末裔たち
彼は線の細い男だった。
頬の微かに落ちた丸顔。
その造形には、こちらに接近しつつある獣とはかけ離れた、優雅さがあった。
艶、男の色気と言った方が良いかもしれない。
境間さんのような、妖しい魔の魅力ではない。もっと荘厳なるものだ。
南米の密林の夜明けのような、神話的な空気を、彼は纏っていた。
聖域の人と言えば適当なのだろうか。
大地の祝福を受けて生まれたような、褐色の肌。
通った鼻筋。自然と微笑まれる唇。
彫りの浅い眼窩に収まった瞳は、ほとんどが柔らかな光を宿す黒目だ。
その虹彩は、微かな哀愁を帯びてはいるけれど、澄んでいる。
学会の映像でも、顔立ちは確認済みだったけれど、至近距離で見ると、全く違う。
聖性。神聖。荘厳なる大地。祝福。静かなる森。差し込む光。太陽と生命。
僕の脳内を、こういった言葉が駆け抜けていく。
カルロス・フィッツ・サントスは、『こちら側』の人だった。
それも、おそらくかなり特殊な部類だ。
緩く波を描く黒髪が、形のくっきりした額の中央から分かれて、、サイドに分かれている。
右側がほつれて、眉間にかかった。
彼が首を傾げたからだ。
そうさせてしまうほど、僕は目を大きく見開いていた。
彼の両腕に強くすがりつきたい。
赤のハーフジャケットから伸びた黒のスウェットの布地に覆われた腕が、そこにあるのだ。
が、僕は因果の誤作動で動けないし、そもそも狐は、他者への強い物理的接触を禁じている。
……こんな事なら、何故反撃など考えたのか。
追い詰められた僕は、何故基本的な禁忌に踏み込んでしまうのか。
そして、何故そういう時に限って、彼が目の前に現れるのか。
僕は、混乱と絶望を覚える。
「あの花の、群生地を、教えて、ください」
鼻先30cmのカルロス教授に、呼びかける。遠くに助けを求めるような、必死の熱量をこめて、絶え絶えに声を出す。
「……はい?」
カルロス教授は首を傾げた。
「カルロス・フィッツ・サントス教授。フランス、パリの学会で貴方が発表した論文、あの資料で使われた、あの花の群生地を知りたいのです」
「いや、それよりも、君の顔はとても蒼い。肩を貸すから、医務室に行こう」
穏やかな、色気のある声だった。
夜の森のような物だ。
この人は強い。そして優しい。
けれど、違うのだ。今、訊かなければならない。
「僕は、貴方に会いに来たのです。花の場所を伺うために、ここにいるのです」
「……そうか。なら、歩きながら話そう。立てるかい」
「はい」
僕はうなずき、全力で立ち上がる。
と、姿勢がぐらりと揺れる。
足腰がふらついているのだ。
カルロス教授はそんな僕の腕をとり、
「失礼するよ」
と言って、肩に脇をはさみこもうとした。
「ケツァルクアトル」
野太い声がした。
後ろからだ。
肩越しに振り返ると、獣の男が仁王立ちをしていた。
巨体が、この光溢れる廊下で、暗黒の異彩を放っていた。
闇、あるいは虚無の密集。
落ち窪んだ眼窩に埋まる、白目の大きな瞳が、僕らを睨んでいる。
小さな虹彩が、爛爛と輝いていた。
カルロス教授は男を肩越しに振り返って、
「フラカン」
と言った。
「ケツァルクアトル」
男はもう一度、野太い声を吐いてから、
「終わりにするぞ。恥さらしの軟弱者め」
と低く言った。
ケツァルクアトルも、フラカンも、クトゥルフ神話の神だ。
つまり、カルロス教授と、この獣の男は……。
フラカンと言われた男は、真っ黒い右手のひらを、頭上にかざした。
その肩から上、上腕がはちきれんばかりに盛り上がる。
手のひらは、赤黒く変色した。
カルロス教授は、眉をひそめ、肩を僕から離して、フラカンに向き直る。
「やめろ、フラカン。ここは、ヒトの世界だ」
低いカルロス教授の声には、それでも艶があった。
フラカンは答えない。
轟音がした。
僕の視界を青い翼が、壁のようになって覆った。
それは同時だった。
何が起きたのかは分からない。
が、煙の中で、視界から翼が解ける。
男の上半身が、巨大な黒豹に変わっているのが見えた。
そう、男が、黒い豹、ジャガーに身を変えたのだ。
床も、煉瓦の天井も、中庭に至る石畳も、そういう空間を構成していた全ての材料が抉れて、
僕らの後方に吹き飛んでいた。砲撃でも受けたみたいだ。
フラカンという獣の一撃。
これは常識を超えている。
でも、もっと超えているのは、その一撃をしのぐ羽根だ。
僕は、その羽根の主を振り返った。
カルロス・フィッツ・サントスは、半裸だった。
背中から、フラスコ画の大天使のような翼を2つ生やしている。
大天使との違いは、翼の色が青だという事だ。
しなやかで、無駄の無い、けれど力強い胸板を張った美しい姿勢で、カルロス教授、つまりケツァルクアトルは、フラカンを凝視していた。
その眉が不快を表す。異質な迫力を感じる。
僕はとっさに、よろめきながら後ずさった。
そうしながらも、気を糸のように小さくして、彼に貼り付ける。
これは僕の矜持だ。
カルロス教授は気にしなかった。もう、僕など眼中に無いようだった。
「ルールを違えたな。フラカン」
「初めに破ったのはお前だ」
この後は、目が追えなかった。
ただ、辻風のような、荒れ狂う風を感じる。
小規模の竜巻と言った方が分かりやすいかもしれない。
竜巻は2つあった。
黒と青。
この2つは縦横無尽に絡まりありながら、物凄い勢いで中庭に突進して行き、そこから、上空に伸びて、伸びたまま、消えてしまった。
つまり、カルロス教授と、フラカンという男は、南米神話の末裔だったのだ。
彼らは戻ってこない。
ただ、中庭の上空から低い音が伝わってくる。
が、それも次第に遠のいていく。
僕は追わないといけない。
カルロス教授が目視できる範囲にいるのだ。
まだ、僕は彼から、花の地を聴いていない。
そう、追うべきだ。
……中庭に、足を一歩踏み出した途端、膝が崩れた。
因果のダメージは、まだ回復していない。
僕は戦場みたいになった通路に倒れこんで、そのままうずくまった。
意識はある。
少しでも回復したら、後を追おう。
羽根の人、ケツァルクアトルのカルロス・フィッツ・サントスに、気は張りつけた。
するすると、バルセロナの上空を伸びていくのが分かる。
邪魔が入らなければ、数kmは伸ばせるだろう。これをたぐっていけば、追跡ができる。
大量の足音が、講堂の方から響いてきた。
規則的で、ゆっくりとした、感情の無い足取りたちが、接近している。
アレクサンデル教授、つまり十三使徒のルカと、200人の信者たちが、こちらに向っている。
僕はまだ動けない。
身体さえ動けば、彼らなど何の障りにもならないのに、僕の身体は動かない。
それが、因果の呪いだからだ。




