あの頃の奈崩(なだれ)
わたしには夜中に起きる癖がある。
これは物心つく前からずっと続いている。
保育所にいたころは、夜はよく、床に入って布団にくるまり、一日の事を思い返したりしていた。
そうしながら、心臓の脈動と、様々な音を合わせる。
施設全体には様々な音が響いていたので、心音の合わせ先には困らない。
淫崩が貸してくれた後は、ウィーン少年合唱団の整然とした音階などとも合わせたりした。
そのうち、浅い眠りに落ちる。
そして夢を見る。
……舞台に立っている。
恥ずかしいくらい肩や胸の開いたドレスを着て胸を張り、両手を広げて、スポットライトに眩しく照らされながら、わたしは歌を歌う。
いつも鼓膜の内側に響いてやまない歌だ。
わたしは歌い続ける。
観客席には淫崩と須崩。
二人ともハラハラしている。
わたしが緊張で音を外さないかと心配してくれているのだろう。
そこで沸き起こる疑問。
何故この子たちは平気なのだろう?
それで気が付く。
ああ、これは夢なのだと。
そして視界は薄い闇に変化し、わたしは眠りから醒める。
鈴虫が鳴き始めたある夜のことだ。
わたしはいつも通りに、むくりと布団から起きて居室から出て長い廊下を歩き、トイレに向かう途中で、奈崩を見かけた。
彼は通路の窓側の壁に背をもたれ、2つの足を床に投げ出して、そのぼさぼさに伸びた白髪を、窓から差し込む月光が斜めにかすめていた。
座っているのか瀕死なのか判然としないが、それはいつもの事だ。
奈崩は淫崩と同じひだる神の末裔で、わたしと同い年だった。
この男とは8歳になるまで面識はなかった。
いや、同い年だし同じ育ちなので、乳幼児から見知ってはいるはずなのだけど、駆他の因果のおかげでわたしは、ほとんど隔離されていた。
それに、ぼーっとした性格もあって物心がつくという状態に至るのがとても遅かったので、奈崩に限らず、周囲を認識するというのがとても遅かったのだ。
わたしの人生経験的に、この男には不快の情しか抱きようがないけれど、この頃は彼に対する悪感情は全くなく、むしろささやかな愛着と敬意すら抱いていた。
驚くべきことである。
ということで、いつもと同じように尿意をこらえながら、彼の隣にしゃがみ込む。
「大丈夫?」
と訊くと、やはりいつもと同じように無視をされた。
けれど呼吸は荒くもしているし、目をそらしたので、わたしは微笑みを作る。
立ち上がり、彼に背を向けてトイレに向かい、鼻血を拭きながら用を足して、ほ、とか、ふ、とかが混じった発音のため息をつく。
鼻血は傷ついたひだる神と向かい合う時の副作用だ。
菌の抑制が効かないのだろう。淫崩や須崩のとなりでも起きる事なので、わたしは大して気に留めなかった。
むしろ、
― 久しぶりに手当してあげようかな。―
と思って下の階に降りる。
食堂と医務室に侵入して、生理食塩水と飲むヨーグルトを盆にのせて、奈崩が瀕死だったところに戻ると、まだらな血の痕しか残っていなかった。
わたしはため息をついて、両手で持っていたトレーに視線を落としてから、通路の窓ガラスを見上げた。
ガラスの向こうには闇があり、その中に銀色の月が満ちるように臨在していた。
銀糸が廊下の床に、影絵のように、トレーや肩やおかっぱ頭や乳房を浮き出していた。
月光の空間には奈崩がいた気配がまだあって、わたしの鼻腔から再び血が流れて、唇に伝った。




