58.
正直カーヴェルが暗い気持ちになる心当たりは山程ある。
父がぎっくり腰だから至急来いと言われ、食事もせず駆け付けたら遅いと怒られる。
更に家庭教師の仕事をしてるのに公爵家の家令になれと言われる。
その公爵邸の中身は滅茶苦茶で勤務開始前から駆り出され泥だらけになる。
(私だったら父親と縁を切っても就職断るわね)
私も前世で息子たちに家業を継がせたが、中高大それぞれの時点で意思確認はしていた。
本人の希望重視だったので別業種に行った息子もいる。
立場も国も世界観すら違うから、自分と同じ感覚でいろとホルガーには思えないけれど。
「……お父様に、失望した?」
私は尋ねる。カーヴェルはそうかもしれませんと静かに同意した。
「ただ私自身は父にそこまで期待してはいなかったと思います。年の離れた兄が父を居ないものとして扱っていたので」
「そう……」
「私たちの家では兄が父代わりでした。私は兄の価値観を尊敬しているので、彼に見放されている時点で相応だろうと」
長期間父親が単身赴任している家庭とはこういう形なのだろうか。
考えてここまでの所は中々無いだろうなと思った。
帰らないと顧みないはきっと違う。
「……ただ、母だけはずっと父を信じていました。父はアベニウス公爵家に欠けてはならない人だから仕方が無いのだと」
「お母様は、そう信じていたのね」
「はい。だから病に苦しみ死を迎える時さえ邪魔できないと気を使って……そうして夫の事だけを考えて逝きました」
私と兄たちが傍にいたのに。
ぽつりとカーヴェルが呟く。そこには憎しみも悲しみも感じられなかった。
「そのことを考えると母の人生は何だったのだろうと思ってしまったのです」
そう語るカーヴェルを優しい人だと思った。
彼は父親に見向きもされず後継として利用される己の事より、母親の生き方に苦しみを感じ傷ついている。
私は正直彼の母親の気持ちは少しだけ理解出来た。
夫が優秀で忙しいから帰ってこないと思い込むことで矜持を保ち寂しさを埋めていたのだろう。
ただそれを息子たちにも強いていたのは母親としてどうなのだろう。
父親は公爵家だけを見て、母はそんな夫の虚像を見つめ、だから長男は父親代わりになりカーヴェルは物分かりが良過ぎる人間になった。
自分も前世で息子たちにそんな思いをさせたことがあったのかもしれない。
息子たちは全員優秀な良い子たちだったから尚更思う。でも彼らに会うことはもう出来ない。
だから私は目の前のカーヴェルに向き合った。
「なら、ホルガーにそれを話しましょう」
「えっ」
彼は驚いた顔をする。初めて見た無防備な表情はまるで幼い子供に見えた。
「ホルガーは父親よ。息子である貴方の言葉を聞く義務があるわ」
「ですが、私の言葉なんて彼にはどうでもいいと思います」
「大丈夫よ。ホルガーはね、あれは言わなきゃわからないだけのどうしようもない男だわ」
そう私は笑う。ホルガーは妻の死に目に会えなかったことを後悔していた。
罪悪感は一応有ったのだ。
「それにホルガーは真実を知る必要があるのよ、彼は奥様に見捨てられたと思い込んでいたからね」
「父がそんなことを……?」
「ええ、彼にきっちり事情を話して、今までの分の後悔をたっぷりして貰いましょう」
「奥様……」
「貴方のお父様はまだ生きている。生きている内に全部ぶつけるべきよ」
「……わかりました、父に母の事を話します」
「お兄様や貴方の寂しさも全部よ。死んでしまったら恨み言も伝えたかった言葉も届かないわ」
私はカーヴェルの手を引いた。
何故か前世で夫の冷たい手を握った時の事を思い出した。
私が泣いても叫んでも届かないところに逝ってしまった夫の手を。




