35.叔父さま、叱られる
雨の日は、癖毛の人間にとってはかなり憂鬱だ。
日本で生きていた頃は梅雨の季節が本当に嫌いだった。雨の情緒を楽しむなんて、ふくらみうねる髪と格闘する必要がない人の特権だと思ってた。
それが今はどうだ。
流れるサラサラのプラチナブロンド。毛束を結んでもするりと解けてしまうストレート。湿度がたとえ何百パーセントあったって大丈夫。
ああ、今の私は梅雨だって大好きよ!
と、ご機嫌なアンは軽い足取りで食堂に来た。
夜九時まで開いている食堂だが、アン達三人はいつも七時半にはここに揃って夕食を共にしている。
いつもの席に目をやったアンは、一人でトレーを前に座るアネッサの姿を捉えた。トレーを取り、その上にパン、魚のソテーと豆のサラダ、コンソメスープを乗せていく。最後にグラスに水を注いで、アンはアネッサの所へ進んだ。
「おまたせ、アネッサ。ミリエラはまだ?」
「ええ。もう時間も過ぎていますし、先に頂きましょうか」
「そうだね」
梅雨明けにある期末試験のこと、エドモントのこと、最近噂になりつつあるアンとセルジュの護身術稽古のこと。とりとめなくお喋りしながら食事は進む。
「そういえばアネッサ、お喋りの声が大きくなってきたね」
近寄らなくても聞こえるようになってきたよ。アンがニッと笑うと、アネッサも嬉しそうに首をすくめて笑う。
「最近、音楽室や部屋で練習してますの。エドモント様が失敗してもいいから大きな声を出して話してごらん、と仰ったので」
「うんうん」
「失敗しても、自分や友達がいるから大丈夫。って」
頬に両手のひらを当てて照れているアネッサを見た後、アンは顔を上げて周囲と出入り口を見渡した。ミリエラが一向に顔を見せない。
「ミリエラ遅いね。呼んでこようか」
「ミリエラ?いないの?」
ノックをするが返事がない。
アネッサがアンの袖をクイッと引き、足元を指差した。寮の木製の扉は鍵がかかるが、下に薄く隙間が開いている。既に時刻は夜八時近くで、部屋にいるなら光が漏れているはずだった。
「まだ帰ってきてないってこと?」
「もしかしたら具合が悪くて寝てるのかも……」
アンとアネッサは顔を見合わせ、すぐにきびすを返した。
学院や教員用宿舎が全て同じ敷地内なこともあり、寮の門限と点呼は夜九時である。しかしミリエラがこんな時間まで寮に帰ってこないのは初めてだ。
アンは小走りで階段を降り、アネッサもそれに続く。食堂から出てくる女生徒達とすれ違いながら、二人は寮監の部屋をノックした。
「どうしました?」
「あの、ミリエラがまだ帰ってきてないかもしれないんです。もしかしたら部屋で鍵をかけて寝てるだけかもしれないけど」
寮監は怪訝な顔をし、すぐに鍵束を手に部屋を出た。アン達もそれを追いかける。一行は途中風呂場やロビーを回ったが、ミリエラの姿はない。
寮監はたどり着いたミリエラの部屋の扉を数度ノックしたあと、躊躇なく鍵を開けた。
部屋は帰ってきた形跡もなく、しんとしている。
「いないわ……」
密やかな雨の音に混じり、アネッサの震える声が部屋に落ちる。アンが寮監の顔を窺うと、彼女は二人を自分の近くに呼び寄せ囁いた。
「今から学校へ連絡を取り、警備兵に学内と敷地内一帯を探してもらいます」
「私達も行きます」
「衛兵にも届けを出して付近を捜索してもらうので、あなた達は外に出てはいけません。あなた達まで危険に晒すことはできませんから」
「でも……」
アンが悔しそうに、寮監を見上げる。
「あと、この事は人に触れ回らないように」
「どうしてですか?」
「大したことがなかったとしても騒ぎになってしまったら、後に困るのはミリエラさんよ。事によっては醜聞が立ち、ファウルダース公爵に何らかの不利益が生じるかもしれません。ですから余程のことがない限り、内密に」
「そんな!」
食ってかかろうとしたアンを、アネッサが抑えた。
アンは王都に馴染みがない遠方の男爵家の娘だから、ピンとこないかもしれない。そう思ったアネッサがボソボソと言い募る。
「ミリエラ様の身に何があったのか分かりませんが、もしミリエラ様が一晩以上帰ってこられないとしたら。たとえ無事に戻ってこられても口さがない人々が良くない噂を立てるかもしれません。そうなると今後の社交界でのミリエラ様のお立場は悪くなります。それにミリエラ様の醜聞は副宰相をしておられるファウルダース公爵の醜聞にもなります」
だからひとまずは、大人の方に任せて待ちましょう。
俯いてそう言い切ったアネッサに、アンは反論できなかった。
翌朝、食堂にミリエラの姿はなかった。
寮監から朝早く訪問を受けたアンとアネッサは、ミリエラは風邪で休んでいると口裏を合わせることにする。
朝食を終えて登校し、まだ生徒もまばらな時間にアンは職員室へ向かった。お願いだからいてほしい、と願った人物がちょうど職員室へ入ろうとしているのを見つける。
「レオン先生!」
「あ、アンさん!」
呼びかけに振り向いたレオンの表情で、経緯が伝わっているのが分かった。レオンは大股でアンに近付いてくる。前に立ったレオンの袖を一度引き、アンは人の通らない階段下に彼を連れてきた。
「僕は今から校長に話を通して心当たりを探してみるよ」
人がいないのを確認すると、挨拶も忘れてレオンが言った。すぐに身体を反転させようとする彼を、アンが慌てて捕まえた。
「心当たりって言っても、ミリエラは自分で勝手にどっか行くような子じゃないでしょ?自分で家出したんじゃなきゃ、心当たり探してもしょうがないと思うんだけど」
「誘拐だったりしたら、尚更じっとしてられない」
「でも……」
「じゃあ、どうしたらいいってんだよ!」
ビクッとアンが肩をすくめた。
レオンは元々同じ世界の出身で、しかも自分より年下だという意識がある。そんな彼に怒鳴られた事で、アンは驚き固まってしまった。
黙ったアンに気づいたレオンは、バツの悪そうな顔で頭を下げる。
「怒鳴ってごめん……」
「ううん。大丈夫、びっくりしただけだから」
アンは効果があるか分からないと思いつつ、レオンの細い腕をさすってやった。その気持ちが伝わったのか、彼も深呼吸する。
「貴族社会の話は私も納得してないけどさ、悪い噂が立つと後々ミリエラが困るかもってのは分かる。だから手掛かりが見つかるまでは分かりやすく動かない方がいいと思う」
「でも待ってるだけなんて無理だ」
「我慢して!もういい大人なんだから!」
今度はレオンがビシッと固まる。
「それに待ってるだけとは言ってないでしょ。私クラスメイトにそれとなく聞いてみるから、レオン先生も昨日何か変わった事がなかったかとか、上手く周りに聞き込みしてよ」
「うん、分かった……」
「セルジュも今日は騎士団詰めの日だから、何かあったらすぐに馬を出してもらえると思う。だからまずは落ち着いてね」
頭を垂れるように頷いたレオンに、もう一度アンが手を添える。
「何か分かったらすぐに会いに来るから、レオン先生もそうして。……ああもう、スマホがあればなぁ!」
言うだけ言って戻っていくアンの背中を見ながら、レオンは彼女の言葉を反芻していた。「いい大人なんだから」とレオンを叱ったアンは見た目の幼さを忘れるくらいに大人だった。
強くて怖くて、でも頼りになる姉の姿を思い出して、レオンは唇を噛み締めた。




