60.
図書室から借りた本に目を通しつつ一時間ほど待機する。
しかし新たな来客は無かった。
「アイリ、お風呂の用意をお願い」
「かしこまりました」
「少しだけ外出するわ」
本を机の上に置いて私は公爵夫人室を出た。
廊下には誰もいない。少し前までレオが居なくて大騒ぎだったのに静かな物だと思う。
数人のメイドと擦れ違ったがそこに捜している姿は無かった。
レオを捜すように命じたレオ付きメイドも、侍女長のマレーナも居ない。
私の所に訪れることも無かった。
少し考えてホルガーの部屋の扉を叩く。
名乗ると丁寧な入室許可が出た。
「失礼するわね」
私は扉を開けて入る。
ベッドには急に老け込んだようなホルガーがいて、その横には目尻を僅かに赤くしたカーヴェルが立っていた。
何かあったことは一目瞭然だが、不穏な空気は流れていない。だから私はその違和感を流す。
「私と別れた後にマレーナとは会った?」
「はい、この部屋を訪れて謝罪が終わったという報告を受けました」
「そう」
謝罪を命じたのは私なのに、その報告をカーヴェルにするのか。
この違和感は見過ごしてはいけないものだ。だがそれだけでは糾弾には弱い。
「入浴について注意はしてくれた?」
「はい、レオ様も成長されたことを説明し今までとは距離感を変えるようにとお願いも致しました」
なら私の方からマレーナに言うことは無い。少なくとも今は。
ただ懸念が一つあった。
「マレーナはレオ君の気に入りのメイド、彼が反発しないかしら?」
「レオ様にも話させて頂き、ご理解を賜りました」
「レオ君とも話をしたの?」
私は驚く。カーヴェルは穏やかに微笑んだ。
「少し前、空腹だとこの部屋をお訪ねになったのでその時に」
彼の説明に私は首を傾げる。
空腹ならマレーナや部屋付きのメイドに訴えればいいだけだ。
なぜわざわざ自室から離れたこの部屋まで来たのだろう。
そこまで考え、カーヴェルの優し気な微笑みを見つめる。
何となくだが勘が働き私は口を開いた。
「……レオ君は貴方に懐いているのかしら」
「そうだとしたら光栄です」
口にするカーヴェルに驕ったり得意げな様子は無い。
落ち着いた態度にレオが懐く理由もわかった。
池から屋敷に戻る間もレオはカーヴェルには棘の無い態度だった。
自分の話を聞いてくれる穏やかな成人男性の存在をレオは求めていたのでは無いだろうか。
もっとシンプルに言えば、父親代わりだ。
カーヴェルはケビンより年下だが、レオにとってはどちらも大人の男だろう。
彼の依存先を増やしたいという私の願いは、何もしなくても叶いそうだった。
そんな私にカーヴェルは何かを決意したような表情で告げる。
「奥様、本日付けで家令見習いとして働かせて頂いても宜しいでしょうか」
私は目を軽く見開く。
それは確かに有難いが、彼が家庭教師を担当する甥たちはどうなるのだろう。
私の疑問を察したようにカーヴェルは口を開く。
「甥たち用の課題は明日までに作成します。ですので明日の午前だけ外出許可を頂きたいのです」
「それは構わないけれど……それって課題を本日中に作るということよね? 無理はしないで欲しいわ」
「大丈夫です、文官時代から徹夜には慣れておりますので」
「少なくとも私の管理下に居るなら徹夜に慣れて欲しくないのよね。どうしてもと言うなら課題は小分けして作成して頂戴」
そして定期的に甥たちとの元に届けさせればいい。
私が提案するとカーヴェルは戸惑った顔をした。
「しかしそれはアベニウス公爵家の労力を私が私物化することになります」
「家令としての業務上必要な事だと公爵夫人の私が判断したのよ。私物化では無いわ」
私がそう告げる。
「突然呼び出して勤務して貰うのだからそれぐらいの便宜は必要よ。貴方にも甥御さんたちにもね」
「奥様……有難う御座います」
「今日は客室に泊まって頂戴。ホルガー、利用可能な客室はあるわよね」
「はい、御座います奥様」
私に突然話を向けられたホルガーはすぐ返事をして該当の客室についてカーヴェルに告げた。
「それとカーヴェルの仕事服や業務に必要な物一式の発注もお願い。なるべく早くね」
「かしこまりました」
不満や戸惑いを一切浮かべず瞬時に承諾するホルガーには長年家令職に就いていた風格があった。
ホルガーは決して完璧では無いが、無能なイメージだけを息子に植え付けるのもフェアでは無いだろう。
用件が済んだ私は二人に挨拶して自室に戻る。
そして本の続きを読んでいると入浴の用意が出来たとアイリが教えてくれた。
温かい湯に浸かると一日が終わりつつあるのを実感する。
(明日はドレスを作って、そしてレオやロンの様子を見て、使用人たちについても……)
今日だけで数か月分働いたような気持なのに、まだまだやることは山積みだ。
けれど有難いことにその内の何割はカーヴェルが請け負ってくれた。
(本当に有難いことだわ)
厄介な使用人ばかりだけれどアイリやカーヴェルと言った優秀な使用人も得られたのだから悲観してばかりはいられない。
(カーヴェルだけは、絶対死なせないようにしないと……)
レオが懐いているなら尚更だ。きっとカーヴェルが居ればレオの魔王化をある程度は抑止してくれるだろう。
(期待し過ぎても不味いとは思うけれど……それでも期待してしまうわね)
私は欠伸を一つする。このままでは湯船で眠ってしまうと思い、物足りないながらも入浴を終えた。
私の髪を乾かし終えたアイリに部屋に戻って休むよう告げ、整えられたベッドに横になる。
途端待っていたように眠気が全力で私を襲った。
そして私の長い一日はやっと終わったのだった。




