6歳と14歳
俺は、目を腫らしながら食堂に向った。
夢が続いているのか、涙が止まらねえ。
後から後から湧いてきやがる。
とにかく俺は下を向いた。
ひだる神は忌み嫌われる。誰も俺に近寄ろうとはしねえ。
今はありがたい。涙に腫らした目なんか見られたら、俺は生きてられないだろう。
それは恥だ。
食堂でヨーグルトを補給する。
朝が早いせいか、誰もいなかった。
俺は、安心して、一息ついて、花粉症みてえにまったく止まんねえ涙を、手の甲で拭って、部屋に戻ろうとした。
通路の向うを歩いてくる奴がいる。
通路に満ちる、朝の光に輝いている。
違う。奴が、通路と朝を輝かしてんだ。
多濡奇。
寝ぼけマナコの奴と、すれ違う。
「おはよ……」
やつはそう言った。
俺は無視をした。
幸福感があった。無視をするから、幸福とかじゃねえ。
挨拶されたから、幸福とかでもねえ。
あいつが生きている。
それが幸福だ。
それでいいんだ。
俺の涙はぴたりと止まり、腹をくくる。
そして、部屋に戻り、考える。
あの女には、悪意がねえ。
殺気もねえ。罪悪、憎悪、傷。絶望。
例えば、だ。0か100で考えてる俺が、てんぱってんじゃねえか?
何かを失う。
それは俺が奪う。死体喰いは、それをそそのかした。
強くなれ、と言った。
つまり、俺は強くなれる。だが、ただ強くなるんじゃ駄目だ。
あいつに、何か1つを与えればいいんだ。
そうすれば、あいつは濁る。
あいつが、あいつでいられて、濁るだけの何かは何だ?
傷。
最小限の傷。
必要最小限。そうだ、ぶちのめせるだけ俺が強くなって、そして、必要最小限の何かで、奴が変われば、全ては最小限で済むんだ。
落とせと死体喰いは言った。
殺せとはいっていない。
キリストの踏み絵みたいなもんだ。
踏ませるだけでいい。
とにかく、準備が必要だ。
俺は洗い場に行って、顔を洗った。
鏡の俺を見る。
吊り上がった白目がでけえ目。
人相は最悪だ。
ヨーグルトを摂取したおかげで、目の腫れはひいている。
蟷螂みてえなブ男が睨んでいる。
そう。
このブ男が、奴に傷を与える。
必要最低限の傷だ。
では、どういう傷がいいんだ?
そこまで考えて、俺は真っ白になった。
多濡奇を傷つけるって事が、まるっきり分からなかったからだ。
前は、潰してやるって言ったこともあった。
が、それじゃ駄目だ。
痛めつけるだけじゃ、駄目だ。
そんなのは、あいつには効かねえ。
豚野郎の横で吐血して、へらへらしてるやつだ。
痛み、じゃ駄目だ。
じゃあ、何が良い? 俺は、何をやつに与えてやれる?
……その答えが出ないままに、3年過ぎた。
俺はずっと、暗い目で多濡奇を見続けた。
多濡奇。
純粋で、光と色彩を集めた、花のような女。
慈悲と慈愛の聖女。
3年の間に、やつは胸がふくらみ、背も伸びてきて、餓鬼じゃなくなってきた。
花粉のようなくらくらする何かは、もっと濃密な痺れに変わった。
笑顔は相変わらずだった。
俺は強さを求め続けた。
無謀な求め方じゃねえ。
地道な手順を踏む。慣れねえ菌も慣れた。
舎弟も増えたぜ。
だが、違うんだ。
それは、淫崩が6歳の時に通った道だった。
つまり俺の実力は、6歳の豚野郎ってことだ。
進歩はした。
潰されかける事も少なくなった。
底辺の中では、俺は上位クラスだろう。
だが、これじゃ全然届かねえ。
……いっそ、豚野郎に話すか?
だが話してどうする?
傷をつくれ? 絶望させろ? あいつは弱い奴の話しをきく奴じゃねえ。
くそ。
手がねえんだ。
もう、5年しかねえ……!
多濡奇の野郎は、俺の気なんか知らねえで、夜中、俺に話しかけてくる。
俺は無視する。俺は悲惨な気持ちになる。
そして、俺を殺したくなる。幸せだからだ。
多濡奇に何もしてやれねえのに、時間だけが過ぎていく。
変わらねえあいつに、幸福を覚える。
だが、それじゃ駄目だ。
夢の通りになる。
そう、夢だ。
初めて精が出た夢は、毎晩続いている。もう、あいつを守る夢はみれない。
いちいち出ねえが、決まってあいつが死ぬ夢だ。
そして、それは近づいてくる。
まだ5年?
ふざけんな……!
とか思っているうちに、一年過ぎちまった。
くそ……!
手詰まりだ。季節がゆっくりゆっくり、破滅にむかってく。
今は春だが、またすぐ春がくるんだ。
それが後4回で、多濡奇は死ぬ。
誰か、助けてくれよ。
どうしたらいいんだ?
何ができる?
こういう話しをきいてくれそうな悪忌の死体喰いは、3年前に講師の任をハズレやがった。
案件で海外らしい。
吹き込むだけ吹き込んで、おさらばかよ。
糞野郎が。
……顔見る事があったら、絶対殺してやる。
と、その春の日の午後、俺は神学の講義に顔を出した。
「や、奈崩君。お久しぶりです」
「!」
俺は、死体喰いに飛び掛った。
ひらりと避ける奴の裾を捕まえて、黒板に叩きつける。
「ぐは」
殺気も吐く。殺れ。舎弟。
舎弟は空気を伝い、死体喰いに届く。
肺を浸潤。
息はさせねえ。
奴は血を吐く。
そうだ。今度は鼻血じゃ済ませねえ。
黒板の下に崩れ落ちる死体喰いの顎を蹴り上げながら、講壇を片手でつかみ、引っこ抜く。
奴に振りかぶった。
瞬間、吹っ飛ばされる。
聴講席に背が激突した。
机が砕けいくつかは背に刺さる。が、舎弟に命令して、やばい血管は避けておいた。
俺を吹っ飛ばした死体喰いは、両掌をこちらに突き出して、つったっている。
俺の口に残酷な笑いが浮かんだ。
掌が、紫色に腐っている。
そうだ。これが、俺がこの4年間に身につけた強さだ。
触れたら腐らすカウンター。
舎弟の破傷風菌に命令した。急激な動きで侵食する。
ワクチンで治るのが、たまにキズだが、戦闘でワクチン打ってる暇はねえだろ?
死体喰いは口の端を上げた。
「強くなりましたね。奈崩君」
「勝手に消えやがって。死ね」
俺はたたみかけようとして、飛びかかろうとした。
「それで、多濡奇さんは救えますか?」
この言葉に、俺の暴力性は喪われた。
悲哀。焦燥。無力。
俺は奥歯を噛んだ。
「無理だ。俺の強さは、淫崩の6歳だ」
「それでも、彼女を救いたいですか」
馬鹿にされた気がした。
当たり前だろう? それで諦めるんなら、俺ははなっから、匙投げてる。
……やっぱ、殺す。
俺は殺意を向けた。
舎弟の破傷風に、心臓に行けと命令する。
腐らせろ。奴の心臓を。
死体喰いの腕の肉が、なんかの病気みたいに、骨と腱を残してごっそり床に落ちた。
何があった? そんな命令はしてねえ。
奴の因果か?
「ま、因果ですよ。屍鬼は、元々腐っていますからね。肉の脱皮はお手の物です。いや、脱肉ですかね」
悪忌は笑った。
舎弟は落ちた肉の中だ。
くそ。
「で、どうです? 多濡奇さんを、まだ救いたいですか?」
「当たり前だ」
俺は奴に答えた。
死体喰いは、『肉に覆われ始めた』腕をゆるく俺に曲げて、親指を立てた。
「では、行きましょう。君に紹介して差し上げたいお方がいます」
「は?」
笑顔の死体喰いに、俺は首を傾げた。
「誰に俺を会わせたいんだ?」
「お楽しみです」
死体喰いは、俺を見ずに、チョークをつまんだ。
それから、黒板に、『本日休講』と大きく書いた。
随分なタッピツだった。




