38.
「ホルガーから手紙を預かってきました」
「手紙?」
「彼は腰を痛めて歩くことが困難ですので」
「それで公爵夫人のお前が家令の使い走りか、俺以外には献身的な事だ」
ケビンが冷たく笑う。
私はそれを無表情で流した。
彼には私を馬鹿にするノルマが課せられているようだ。
「私も公爵様に用がありましたので」
「何の用だ」
「ホルガーは家令の仕事が多忙で腰痛治療を行えず悪化しました。治療費を公爵家で負担できませんでしょうか」
「それはあいつの自業自得だ」
手紙に目を通しながらケビンはそっけなく言った。
長年仕え続けていたホルガーに対しても変わらず冷淡な男だ。
読み終えたのかケビンは放り投げるように手紙を机に置いた。
「体調に問題があるならさっさと息子と交代すれば良かっただけだ。俺は止めなかった」
息子はカーヴェルという名前か。そう興味無さそうにケビンは呟いた。
確かに彼の主張にも一理ある。しかしホルガーがそう出来なかった理由の半分くらいはこの男にあるような気がした。
「わかりました。ではそのように伝えます」
残念な気持ちになりながら、リリーの肖像画に目をやった。
少女とも呼べそうな年頃の女性が優し気に微笑んでいる。
彼女が亡くなったのは八年前だからまだ十代の頃に描かれた可能性もあった。
リリーがお願いしたならケビンは治療費の件を即承諾しただろう。
ケビンを差別していたマーベラ夫人だって再雇用したのだから。
私がそんなことを思いながら彼女の肖像画を見ているとケビンもそちらに目をやったようだった。
長く見過ぎたと私はリリーの絵から視線を外す。
しかし今度はケビンが彼女の肖像画に釘付けになっていた。
「カーヴェル……そうか、あの時の」
その薄い唇が独り言を紡ぐ。
「あの時?」
カーヴェルの名が出たことが気になり私は聞き返した。
するとケビンは夢から覚めたような顔でこちらを向く。何故か焦っているような気がした。
「何でもない、忘れろ」
よくわからないが彼は今は失言をしたということか。
私がそれに答えないでいるとケビンは舌打ちを一つした。
そして忌々し気に言う。
「……ホルガーの治療費は出してやる、これで満足か」
「有難う御座います」
「話が済んだなら出ていけ」
一方的に言ってケビンは私から目を逸らした。
治療費を口止め料としたのか、それとも私の用件を解決すれば出ていくと思ったのか。
「図書室に本が少な過ぎるので買い足して来ても宜しいですか」
「好きにしろ」
便乗して自分の願いも言うとあっさり許可された。
面倒臭いモードになったケビンはある意味楽かもしれない。
他にも何かこの機会に強請れるものは無いか打算しているとケビンから声をかけられた。
「おい、お前はカーヴェルの顔を見たことがあるか」
唐突な質問に私は目を丸くする。
前世では漫画の登場人物として見たことはある。しかしエリカとしてはまだ無い。
「いいえ、名前や簡単な経歴ぐらいしか知りません」
「カーヴェルは若い男だ。飢えているからといって誘ったり誑し込むなよ」
一瞬何を言われたかわからなかった。しかし次の瞬間には笑っていた。
ケビンを挑発する意図は無い。ただ純粋におかしかったのだ。
そんな私にケビンはぎょっとして、しかし不愉快そうな表情になる。
「……何を笑っている、何がおかしい」
私は呼吸を整えて必死に笑いの発作を鎮めた。
自分でもびっくりするぐらいツボに入ったのだ。
「大丈夫です、私は若い異性というだけで興奮出来る程飢えておりませんので」
「ならそれだけ答えれば良かっただろう」
「私は、ですけれど」
そう重ねて口にした次の瞬間、ケビンの目元が赤くなる。
彼にも恥ずかしいという感情があったのかと私はこっそり感心した。
若い異性というだけで興奮するのは私ではない。
目の前の男だ。
だから笑えたのだ。
「私は現在アベニウス公爵夫人です。不貞なんて働きません」
「ハッ、男好きの悪女の言うことなど信じられるか」
「私は男なら誰でも好きという訳ではありませんよ……公爵様が一番おわかりでしょうに」
貴方、あれだけ私に拒まれているのだから。流石にそこまでは口にはしない。
けれど今度こそ嘲る意図で私は微笑む。ケビンが椅子から立ち上がるのが見えた。
「貴様っ」
「ねえ? 私も公爵様も、異性なら誰でも良いという人間じゃなくて良かったですね?」
そう言ってリリーの肖像画に向け笑いかける。こちらへ伸ばされた手が止まった。
「治療費の件有難う御座います。公爵様の慈悲にホルガーも感謝することでしょう」
私は一礼すると公爵執務室を後にした。




