目覚め〈アグスティン〉
目を開けたらいきなり弟の顔が視界に飛び込んできたので、私は状況を掴めずに瞼を上下させた。
「兄上、目を覚まされたのですね」
エリアスが心配そうに眉を下げている。その背後に天井が見えているということは、どうやら私はどこかに寝かされているらしい。
何が起きているのかまったく解らないが、妙にすっきりとした気分だ。私はどうしてしまったのだろうか。
「エリアス、これは……何が……」
「ええ、ご説明します。起きられますか」
言われて体を起こしてみると、特にふらつくようなこともなく、むしろ今までよりよっぽど体が軽いような気がした。
居住まいを正してエリアスの方へと向き直る。すると弟の隣には見知らぬ女が腰掛けており、私は内心で訝しく思った。
「結論から申し上げますと、兄上は魔女、ヒセラ・エチェベリアに洗脳を受けていたのです。そこでこちらのカンデラリア殿にお越しいただき、洗脳を解いて頂いたのが今というわけです」
短い台詞の中にあまりにも大量の情報が詰め込まれていたので、私はまともに固まってしまった。
洗脳? 私が、ヒセラに? 意味がわからない。
それに、エリアスが示したこの女性は何者だ。
「わたくしは魔女であり、特殊研究員のカンデラリアと申します。お目にかかれて光栄ですわ、アグスティン殿下」
カンデラリアはゆったりとした礼をして見せた。
我が国では魔女を雇い入れ、共同で魔女の魔法を研究している。
その理由はもちろん魔女からの攻撃に備えるため。私も話には聞いていたが、実際に本人に会うのはこれが初めてだ。
「ご気分は如何でしょうか」
カンデラリアがゆったりと微笑む。歳は二十代前半くらいだろうか、菫色の髪と藍色の瞳を持った妖艶な雰囲気の女だ。
特殊研究員と聞いて何となく老婆を想像していたのだが、随分と若い。
「ああ……問題は、ないが」
「それはよろしゅうございましたわ。ではもうひとつ、エチェベリア男爵令嬢に対してどんなお気持ちか、お教え頂けますか?」
未だに状況を消化しきれていない頭で、私は問われたことについて考えてみた。
……なんだ? ヒセラと出会ってからの記憶がうまく思い出せない。日常の記憶はあるのに、ヒセラと過ごした時間だけに薄い膜がかかっている。
いや、だが私は、ヒセラと別れようとしたはずだ。もはや少しの想いもないのに、そのまま付き合いを続けていたのは何故だ?
「どうして恋人同士だったのか、よくわからない……」
「はい、ありがとうございます。これは完全に洗脳が解けたと見て間違いないでしょう」
カンデラリアの言葉にエリアスが安堵のため息をついた。
弟の表情には真実味があって、私の胸中に実感が染み渡っていく。
「本当に……私はヒセラに洗脳されていたのか、カンデラリア」
「ええ、出会った瞬間からだったようですわ。魔女が未熟だったのですぐに解くことができましたが、長く続けば危ないところでした」
その台詞の内容の割に楽しそうに微笑むカンデラリアは、しばらくは安静にするようにとの指示を残して、悠然とした動作で部屋を出ていった。
兄弟だけが残された部屋に沈黙が降りる。
よく見ると室内は簡素な作りで、どうやら宿直室のような場所であることが察せられた。連れてこられた経緯も覚えていないが、この弟が大きな力になったことは間違いなさそうだ。
「エリアス、これはどういうことか。なぜお前がここにいる」
「はい。長い話になりますが、お聞き頂きましょう」
エリアスは順を追って説明してくれた。
ヒセラが魔女である疑いを抱き、四人の仲間たちと独自に調査していたこと。
その仲間にはカミロとレティシア、そしてベリス博士の孫娘であるアロンドラ・ベリスが含まれていたこと。
そしてヒセラがアロンドラ嬢を狙って大騒動が起こり、結果的にレティシアが怪我をしたこと。
ヒセラは拘束され、今は諸々の後処理がひと段落していること。
たまたまベリス博士が学校に来ていたので、彼のツテでカンデラリアに飛んで来てもらったこと。
「あとは父上にも連絡させていただきました。事が事ですし、何より父上にはヒセラ嬢についての調査を進言しておりましたので」
「そうか。……そう、だったのか」
私は低く呟いて、両の拳を固く握りしめた。
何と言うことだ。私はどれほどの無能を晒してしまったのだろうか。
魔女にうつつを抜かし、周囲に迷惑をかけて、あろうことか全て他者に解決してもらうなど。
最悪だ。エリアスにも父上にも、合わせる顔がない。
「……ベニート侯爵令嬢が怪我をしたと言ったな。大丈夫だったのか」
「ええ、それについてはカミロが治癒魔法で治しましたので問題ありません。かなりの出血で心配しましたが、本当に良かったです」
「そうか、良かった……。だが、さぞかし怒っているだろうな」
するとエリアスは少し困ったような顔をした。すぐに微笑んで、言いにくそうに首を横に振る。
「いえ、気にしていないと思いますよ。それどころじゃないと言うべきかもしれませんが」
「それどころじゃないとは」
「ええまあ、何というか……カミロと喧嘩のようなものをした、と言いますか……」
兄上の出る幕ではないので、この件が解決するまでは謝りに行ったりしないで下さいね。
エリアスはそう言って話を締めくくったのだが、一つの思考に囚われた私は弟の進言を見事に聞き流してしまった。
カミロとレティシアが喧嘩。やはりヒセラが起こした事件のせいなのだろうか。
私のせいなら一言謝りたい。そしてもし、二人が別れると言うのなら——レティシアのことがどうにも気になるのだと、伝えることくらいは許されないだろうか。
「わかった、エリアス。面倒をかけた」
「はい、お大事になさってください。……ああ、そうそう」
エリアスは丸椅子から立ち上がったのだが、踵を返す前に何かを思い出したようだった。
そして弟の顔に笑みが浮かぶ。今まで見たこともない、他者を平伏させるような圧力のある笑みが。
「まさかアロンドラ嬢と婚約を結んだりはしませんよね?」
「……は」
「こんな事件が起きたんです。アロンドラ嬢には、もう、関わりませんよね、兄上?」
一言ずつ確かめるように強調するエリアスを前に、私は無様にもごくりと喉を鳴らしてしまった。
絶対零度の覇気が細身の体から放たれていて、なかなか舌を動かす事ができない。
やっとの思いで頷くと、弟はいつもの笑顔を取り戻したようだった。
「も、もちろんだ。アロンドラ嬢と婚約を結ぶことはない」
「良かった。そのお言葉、忘れないでくださいね」
エリアスが満足げに頷いて部屋を出て行った途端、私は再び寝台に倒れ込んでしまった。
……私の弟は、あんなにも恐ろしい男だっただろうか。




