、素晴らしい意見や正しい指摘だと感じやすいです。
うすうす分かっていたけれど目を背けていたことを言われたり、信じていたことを否定されたりすると、人は腹を立てます。
人の評価とはそういうものです。
だからこそ、学問や識者の共通見解のような自分の外にある基準が必要になるのです。
優越感を感じるのは心地よいため、それを強化し支える考えを好ましく感じて正しいと判断しがちです。
よい気分にひたるのを邪魔し、冷や水を浴びせて現実を直視させる意見からは目を逸らしたくなり、間違っていると決め付けようとします。
意見の正しさや的確さよりも優越感を守ることを優先してしまうのです。
ましてや、おのれの利害に関わることや、知識や経験が豊かだと思っている分野のことでは、自分の意見の正しさを強調したい欲求は一層強まります。
自分と違う主張をする人への反発心が高まると、発言が攻撃的になり、相手の人格まで否定したくなります。
結果、批判の言葉はしばしば「間違っている」相手を非難し矯正しようとするものになってしまいます。
現実には、自分も他人も不完全な人間であり、あやまちも犯せば欠点もあります。
主張や意見も必ず偏りやゆがみがあって完璧なものにはなりえません。
全ての人が賛同する瑕疵のない満点の意見などないのです。
人のあやまちや欠点について、「改めるべきだ」と言うのと、「あやまちを犯すなんて許せない」「欠点がある人は駄目だ、認めない」と言うのは全く違います。
賢い人はそういう自分に気が付いています。
不愉快な意見を反射的に否定せず、相手を攻撃したくなる衝動を抑え、公平さや客観性や科学的かどうかなどを自己点検しますが、おのれの全ての思考を管理できる人は滅多にいません。
優越感から物を言うと辛辣になりやすいのです。
それがインターネット上のサイトなどではさらに激しくなります。
目の前にいる人に向かって、「ばかなんですね」「あなたが嫌いで受け入れられません」とは普通は言わないでしょう。
作品の即売会で作者に対して「こんな駄作にお金を払う気にはなれません」と大声で文句を言う人もまずいないと思います。
しかし、顔が見えず、相手が知り合いでないと、遠慮がなくなります。
自室で一人きりで画面を見つめていると、多くの人の目に触れることを忘れ、普段口にしないような厳しい言葉を書いてしまうこともあります。
では、信用できる批評やレヴューとはどのようなものでしょうか。
インターネット上にある素人の書いたものの場合、文章のうまい人ほど内容もよい傾向にあります。
小説投稿サイトの作品も、文章が上手な人の作品は面白いことが多いです。
上手できれいな文章を書くには、単語一つ一つ、各文や段落や章について、そこは本当にその言葉や表現でよいのかをよく考えなくてはなりません。
何度も読み返し、木の彫刻にやすりをかけるように、でこぼこや違和感がなくなり滑らかになるまで丁寧に時間をかけて磨いていく手間と情熱が文章の質を上げます。
登場人物の配置やストーリーの構成も、熟慮することで面白くなっていきます。
この時、思い込みや決め付けは厳禁です。
読者の目にどのように映るのかを想像し、引き起こす感情や抱く感想を予想して、文章や物語を組み立てていくのです。
できる限り客観的に自分の書いた文章を眺め、おかしなところは修正する姿勢が、そういう作者は癖になっています。
ですから、文章を見て、しっかりしているならば、その考察には目を通す価値があるかも知れません。
逆に、誤字脱字がたくさん残っている場合、作者はその文章に思い入れが薄く、表現と内容に責任を負うつもりがないと思われます。
公開することにともなう責任や起こりうる問題についても覚悟をしていないでしょう。
結局、人は楽しいから点数をつけ、批判をし、レヴューを書くのです。
つらく苦しいことなら素人が進んでするはずがありません。
政治家の不正や配慮に欠けた言動など、厳しく批判しなければならない問題もありますが、音楽のCDの演奏が気に入らなかったとか小説がつまらないなんてことは放っておいてもかまわないことです。
ゆえに、肯定であれ否定であれ、心地よく語れるものには多くのレヴューや批評が集まります。
素人がほめやすいまたはけなしやすい作品は話題になりやすいのです。
逆に、完成度が高くて欠点が少なく深いテーマを持つ作品は、直感的な感想は浅く見えてしまいやすく、分析や論評に熟慮や知識が必要なため、なかなか評価してもらえず、一般受けしにくくなります。
採点する目的が自身の満足である以上、完全な中立や私欲の全排除はなかなか難しいですが、せめて読んだ人の役に立つ、つまり読んだかいのある批評ではあるように心がけたいものです。
お読みいただき、ありがとうございました。




