肉を食(は)む獣
講堂に満ちていた様々な音、声が、引いていく。
僕は聴席の机に俯き、聴覚、そして気配から、様子をうかがう。
彼が高位聖職者の場合、その一声で、200人が一斉に、襲いかかってきたりもするのだろう。
警戒。けれど、硬くなってもいけない。
ヒトの動きなら、いくらでも見切れる。
問題は、『教化』だ。
つまり、目さえ合わせなければ、どうとでも対応できる。
今は情報を集めなければいけない。
彼は間違いなく、学者、カルロス・フィッツ・サントスと繋がっている。
アレクサンデル教授は中央に進み、講談に立った。
自然な足取りだった。
「バルセロナは良いですね。温かいです。サンペテルブルクは寒かったです。雪も積もっていました。皆さんが行かれたら、生クリームに世界が覆い尽くされている! と思うのではないでしょうか。あ、私の体はカタラーナです。毎日食べていますからね」
講堂に笑いのさざ波が広がる。
アレクサンデル教授の声は、低く穏やかだ。
僕は、赤の酒場に流れていたジャズを思い出した。
上質な木製の空間。暖かい暗闇。
意識のひだを侵食する穏やかな声。
……間違いなく、彼だ。
でも、彼だとして、何故ここにいる?
ロシアに逃げたんじゃないのか?
奴隷を求めて、麻薬組織を襲って、信者たちをしっぽ切りしたのが彼だとして、何故、ここにいる?
僕は混乱する。
状況的には彼なのに、ここに彼がいる理由が分からない。
アレクサンドデル教授は、そんな僕の混乱など構わずに、講義を開始した。
彼と僕には、直線にして30mの距離がある。
だから、普通なら僕の混乱など、気づかないはずだ。
けれど、彼は、彼なら……。
「折角ですから、私たちの話をしましょう」
講義の開始から30分。
化学式を読み上げながら、教材資料のページをめくっていた、教授は唐突にそう言った。
僕の心臓が、強くはねる。
「信仰と科学は相反しません。何故なら、科学は人の業であり、人を救うのが信仰であるからです」
これは分子生物学の講義だ。
明らかに逸脱している。
普通なら、学生たちに、動揺または怪訝の気が広がるはずだけど、そんなことは無い。
当たり前だ。何故なら彼らは……。
「ですが、信仰は信仰と相反しがちです。私たちは、キリストは失敗したと考える。彼らは、キリストが救い主であると考える。でも、論理的に矛盾していますね。キリストが愛を解いた世界は、こんな地獄です。彼らは救いを説いて、教えをただのツールにして、この世界を侵食し、地獄に変えました。歴史の教科書を読めば分かることです。が、私たちは愚かなる彼らを許しています。『彼らは、自分たちが何をしているのか分からないからです』。キリストのこの言葉は、素晴らしい皮肉ですね」
信徒たちだからだ。
カソリックの聖マリア祭で、大司祭の説教を聴く信徒たち。
彼らはそれと大差がない。
構内は静まり返っている。
クリスマスのミサ。
アレクサンデル教授の声だけが、この空間に響いている。
賛美歌の独唱みたいだ。
「キリストの後任を主張する彼らは、奇蹟を行使できない。たまに『それらしいこと』をした位で、一々聖人に祀り上げる。恐ろしく原始的で、滑稽なことです。一方、私たちには、『聖女』がおられます。彼女は明らかな奇蹟を行います。手品ではありません。神の臨在を示す、本当の奇蹟です」
彼の話の内容は、一々、境間さんから渡された資料と一致する。
十三聖教会の教義。キリストの失敗。聖女と奇蹟。
「私たちの使命は、救済と、教えを示すことです。ですから私は、今日、十三使徒の『ルカ』として、貴方たちお2人に、この教えをお話できることを、私は嬉しく思っています」
……お2人?
今、この高位聖職者は、『お2人』と言った。
僕と先輩? いや、先輩はカサ・ミラ近くのマンションで戦闘しているはずだ。
戦闘が終わってこちらに向うにしても、彼女の気配は僕の近くにはない。
聖職者の声は届かないはず、だ。
何故、『お2人』なんだ?
僕の気は、周囲のスクリーニングを始める。
それは自動的なものだ。
この何週間もしてきた。
気を周囲に伸ばし、学生たちの気の循環を覚え込む。
こつこつと毎日して、200人揃った。
気配の特徴なら、全員把握している。
僕の気は薄く延ばされ、講堂をあまねく覆う。
……1人。
いた。
これだけ時間がたっているのに、気づかなかった。
30分。
1800秒。
18000ものコンマ秒の集合。
その時間で、僕は彼の存在に気づく事ができなかった。
僕以外の、もう1人、を。
信徒以外の彼を。
密林の肉食獣は音を立てない。
樹上に忍び、音を立てずに、引き裂く。
その虚無は、扇形に何層も広がった聴席の中央にあった。
人ならば、そう、善人でも悪人でも、赤子でも、異常性癖の老人でも、必ず放つ、光のような気配が、全くなかった。
だから、僕は彼を虚無だと思った。
けれど、それは違った。
無の集合。
光の無い暗黒。
闇と重力の暴力的な集積。
威圧ではない。
それなら僕は気づくことが出来た。
異質な何かだ。
そう、とても異質な力。
それは、境間さんに匹敵するほどの―。
……境間さんに、匹敵?
羽根の人、なのか?
顔を上げてしまった。
中央席の彼と、目が合う。
彼も、こちらを見ていたからだ。




