光と邂逅(かいこう)
石を刻んだような顔をした男だった。
男の造形には、イタリアやフィレンツエ、カソリックによる文化的束縛からの解放として花開いたルネッサンス、そういった類の優雅さは、かけらもない。
南米の民芸品と言えば適当なのだろうか。
ごつごつとした四角い顔は、立体感に溢れている。
砂埃を擦りこんだような、黒褐色の肌。
平たく太い鼻筋。分厚い唇。
上辺のせり出した深い眼窩に落ちくぼんだ瞳は、ほとんどが黄色みがかった白目だ。
ただ、黒目部分は澄んでいる。
憤怒や欲望に濁った瞳ではない。
覚悟、躊躇い、猜疑、希望、失望、絶望、とは全く無縁の光が、巨大とも言える
白目に埋まった、小さな黒目の底に浮かんでいる。
赤子のように無垢な虹彩だ。
後ろに束ねた髪がほつれて、広い額を垂れ落ちて、眼窩にかかっている。
「一突きで殺す者」というフレーズが脳裏をかすめた。
ジャガー。
南米生物界の王者。
食物連鎖の頂点。
……僕は先輩の言葉を思い出す。
『お前は不死身だからって、無自覚に全てを舐め腐っている』
そんな事は無いと思っていた。
僕は僕なりに、全力を尽くしてこの案件に臨んでいる。
黒ジャガー。
クトゥルフ神話における、夜の闇の象徴。
雨と嵐の神。
バルセロナ大学で対峙する事になるのは、十三聖教会に侵された学生たちだけだと思っていた。
それは間違いないはずだった。
何故、こんな獣がここにいるんだ?
この獣が羽根の人なのか?
高位聖職者は、『貴方たちお2人』と言った。
僕と、僕を見る獣、そして199人の信徒がこの聴席にいる。
アレクサンデル教授、十三使徒のルカ教えを説きたいのは、199人の彼らはではない。
つまり獣はまだ、『教化』されていない。
何故、『教化』されていない獣がここにいる?
十三聖教会と獣、羽根の人は殺しあっていたんじゃないのか?
協力関係?
いや、高位聖職者の口ぶりは、僕と獣を等しく扱っていた。
村人の僕も、獣も、教会の敵なのだろう。
敵として認識されている。
では何故、教会の敵が、こんな恐ろしい異質がここにいるんだ?
ここはバルセロナ大学の遺伝子工学部の講堂だぞ?
こんなの想定外だ。
酷すぎる想定外だ。
先輩の言葉を思い出す。
『こういう案件では、想定外が起きねえことの方が珍しい』
何で、いちいち、彼女の言葉は『当たる』?
先輩は預言者だったのか?
『お前は悪い奴じゃねえ。死んでほしくねえ』
僕は不死身だ。
それが狐の祝福だ。
だから、死ぬなんてありえない。
75%の致死率の危険案件。
でも僕は不死身だ。
4人中3人が死ぬ。
死ぬのは志骸先輩で奈崩さんで多濡奇さんだ。
僕じゃない。
彼らは不死身ではないからだ。
こう思うのは醜い。
でも僕はこの醜さごと、どこかでこの考えを肯定していた。
だってそれが、僕が関わってきた戦闘案件だったからだ。
仲間の死に背を向けて、修羅の場を駆ける。
僕の仕事だ。
今回だって変わらない。
そう思っていたんだ。
深い眼窩に落ちくぼんだ瞳は、僕に視線を向け続ける。
無垢な瞳だ。
澄んですらいる。
……ここはバルセロナなのか?
南米ではないのか?
狐が南米の密林でジャガーに出くわしたら?
死を予感するだろう。
そう、僕がほぼ不死身とかは、全く関係ない。
獣は僕の不死身ごと、叩き潰すだろう。
告白すると、僕は、死の予感を感じた事がなかった。
どんな攻撃でも、回復するのだ。
でも、こんな、喉も、肺も、背筋も、膀胱も、異様にひりつく感覚から、どう回復しろというのだ。
全ての毛穴が硬く閉じて全身の細胞が逆立つ。
これが死の予感だと、この時初めて知る。
先輩たちは、僕が修羅の場で背を向けてきた村人たちは、いつも、こんなものと対峙してきたのか?
ありえ、ない。
何故、耐えれるんだ?
深い眼窩に落ちくぼんだ瞳は、僕に視線を向け続ける。
無垢な瞳だ。
澄んですらいる。
ぶ厚い胸板から生えた切り株みたいに太い首が、ゆっくりと右肩に傾く。
何かの問い。
何かの疑問符。
獣の瞳には、殺意は無い。
彼は、僕を眺め続ける。
けれど、彼の首が傾いたのだ。
アマゾンの樹のように太い首が、僕に何かの問いかけをしたのだ。
でも、分からない。
こんな異質な獣に、何を答えろというのだ。
僕はよろめくように立ち上がった。
右手は先輩がくれたブラックコートを脇に抱えていた。
僕は講堂のドアに、踵を返して、足早に歩いた。
歩きながらコートを羽織った。
厚い生地。先輩は、僕に死んでほしくないと言ってくれた。
生地に込められた思い。ありがたい。
けれど、こんな布ではだめだ。
あの獣の異質な力を、この服では防げない。
着ないよりまし、といった程度か。
敵から逃げながら、味方の善意に不満を覚える。
僕はそんな人間だったのか?
醜い。
これじゃまるで、ヒトじゃないか! 弱いヒトじゃないか!
村人はこんなに弱くも、いやしくもない。
誇りのために最善を尽くす。なのに、僕は、……僕の歩みは止まらない。
一歩進む度に、何か大切なもの、僕を支えていた誇りとか、そういう物が解けて消えていく。
そんな気がした。
気ではない。
事実だ。
僕は十三聖教会の高位聖職者と、羽根の人だと思われる獣から、足早に逃げ出したのだ。
戦うために不利だから、一度距離を置いた、とかではない。
ただただ、初めての死の恐怖に戦慄し、混乱して、恐怖の薄い空間に救いを求めたのだ。
……僕は、講堂を出て、通路を渡った。
講堂を出た時に、気が入り口に引っかかった。
恐怖が引っかからせた。
策でもなんでもなかった。
僕は気をゴムのように引き延ばしながら、そこから距離を開けるべく、歩き続ける。
気は何も察知しない。
けど、戦闘が起きているのかな、と思う。
200人の『肉の盾』でも、かすり傷くらいはつけれ、……ない。
無理だ。
あの獣には無理だ。
けれど、物理的な足止めにはなる。
十三使徒のルカ、つまりアレクサンデル教授は、何故、ああも落ち着いていられたのか。
信仰、殉教、覚悟、そういう類ではない。
僕が知らない何かを知っていて、だから、あんな酷いモノと対峙しても、正気でいられた。
いや、元々狂っているから、問題無いのか。
分からない。
音は響いていない。
ドアに張り付いている気は、乱れを感じない。
それはそうだ。
僕は、獣に気づかなかった。
講堂の学生たちだって、教化されているから、感情の高揚なんてない。
あるのは、信仰の確信だけだ。
僕がこんなにみじめで悲惨なのに、構内の空間は、相変わらずだ。
静かで優雅。
教会か中世の城。
そんな空間。
当たり前だ。
朝のこの時間、講義中は、大学のどこも静かだ。
爆発音も、悲鳴も、なにも、後ろからは響いてこない。
当たり前だ。
大学は学問の場所だ。
戦場ではない。
僕が殺される場所であるはずがない。
全てが悪い夢みたいだ。
中庭横の、渡り廊下に差し掛かる。
後方で音がした。
僕が逃げ出したあの部屋からだ。
狐の気が反応する。
あそこを出てもずっと、薄く伸びて、あの辺りに張り付いていた、気だ。
あの部屋。
十三聖教会のルカと、密林の獣の部屋の、ドアが開いた。
足音はしない。
距離は離れている。
けれど、ソレは、僕の気を手繰るように、確認しながら、淡々とこちらに進んでくる。
威圧ではない。気配すらない。
ただ、力みなく静かに、歩いてくるのだ。
渡り廊下は、中庭の緑が眩しく、光が溢れていた。
中世の教会のような神性を、石造りの空間全体から感じる。
けれど、それは何の助けにもならない。
獣は歩いてくる。
反撃、何かの反撃をして、逃げなければならない。
突如。
視界が暗くなり、下半身全体から力が抜けた。膝をつき、へたりこむ。
……因果が誤作動を起こしている。
他者への攻撃のイメージに対して、アレルギー的な拒絶反応を、狐の因果が起こしているのだ。
まだ戦っていない。
何も出来ない。
獣は後方から迫ってくる。
畜生……、僕は、何も、できない……。
「大丈夫ですか?」
穏やかで、低く、けれど艶やかな男の声。
南米なまりのカタルーニャ語。
聞き覚えがある。
何処かで聴いた声だ。
日本。
横浜。
全員で顔あわせをしたんだ。
プロジェクターから映し出された、画面の中央で、話していた彼。
その彼と、同じ声色。
そう、この声は、あの学者の声だ。
僕は、硬く閉じていた、目を見開いた。
渡り廊下の光が、網膜に白く押し寄せる。
彼がいた。
カルロス・フィッツ・サントスが、僕にしゃがみ込んで、顔を覗き込んでいた。




