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言わぬが花 第十回 信頼と安心感

 随分前のことですが、柳家小三治さんの落語を聞いたことがあります。


 彼の前に演じた漫才や落語も面白かったのですが、とりをつとめる小三治さんが舞台袖から出てきた途端、会場の雰囲気が変わりました。

 観客全員が期待していることがはっきりと分かり、人々の表情はもう笑う準備をしていました。


 小三治さんはよろよろと形容したくなる足取りで歩いてきて座布団に座り、猫背気味に前を向いて言いました。

「さて、今日は何をしましょうかねえ」

 ただそれだけの言葉で、大きな笑いが湧き起こりました。

 他の演者の時とは違う、無理がない自然な笑いでした。息を吐くように口から笑い声がもれ、表情がゆるんだのです。


 同じような経験を、五代目三遊亭圓楽(えんらく)さんの時もしました。桂歌丸さんの前に『笑点』の司会をしていた人物です。

 円楽一門の会だったのですが、最後に彼が現れると、お客さんたちの雰囲気ががらりと変わったのです。


 どちらも、大きな期待と、それ以上に安心感が会場を包みました。

 名人とはこういうものなのだと、しみじみと思ったことをよく憶えています。



 テレビで漫才を見ていると、つい笑ってしまうコンビとあまり面白く感じないコンビがいます。

 笑える方には笑いたくなる雰囲気があり、ささいな言葉でもおかしいです。

 笑えない方は、無理に笑わせようとしている感じがして引き込まれません。

 同じ言葉でも、コンビによって笑えたり笑えなかったりします。

 笑える雰囲気を作れるかどうかが、面白さを大きく左右します。


 これは物語も同じです。

 小説の中でギャグを書いたとします。

 笑って欲しいところです。

 そのギャグが効果を発揮して読者をにやりとさせるかどうかは、何で決まるのでしょうか。


 ギャグの切れ味ですか。

 もちろん、それは重要です。

 ですが、同じくらい大切なものがあります。

 それは作品の雰囲気です。


 ストーリーや起こる事件の内容、文体、ジャンルなどから、読者はその作品の雰囲気を感じ取ります。


 この作品は何をやりたいのか。

 どういう目的で書かれているのか。

 どのように働きかけてきて、どのような反応を期待しているのか。


 こうしたことから、読者はそのギャグで笑ってよいかどうかを判断します。

 恐ろしい事件が起こったり、テーマが重かったりすると、読者はあまり笑う気にはなれないでしょう。

 逆に、軽く明るい乗りの作品なら笑いやすくなります。


 このように、作品の雰囲気を制御するのも創作技術の一つです。

 典型的なのはサスペンスやホラーですが、他のジャンルでもとても重要です。

 最も影響を与えるのは文体で、ストーリーや、登場人物の描き方や関係性、舞台の世界の設定も大きく関係します。


 そして、雰囲気と同じくらい大切なのが、作品への信頼です。

 この小説は面白いはずだと読者が思っていれば、笑って欲しいところでためらわずに笑ってくれるでしょう。

 作者の腕前を信じていれば、到底不可能と思われる密室殺人事件が起こっても、きっと見事な推理でトリックが明かされるだろうと期待します。

 そうした安心感があってこそ、作品を落ち着いて楽しむことができるのです。


 これは作品一つ一つだけでなく、シリーズやその作者の小説全体についても言えます。

 ファンというのは、作者を信頼し安心している人たちと考えることができます。


 本屋に並ぶプロの小説が素人の作品と決定的に違うのは、この安心感です。

 プロの編集者が読むに値する面白い本だと保証しているのです。



 では、信頼され安心感を与えるにはどうしたらよいのでしょうか。

 それは期待に応えることです。


 作者や作品への信頼とは、時間と労力を使っても読むに値する内容があるだろうという期待です。

 そういう書き手の作品だから、読む気になるのです。

 この期待に応え続けていけば、最後まで読んでくれて、もしかしたらファンになってくれるかも知れません。


 そのためには、作品全体の完成度はもちろん、各章や各場面も読者を納得させられるくらい面白くする必要があります。

 説明的な部分やクライマックスの準備をする部分も、ここを読むことは後の大きな驚きや面白さにつながるのだろうと感じさせるように書きます。


 また、ジャンルやストーリー類型の約束事は守りましょう。

 きちんと推理小説している、時代小説らしい雰囲気が出ている、SFの定番の設定を踏まえているといったことが読者に安心感を与えます。


 加えて、作品の冒頭は非常に大切です。

 読者が不安を感じて先を読むのをやめてしまわないように、ある程度の信頼を得られる書き方が必要です。

 技術の高さを示したり、他の作品では読めない何かがあると期待させたり、死体を転がすなどおなじみで分かりやすい始め方をしたりするなど工夫しましょう。


 更に、自分の書き方を見付けましょう。

 独自の創作理論を作るのです。

 作者のそういった癖は個性になり、ファンは愛してくれます。

 その作者らしい作品であることが、安心感を生みます。


 そしてもう一つ、これらと同じくらい重要なことがあります。

 それは、面白いと思うものを全力で書くことです。


 頑張れば必ず傑作を書けるわけではありません。

 傑作というのは、様々な要素がうまく組み合わさっていわゆる「化学反応」を起こすことで生まれるもので、ねらってもなかなか作れるものではないのです。


 しかし、頭を絞って工夫を凝らし、真剣に取り組み丁寧に仕上げれば、作品の質を上げることはできます。

 傑作は無理でも佳作(かさく)を生み出すことはできるのです。

 そうした努力がなければ傑作が生まれることもありません。

 すぐれた作品を目指して努力し続ける作者を、読者は信頼するだろうと思います。


 逆に、手を抜くと、絶対に見抜かれます。

 考えの浅いところ、誰かのアイデアを拝借したところ、定番の展開で誤魔化したところは、読めばすぐに分かります。

 推敲が甘く、誤字脱字やおかしな表現が多いと、作品に責任を持つ気持ちが薄いように感じられます。

 そういう人は信頼されません。

 熱意の有無を読者は感じ取ります。

 魂の込め方にも上手下手があり、それも自分なりに全力で書く経験を積めば自然とできるようになるでしょう。


 信頼は急に作れません。

 作品を読み進めるうちに、段々と生まれ育っていくものです。

 各場面の時点で読者がどれほど信頼し期待しているかを、物語を組み立てる時、書いていく時に考慮できる人は、実力があると思います。


 この作者の作品は絶対に面白いよねと言われるようになれば、プロの作家になれるかも知れません。

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