9.
公爵夫人室に戻るとマーサは立って待っていた。
彼女に応対用のソファーに座るように促すが首を振って固辞をする。
ならばと私も立って応対することにした。
相手を見上げながら長話をするのは首が疲れる。
「訊きたい事はあるけれど、まず話したい事を話して頂戴」
「はい……」
ロンの子供部屋で物言いたげに私を見つめていたマーサに告げる。
彼女は憂いを帯びた表情で私の言葉に頷いた。
「ロン坊ちゃまは、昔からとても良い子で御座いました」
唐突にマーサはロンを褒める。しかし表情は暗いままなので台詞と合っていない。
「もっと幼い頃から身の回りの事は出来るだけ自分でしようとして……私が止めてもそれだけは譲りませんでした」
「それは……ロン君を褒めてあげたいけれど、確かに複雑な気分にもなるわね」
「……はい」
私の同意にマーサは静かに頷く。
確かに自分の事を自分でしようとするのは良い子だ。
けれどロンは公爵家の子供で、その場合身の回りの世話は使用人任せになるのが普通なのだ。
大人になっても程度の差はあれそこは変わらないだろう。
私だって公爵夫人となった今はドレスの着付けや化粧等は侍女のアイリに任せている。
けれどオルソン伯爵家で使用人のように扱われていた時は全部自分でしていた。
つまりロンはその時の私と同じ意識なのだ。
自分を使用人や平民だと思っている。
(いや、将来そうなると認識しているというのが近いわね)
彼の思い込みをそんな事は有り得ないのにと笑って否定する事は出来ない。
ロンがそう考えるようになる扱いを今までされて来たというのは予想に難くなかった。
「マーベラ夫人が家庭教師を辞めた後も、ロン君の考えは変わらないの?」
「いえ、奥様のお陰で変わってきていると思います。以前なら私以外に御自分の絵を見せようとはしない筈ですから」
「嬉しい事だわ。画材が足りなくなったら今後は遠慮なくカーヴェルにでも頼んで頂戴」
「はい、有難う御座います」
「買い物は買い物でちゃんと行くわ。ロン君のお願いだもの」
正直画材商人を屋敷に呼ぶ方が楽だ。
けれど自己評価が低いロンがねだった事なのだから、可能な限りそのまま叶えてあげたいと思う。
そうして願いを大人に叶えて貰う事によって彼の自己肯定感も育っていく筈だ。
「ロン君付きの侍女も足りなかったら言って頂戴」
「いえ、そちらは大丈夫です。元々私一人でも十分だったので……」
マーサが言いかけて何かに気付いたように言葉を止める。
「どうしたの?」
「私一人でロン坊ちゃまのお世話が行えたのは……あの方が手のかからない子供だったからだと、気づきました」
「……そうかもしれないわね」
「私は、情け無い侍女ですね」
「そんな事は無いわ」
新しいロン付き侍女を雇用する際、私はホルガー経由でマーサの勤務状況を確認した。
そして彼女が何年もの間ろくに休みを取っていない事に気付き唖然とした。
マーサの少ない休みは半休ばかりで、一日休みが一回も無い月さえ有った。
それは元家令のホルガーも似た物だったが、だからと言って許容される物でもない。
給与は月額なので働けば働く程マーサが損をするだけだ。
私はこれを知った時、よく彼女が屋敷を辞めなかったものだと驚いた。
ここまで仕事に生活を奪われた状態であれこれ考える方が難しいだろう。
「ロン君付きの侍女が一人しか居ない状態で何年も貴方は働いてくれた、それだけで十分よ」
「奥様……」
「今まで取れなかった休みの分は今後小分けにして取得出来るようにするから」
「いえ、私が働きたくてしたことなのでそちらは結構です。ただ……」
「ただ?」
「一度実家に顔を見せに行きたくて、一日程屋敷を留守にさせて頂きたいのです」
「構わないわよ」
「有難う御座います」
私が快諾するとマーサは丁寧に礼を言った。
休日に実家に帰る事に許可なんて取る必要は無いと思うが、貴族の屋敷では必要な行為なのかもしれないと考え直す。
そんな事を考えていると、マーサから声をかけられる。
「あの、奥様……」
「何?」
「その……今後もロン坊ちゃまを宜しくお願い致します」
私はあの方の母親にはなれないので。
そう寂し気に微笑むマーサからは隠し事の気配がした。




