8.地獄の特訓(後)
「あ、あんた! なに言ってんのよ!」
《次元移動》が第八階梯の大魔術師級の呪文であることなど、目の前の光景とユウトの宣言で吹っ飛んでしまったのだろう。
ペトラが噛みつかんばかりに、ユウトへ迫る。
「お嬢、静かにせい」
それを制したのは、パーティ唯一の男、ドワーフの盗賊であるデガルだった。
「なによ、デガル。ちょっ、いつも引っ張るなって言ってるでしょ」
「あれを見んか」
頭には手が届かないため、アッシュブロンドのサイドテールを引っ張り、注意喚起する盗賊。
魔術師のネラと司祭のミルシェも、身を屈め警戒態勢に入る。
「あれって……なによ……あれ……」
ドワーフが指さした先。
そこには、黒い小山があった。
ただし、ぶんぶんと耳障りな羽音のする動く小山だ。
「ハエでしょうか?」
「かなり大きいように見えますが……」
そう言いつつ、ミルシェはユウトへ説明を乞う視線を向けるが、当然ながら黙殺。その態度で、現実――自分たちでどうにかする――を悟らざるを得ず、温厚なはずの笑顔をひきつらせる。
「あんた、なんとかしなさいよ」
「なんで?」
「なんでって、責任とりなさいよ」
「女性から言われたくない台詞でランキングを作ったら、上位に入りそうだなぁ」
残念ながらそのジョークで場を和ますことはできず、デガルから消極的な賛成を得るだけで終わる。
「それはさておき、もう修業は始まっているよ。このまま観察を続けるのか、戦うのか、退却するのか。決めるのも実行するのも、キミたちだ」
もちろん、ユウトもこの場にいる以上、本当に危険なことをさせるつもりはない。壊滅しそうになれば、手助けはする。
ただし――
「俺はただのセーフティネットだ。最初から、頼られちゃ困るな」
「お嬢様……」
「とりあえず、この場から相手を観察するわよ。なにをするにしても、相手を知る必要があるわ」
腹をくくったのか、ユウトは頼りにならないと判断したのか、傲岸不遜な大魔術師に有能さを見せようとでもいうのか。
とにかく、観察を選択したペトラ。
そして――その選択を後悔するまで、時間はかからなかった。
「うぐっ」
小山と思っていたもの。
それは、ひとつひとつが狼ほどの大きさがある蚊だった。冷静になると、遠目にも特徴的な針のような口吻の存在が分かる。
その巨大な蚊の群れが牙を生やしたゴリラのようなモンスターへ集り、代わる代わる針を頭へ突き刺していく。
猩猩の悪魔と呼ばれるエイポヌリスも、やられるだけでなく丸太のような腕を乱暴に振り回してはいるが、数が違う。
ついに、口先の針が目に突き刺さり、どうと倒れて絶命した。
「さすが、奈落です……」
「なんて汚らわしい……」
だが、当然というべきか、これで終わりではない。
地面に倒れ伏した猩猩の悪魔エイポヌリスが不意に痙攣をはじめ、体内に長虫がのたくっているかのように全身が波打ち――ぴたりと止まる。
断末魔の痙攣だろう。誰もが、そう思った。
ユウトを除いて。
動きを止めたはずの、頭部が爆ぜた。
そこから、同じ蚊の悪魔が何匹も飛び出してくる。
これが、蚊の悪魔――ダブレルグスの産卵。
生まれたてのダブレルグスは苗床となった肉体から血を吸い、すぐに成体となる。
見る見るうちに干からびていく猩猩の悪魔エイポヌリスを見て、陽気なドワーフでさえも顔が青ざめた。
そんな彼らと蚊の悪魔の距離を測りながら、ユウトは一人《長距離飛行》の呪文を発動させた。戦うにしろ、逃げるにしろ、徒歩で付いていける自信など無い。
「それで、どうする?」
「どうって……」
言われるまでもない。決断を下さねばならない。
けれど、ペトラは衝撃的な光景を前に、吐き気をこらえるのがやっとだ。
討伐の依頼を受けて、あるいは偶発的に、ゴブリンやオーガなどの悪の相を持つ亜人種族と戦ったことはある。おぞましい不死の怪物を退けたことも一度や二度ではない。
それでも、悪魔の冒涜的な所行に恐怖の感情を抑えきれなかった。
「お嬢様、たぶんあれは蚊の悪魔ダブレルグスです」
そこに、魔術師の少女――ネラの言葉が飛ぶ。
「確かにおぞましい相手ですが、悪魔の序列では最下級。私たちでも、なんとかできます……たぶん」
「でも……」
公私ともに、頼りにする少女の助言。
髪と同じ灰色の瞳が揺れる。
ミルシェとデガルの二人は、任せるとペトラを見ていた。
「……逃げるわよ」
どこへ? とは、誰も聞かない。
とにかく、蚊の悪魔ダブレルグスの反対側へ、ペトラたち四人は駆けだした。
その先に、なにがあるかも知らず。
ペトラたちを空中から追走するユウトは、彼女の決断をそもそも評価の対象とはしていなかった。
戦えば、恐らく勝てただろう。しかし、今の状態ではちょっとした不注意で卵を植え付けられかねず、その恐怖で動きが鈍るのは避けられない。
一方、逃げたところで、より厄介な相手に遭遇しかねないのが、表層とはいえ奈落の現実。
その意味では、即座に決断を下した。それ自体には、価値があるかもしれない。
「禍々しい悪の気配に溢れています……」
硬い金属のような大地を踏みしめ、逃げ込んだ先は瘴気が漂う森だった。
広葉樹のようにも見えるが木々は奇妙に歪みねじくれ、枯れ果て得体の知れない実からは時折極彩色の気体が放出されている。
悪魔諸侯の一柱、妖樹の御子ニーケンララムの祝福を色濃く得た一帯。
妖樹の御子ニーケンララムが、ここ数十年行方不明であるためその祝福も往時に比べて薄れている――という事実を聞いても、ペトラたちには慰めにもならないだろう。
「す、すごいです……」
「ああ。だが、立ち止まるわけにもいかんじゃろ」
意を決し、瘴気の森へと足を踏み入れる。
「なんで私たちが、こんな目に……」
ペトラの口から愚痴が漏れるが、それでも警戒は怠らない。
後ろから見守るユウトの目にも、落ち度は見当たらない。
だから、それは相手が上回っていただけの話。
「うッ、きゃああぁっっ」
瘴気の森に、少女の悲鳴が木霊する。
「ネラ!?」
その前を進んでいたペトラが、反射的に槍を構えながら振り返る。
まず目に入ったのは、髭のようなもので雁字搦めにされた魔術師の姿。次いで、その元へと視線を上げると、そこには椰子の実のような物が浮かんでいた。
ただし、その全面に単眼を見開いたバケモノ――浮遊する果実の悪魔フラミドウラスだ。
「お、おじょうさま……。逃げ……」
「こ、この悪魔!?」
精気でも吸収されているのか。髭のような物に巻かれているだけで、ネラはぐったりとして抵抗もできない。
「《炎熱の矢》」
怒りに燃えるペトラが、腰に下げていた巻物入れから巻物を取り出し、魔法の槍にまとわせる。
呪文が発動すると同時に穂先が炎に包まれ、その勢いのままフラミドウラスの単眼目がけて槍を突き出した。
「ギュルギュルギュルギュル」
奇ッ怪な声を上げ、フラミドウラスは拘束を解き放って樹上へと逃れる。
「《精気回復》」
ネラが地面に倒れるよりも早く司祭のミルシェが抱き留め、同時に回復呪文を唱えた。
「お嬢、新手じゃぞ」
周囲を警戒していたデガルから、警告の声が飛ぶ。
それと、猩猩の悪魔エイポヌリスが降ってくるのは同時だった。
「よりによって、こっちへ来るなんて」
「ちぃッ」
エイポヌリスが丸太のような両腕でミルシェへつかみかかろうとする寸前、デガルがクロスボウを発射し、その腕にボルトが深々と刺さる。
「《雷撃》」
同時に、ギリギリで回復したネラが呪文書のページを三枚破り、自らとエイポヌリスの間へ等間隔に並べる。
弱々しく振り下ろした指先から雷光が迸り、呪文書を導線にして猩猩の悪魔の巨体を撃つ。
「とどめよ!」
そこに勇躍、ペトラがロング・スピアを突き出すが、再び現れた浮遊する果実の悪魔フラミドウラスの髭に巻き取られてしまう。
「くっ、離しなさい!」
「ギュルギュルギュルギュル」
単眼から喜悦の声を発し、悪魔が少女から精気を吸収していく。
それを、デガルが再装填の終えたクロスボウで妨害し、ミルシェは回復に追われ、猩猩の悪魔が牙をむき出しにし襲いかかり、ネラが呪文で迎撃を試み、また、フラミドウラスが現れるという悪魔のサイクルに陥る。
そんな泥仕合を十分も繰り返し、最後は地力の差もあって、なんとかペトラたちは悪魔に打ち勝った。
けれど、肉体も精神も限界。恥も外聞もなく、その場にへたりこんでしまった。
しかし、ここは表層とはいえ奈落だ。
小休憩を取る彼女たちの耳に、あの忌まわしい羽音が聞こえてくる。
新たな苗床を、産卵の機会を狙って。追ってきたのだ、蚊の悪魔ダブレルグスが。
「くっ。このままじゃ……」
動かなくては。
頭では理解しているが、弛緩した肉体は易々と思い通りにはならない。脳裏に、あのおぞましい光景が浮かんでくる。卵を植え付けられ、貪られ、死ぬしかないのか。
「嫌よ。ゼッタイに負けたりなんか――」
「まあ、とりあえずはこんなものかな」
じっと黙って見ていた。ペトラたちも気にする余裕が無かったユウトが初めて動く。
「《冷気の矢》」
呪文書から切り離されたのは、一枚の紙片のみ。
ユウトの前に浮かんだ呪文書のページから、五条の水色の光線が発射された。
それは狙いを過たず蚊の悪魔ダブレルグスを捉え、氷漬けにし、あっさりと破砕する。
第一階梯の、新米魔術師でも使えるような呪文で。
「あはは、あはははははははは」
壊れた機械のように、ペトラが笑い声を上げた。
「こんな簡単に倒せたなんて」
もちろん、第一階梯の呪文とはいえ、使用者により効果は変わってくる。ただし、《冷気の矢》は一度に発射される光線の数だけが変わり、一本一本の威力はそのまま。
「私のせいだわ……」
恐怖に駆られ、逃げだし、結果としてより大きな危険に飛び込んでしまった。
ペトラは、その事実に恐怖する。
「百層迷宮の四十五層は、ここよりも過酷なのね?」
「潜ったことはないけど、話を聞く限りでは、そうだね」
「メルエル学長の判断は正しかった……」
「それも、イエスだ。ただ、今の戦いぶりを見る限り、ペトラ・チェルノフ。キミのせいだけとも言えない」
そう言ったユウトは、もう一人の魔術師、ネラへと視線を向ける。
「なぜ、あの場面で《雷撃》を?」
「私が使える呪文の中で、一番威力があるから……です」
「けど、倒せなかった」
冷静に事実を指摘する。
「もちろん、倒してしまうのが最善だ。けれどそれは、目的じゃない。本当の目標は、状況を好転させることなんだよ。だから、あの場面では、《転倒》や《蜘蛛の糸》のような、行動を阻害する呪文の方がより良かった」
次に、ユウトはドワーフの盗賊に声をかける。
「それから、デガルさん。あなたの危険感知能力はそれなりだと思いますが、警告だけで終わっている。攻撃も、急所を狙えていない。あまりにもお粗末だ」
当然、太陽神の司祭にも舌鋒が振るわれた。
「ミルシェさん、あなたも回復だけに気を取られすぎている。結果として、状況判断がすべてペトラへ押しつけられている自覚はありますか? 本来であれば、状況を確認し、指示を出すのはあなたの仕事でもあるよ」
ユウトからの指摘を受けて、それぞれ思うところがあるのだろう。うなだれ、その言葉をかみしめる。反発する気力はないようだ。
最後、ペトラはなにを言われるのかと身構えたが――降ってきたのは意外な言葉だった。
「ペトラ。キミの頑張りは認めるが、リーダーには向いていない。ただ、戦士としての力量は、まあ、悪くない。でも、自分があれこれできるほど器用じゃないと認識はするべきかな」
驚きに、ペトラは目を丸くする。
その瞳には、わずかに涙が浮かんでいた。
「事情を喋れない中、一人で頑張ってきたのは分かる。けど、もう、一人で背負う必要はないんだよ」
「お嬢の秘密をどこで知ったんじゃ……」
デガルがドワーフ特有の長い髭を揺らし、目を見開いて驚愕を表す。
「彼女は、百層迷宮に潜る理由を『話せない』と言った。『話したくない』でも『話す必要がない』でもなく、『話せない』だ。そして、百層迷宮の四十五層には秘宝具の神聖なる灌水器があるそうだね。そこから湧き出る聖水を口にすれば、万病が治るという」
しかし――と、ユウトは続けた。
「ただ病気を治すだけであれば、それにこだわる必要はない。たぶん、呪いかな。指定された誰かが独力で神聖なる灌水器の聖水を手に入れ、それを飲ませることでのみ病は癒される。そんな呪いがキミの近親者にかかっているんだろう」
名探偵のようにすらすらと、推測を口にする。
これが、ヴァルトルーデやアルシアがユウトへ一任した理由だ。もっとも、そのための手段――奈落での特訓――を聞いて、かなり真剣に止めようとはしていたのだが。
「でも、もう大丈夫だ。俺も協力をするから、一緒に試練を乗り越えよう」
「うっ。わっ、わあぁぁっっん」
ペトラは泣いた。
人目をはばかることなく、泣いた。
「だって、おどうざまは、議会の仕事でおいぞがしくて、なにもしてくださらないし。お母様は、人目に触れないようにって、離れへ閉じこめられてしまうし。誰にも喋れないから、わだじが、わだじが一人で、がんばらなくちゃって……ッッ」
泣きながらユウトの足にしがみつき、今までのストレスが爆発したかのように叫ぶ。
ペトラ以外のパーティメンバーは、その事情を元々知っていた例外なのだろう。感情を爆発させるアッシュブロンドの少女の姿を見て、もらい泣きをしていた。
「うん、キミはがんばった。もう少し。もう少しだよ」
ユウトは膝をつき、そんな彼女と目線をあわせて優しく頭を撫でる。
アカネが見ていたら「どこの宗教の勧誘よ」とドン引きしているシチュエーションだったが、効果は絶大。例外なく、全員の目の色が変わっていた。
「さあ、時間が惜しい。これを飲んで、次へ行こう」
無限貯蔵のバッグから取り出したのは、レン謹製の魔法薬。傷や体力を回復させるそれを、惜しげもなく使って戦闘準備を整える。
「みんな、改めてよろしくね」
乱暴に涙を拭い、今までで一番の笑顔を浮かべたペトラが仲間たちへ手を伸ばす。
「私は、いつでもお嬢様と一緒ですから」
「フェルミナ神のご加護を」
「もちろんじゃ」
四人の手が重なった。
とはいえ、それで急に連携が良くなるわけでも、実力が底上げされたわけでもない。
この後も、不気味な悪魔たちに、翻弄され続けた。
しかし、ペトラたちはあきらめない。
初日の終わりにはコンビネーションが確立され、二日目には戦術が最適化され、あれほど翻弄された果実の悪魔フラミドウラスも、先制攻撃で排除できるようになっていた。
大量の魔法薬を浴びるように使って何度も戦闘へ赴き、ユウトの適切なフォローを受け、戦闘後のミーティングを繰り返した結果だ。
そして、最後の三日目。
「師匠、やりました!」
卒業試験として、ユウトは同行せず森の中を探索したペトラたち。
三時間後、誰一人欠けることなくユウトが待機するベースキャンプに現れた。
血と泥で汚れてはいたが、表情は実に晴れやか。
手には、あれほど苦戦した猩猩の悪魔エイポヌリスの生首をいくつも抱えている。
(ちょっと、やりすぎたかな……)
役目を果たした番犬のように、褒めて褒めてと無言で迫るペトラの姿に若干の戸惑いを覚えつつ、求められるまま頭をなでるしかないユウト。
「みんな、よく頑張った。今の実力なら、メルエル学長も必ず許可をくれるはずだ」
「はい! 師匠のおかげです!」
「学院へ戻るから、準備をお願い」
「はい! 師匠! みんな、三分で片付けるわよ!」
もはや、ユウトに反発していたころの彼女を思い出すのも困難だ。
ユウトは手早く《次元移動》を発動し、三日ぶりにブルーワーズへ戻る。
古黒竜の前にペトラたちを残したまま学長室へと移動しようとし――その途中で、待ちうけていたのだろうか、メルエル学長と行き合った。
いつもの好々爺然とした顔には苦笑が浮かんでおり、なんらかの手段で事情は把握していたのだろう。ユウトへ百層迷宮への立ち入り許可証を手渡す。
「アマクサくん。私が言うのもなんだが、君は教壇に立たない方が良いね」
「今回は例外ですから」
まじめ腐った表情で、ユウトはそう答えた。
その後――
当然のように神聖なる灌水器から聖水を手に入れ、ペトラの母親は快癒した。
パベル・チェルノフ。フォリオ=ファリナに九人しかいない世襲議員は、十年ぶりにベッドから起きだすことができた妻に感動すればいいのか、豹変した娘になにがあったのか尋ねればいいのか。
終始、戸惑いの表情を見せていたという。




