1月30日(2)
***
トントン……
授業が終わり、さっそく彼女の病室までやってきた。
「はーい、どうぞー」
扉をノックすると、中から彼女の声がした。
扉の開閉音をうるさくしないよう、ゆっくりと開ける。
「邪魔するぞ……」
奥のベッドに彼女がいた。ベッドをリクライニングし、上体を起こしてくつろいでいた。
「もう、前からノックはいらないって言っているのに……」
口元に手を添え、クスクスと笑う彼女。そんな彼女の笑みを見られただけでも急いで来たかいがあったというものだ。
「念のためだ、念のため。あんたもいきなり入ってこられたら困るときがあるだろ」
「例えば着替えしているときとか? でも、笹瀬くん的にはそういうときこそ入ってみたいんじゃない?」
「ったく、またしょうもないこと言ってんのな……」
彼女のいつもの調子にため息をつきながら、ベッドの近くに置いてある椅子に腰を下ろす。
「今日はあんたにお土産を買ってきたぞ」
「えっ、ほんとっ‼ わたし、カップ麺がいいっ」
ベッドに手をつきながら、嬉しそうに身を乗り出してくる。
「いや、病院でカップ麺の差し入れは喧嘩売っているだろ。リンゴだよ、リンゴ」
「えー、つまんなーい……。知っている? 病院食ってかなり味気ないんだよ。わたし、あの味飽きちゃった」
「病院食に何を求めているんだよ……」
ぶー垂れる彼女に再び嘆息しながら、持ってきたリンゴをビニールの袋から取り出し、ペティナイフで皮を剥いていく。
「……」
彼女が突然静かになり、じっとこちらを見ている。正確には俺の手元か?
「どした? 何かあったか?」
「……、何があったってわけじゃないんだけど、笹瀬くん、リンゴの皮むきなんかできたの?」
あー、なるほど、それか。
たしか、この前彼女の家に行ったとき、俺は何の料理の手伝いもできなくて、そうそうにお払い箱行きとなったっけ。あの料理の腕を間近で見た彼女なら、今の俺を見て疑問符を浮かべるのも当然か。
「料理についてはあれから練習してんだよ。リンゴの皮むきは昨日、練習した。病院での差し入れといったらリンゴかなって思って」
「健気な彼女かよっ。え、じゃあ何? わたしのために昨日はたくさんのリンゴで練習したの?」
にやにやと笑みを浮かべながらこちらに詰め寄ってくる。
そんな彼女を面倒くさそうに押し返す。
「残念ながら一個で十分だったよ」
「えー、つまんなーい……」
またまたぶー垂れている。
本当はリンゴ五個以上使っていたのだが、悔しいので秘密にしておこう。
「あっ、リンゴなら、わたし、ウサギさんのやつがいいっ」
皮むきを続けていると、横から彼女が提案してきた。
「いや、ウサギさんって小学生かよっ。それにもうほとんど皮は剥き終わったけど?」
手元のリンゴはすっかり長くなった皮をぶら下げている。ここまでいくと、ウサギさんの耳となる部分が残っていない。
「えー」
「そう残念がるなよ。ほら、もう剥き終わった。ちょっと切り分けるな」
そう言って席を立ち、リンゴを切り分けに行く。
分けるのが簡単だったのでリンゴは八等分に切り分けた。
切り分けたリンゴを小皿に入れて、彼女のもとに戻る。
「はい」
「うん、ありがとう」
彼女はお礼を言いながら両手でリンゴの入った小皿を受け取った。
彼女にリンゴを渡したし、俺も近くの椅子に腰を下ろす。
席に着いた途端、隣からサクッという小気味の音が聞こえた。
「うーん、おいしい~」
見ると隣で彼女がほっぺに手を当てて目を細めている。
良かった、ご満悦の様子だ。
「だろ? これ、今朝採れたばかりらしいからな」
「えっ、そうなの?」
「ああ、スーパーの店員さんにめっちゃ宣伝された」
「へー、運良かったんだねー」
「まあな。それで、――――」
それからリンゴを片手に、今日あったことなどを彼女と話していると、
トントンッ
「?」
「紅さーん、入ってもいいですかー?」
扉をノックする音に続いて、女性の声がした。
「あ、担当の看護師さんだ。はーい、大丈夫ですよー」
彼女が声を上げると、失礼しまーす、と言いながら、一人の看護師さんが中に入ってきた。
看護師さんは中に入るなり、口元に手を添えながらやさしく微笑む。
「あら、中から楽しそうな声が聞こえてきていると思ったら、やっぱり彼氏さんが来ていたんですね」
「へ? ……あっ、違います、違いますっ。この人、わたしのクラスメイトですっ!」
彼女は顔を真っ赤にしながらブンブンと両手を振って否定する。
「あらあら、そんな隠そうとしなくてもいいのに~。紅さん、私といるときよりも彼氏さんといるときの方が何倍も楽しそうですよ~」
「あー、もうやめてーっっ」
「あはは……」
彼女は病院から怒られるのではないかと思われるほどの叫び声で看護師さんの言葉を遮断しようとする。
他方、俺はというと、どうすればいいか分からず、苦笑いを浮かべるしかない。
でも、俺といるときの彼女が楽しそう、という看護師さんの言葉に顔がにやけそうになった。
「あ、それでは、彼氏さんは少しの間、外に出てもらえますか?」
静かに二人の様子を眺めていると、いきなり看護師さんにそう促された。
「え、どうして……」
少しでも彼女との時間を過ごしたいと思っていた俺は、看護師さんにその理由を問う。言外にここにいたい、と伝えながら。
看護師さんは気まずそうな顔をした。
その表情に胸が大きく高鳴る。
俺には聞かれたくない話だろうか。
まさか、彼女の怪我のこととか?
彼女からは怪我の心配は不要と言われたが、実は、命にかかわるほど重大なものだったとか? もしくは、命の心配はなくとも後遺症が残るとか?
嫌な予感が頭の中に広がる。
「あの、俺もいてはだめでしょうか?」
もし彼女の怪我について話すのなら、そのことを俺も知っておいた方がいい。
それが彼女を傷つけてしまった自分の責務だ。
看護師さんはさらに気まずそうにしながら、紅さんに視線を移す。
「い、いえ、紅さんがいいなら、私はいいんですけど……」
そんな看護師さんの言動にさらに不安が強くなった。
しかし、当の彼女はキョトンとしながら……、
「いや、これから体を拭いてもらうんだし、普通にダメでしょ?」
何言ってんの、って感じでそう言い放った。
「へ……? 体を拭く……?」
あれ、怪我のことじゃないの……?
予想していなかった彼女の言葉に二の句が継げない。
「紅さん、今は入浴できないので私がタオルで体を拭いているんです。病院でも汗はかきますし、気持ち悪いでしょうから」
看護師さんが丁寧に説明してくれる。
その説明を聞いているうちに恥ずかしさがどんどんこみあげてきた。
「……すみません、すぐに出ます」
顔を俯けたまま、病室を後にする。
部屋を出る間際、背後からエッチ、という彼女の声が聞こえてきた。




