信仰の表明
僕は狙撃を警戒しながら、最上階の侵入口に戻り、裏手に回った。
ここはカサ・ミラとは逆側で、区画のふちをぐるりとマンション群に覆われた中央、つまり中庭部分を見下ろすことが出来る。
僕は地上に人(襲撃者も含む)がいないのを確認し、ひょいと飛ぶ。
景色が上方に向かって加速を始めた。
僕の背の後ろのバルコニー群が、もの凄い勢いで、上空に向かって加速していくのが分かる。
東京なら、特急電車の通過を、縦にした感じだ。
空中で、僕は両足をぴったりくっつけて、直立の姿勢を取っている。
両腕はゆるく開いている。
この腕を、顎を、頬を、額を、大気がもの凄い勢いですり抜けて行く。
不可視の濁流。
この流れを受けて、ブラックコートは、めくれ上がって、バタバタとはためいている。
ぱっと見は、オーケストラの指揮者に似ているかもしれない。
ブラックコートは地上からの風を受けて、はためく、というより、めくれ上がっている。
灰色と緑の地面が迫ってきた。
このままだと死ぬなと思った。
灰色は石畳だった。
幾何学模様のレリーフが施されているので、分かったのだ。
緑は芝生。
マンションが高級だけあって、丁寧に、丈が短く揃えられている。
落下予測地点は、石畳。
この石畳がさらに迫ってきている。
僕は死なないと思った。
死ぬなと思ったのが、人としての部分で、死なない、という冷静は狐なんだろうな、と思う。
先輩に行って欲しくない、と思うのが、昔の僕の感傷で、役割に対する義務感が、村人としてのあるべき姿なのだろう。
志骸先輩は、僕が初めて会った人で、初恋の女の子で、白雪姫で、爆弾魔で、口づけをした人で、そして、失恋の相手だ。この認識が、公私の私。
彼女は僕の先輩で、今回の案件でコンビを組む人だ。
組むというのは、結婚するみたいに病める時も健やかなる時も、みたいな精神的永遠を約束する意味ではなくて、必要な時にはためらわずに相手を見捨てる関係、なのだ。
それが、過酷な任務に臨む村人たちの、暗黙の了解である。
でも、村人だって人間だ。
恨み言、泣き言だって、どんなに分かっていても、言いたくなる。
特に僕みたいに、一切の戦闘に参加できず、かつ、不死身という因果を持つ者に対しては、それは酷い罵倒となる。
『糞野郎、……行けよ』
『何であたしが死ぬの、よ。やってらん、ない。……さっさと行ってよ、……馬鹿野郎!』
『糞が糞が糞が糞がああああああ!!!!! 行けよ……糞狐』
『死にたくねえ、畜生畜生畜、しょう、だけどよお、……時間がねえ、行けよっ! ……さっさと行けよ馬鹿野、郎』
戦闘が関わる案件では、僕は必ずと言って良いほど、チームを組まされた。
当たり前だ。僕は人を傷つける事が出来ない。
手を汚すのは別の村人だ。
そして、漏れなく絶望的な状況に陥るのだ。
どんな傷でも、命さえ尽きてなければ、仲間の回復はできる。
けれど、回復の時間が取れない。
仲間たちは、漏れなく、自らの回復よりも、任務の遂行を優先する。
罵倒混じりに任務を託し、目元に涙を貯めて、死んでいく。
それが、村人としてのあるべき姿だからだ。
今回もそんな感じだ。
表面上、僕は色々考えても、村人としては納得している。
いつもと同じだ。
強い敵が近くにいて、このままだとぶつかる。
だから、生き残る可能性の高い僕を逃がす。
もちろん、羽根の人は彼女を屠ってから、僕を追うかもしれない。
けれど、その間に僕は何らかの対策を立てられる。
そう、いつもと同じだ。
けれど、違うのは、いつもと違うのは、先輩が微笑んでいた事だ。
ペアを組んでから、色々な彼女を見ていたけれど、あんな彼女を見た事は無い。
でも、どういう彼女がこの脳裏にこびりついていようと、僕は振り返らない。
することは決まっているのだ。
大学に赴いて任務を行う。これが、公私の公。
……いよいよ地上が肉薄してきた。
直線距離的には10m。
地上3階分の『遊び』がまだある。
けれど、落下速度と加速度を考えたら、肉薄という言葉が正しいと思う。
僕は後ろ手で、指先をバルコニーの縁に触れた。
爪が吹き飛ぶが、気にしない。
親指以外の左右4本ずつ、合計8本の指たちが、バルコニー下の壁面を擦る。
ざらついた音が気流に紛れていく。
肩の骨に負荷がかかり、しまいに、ごきっ! と砕けるが気にしない。
落下のベクトルはその分中和される。
壁面が切れた。
2階のバルコニー上部前にきた。
僕は左後ろ蹴りをする。
バルコニーの欄干に、脛が激突。
この場合、衝撃と激突音は区別がつかない。
欄干はひしゃげ、脛は粉々に砕ける。
が、気にしない。
すかさず右も後ろ蹴り。
踵は欄干を蹴らなかった。
代わりに、欄干の柱の隙間にめり込んだ。
なら、それでもいい。
貫手の形で手のひらを開いて、両脇まで引く。
ひしゃげた欄干を、上下から両足で挟む。
蟹みたいだ。
この、挟んだ鉄を中心軸にして、僕の体は前方に、ぐるんと回る。
バルコニーの下、1階と2階の中間の壁面が超高速で迫ってきた。
僕は瞬間的に気を吐いた。
双掌打。
壁を両手で打撃。
肘が砕けるが、気にしない。
灰色の壁面に手のひら型の凹みが2つ。
遠のくのを確認しながら、僕は体を丸めた。
背が、芝生を感じる。
3回バウンドして、それでも勢いは止まらない。
が、しばらく転がったら、勢いが緩んだので、僕は立ち上がった。
当たり前だけど、体は回復している。
砕けた骨、肩も、脛も、肘。
爪すらも瞬時に元通りだ。
これが、僕の血に宿された祝福、不死身の因果なのだ。
コートのダメージを確認。
大丈夫だ。芝生の青草にはまみれているけれど、大した損耗は見受けられない。
僕は安堵の息をついて、遥か彼方となった、屋上付近を見上げる。
屋根の向こうの、空の青が鮮やかで、僕は目を細めた。
先輩は、この巨大のどこにいるのだろうか。
公私の公の整理に、くどくどと長い説明を要したのは、それだけ僕が揺れている証拠だ。
けれど、揺れているだけで、重心はぶれない。
村人としての義務を果たす。
これが、僕の重心であり、魂の核心なのだ。
中庭を後にし、一旦グラシア通りから西のカラブリア通りに向かう。
東に向えば、バルセロナ大学だけど、確認しなければいけないことがある。
通勤、通学に向う人々を縫い、速足で歩く。
2区画進んだ所で、重い爆発音が後方でした。
路上の人々の視線が一斉に、カサ・ミラ方向に向く。
先輩か、十三聖教会か羽根の人か、分からない。
誰かがそれを起こした。
それだけが分かっている。
僕は振り返らないし、表情も変えない。
代わりに、足をさらに速めた。
……カラブリア通りに差し掛かる。
左に100m行けば僕らのアパートだけど、目的地はそこではない。
僕は50m左に進む。
バス・ストップ。
子供たちの群れ。
金や黒の髪の羊たち。
群れは小学校に流れる。
もうすぐバスが来る。
学校用のバスだ。
昨日まで、毎朝、僕は先輩の送り迎えをしていた。
視線を感じた。
不思議を孕んだ視線だ。
白と青のストラオプシャツに茶色のハーフジャケット。
顔は小さくあどけない、くせの入った黒髪の少年。
歳は10歳ほどだろうか。
僕は視線を合わせて、ほほ笑んだ。
「Bon dia (おはよう)」
「Bon…… dia (おは……ようございます)」
少年の瞳が大きくなった。
「アロッソ・ベルグッソ君だね」
「は……い」
不思議が混ざった肯定。
僕は、にっと笑顔を作った。
「君のお父さん、ホセ・ベルグッソから、君の話を聴いているんだ。僕は、大学で、君のお父さんと友達なんだ」
少年は、目をしぱしぱさせている。
気配、気の循環を確認。動揺が薄れつつある。
僕は彼にしゃがみ込んだ。
威圧感の軽減。
「僕は甲斐九朗。娘の甲斐火蛍の父親だ。火蛍は、君と同じ位の女の子で、ほら。君がお父さんに、天使って言ってくれている、子だよ」
アロッソ少年の頬に朱がさす。
それから、彼は慌てたように、辺りを見渡す。
僕は苦笑する。
「今日は、火蛍は来ないよ。悪い貝にあたってね、昨日の晩から、入院してるんだ」
「え……?」
少年の頬から、朱が引いていく。
ここだ。このタイミングだ。
「良かったら、僕と十字を切ってくれないか。君のお父さんがやっているみたいに、『正しいやり方』の、十字だ。そうすれば、正しい神様に、祈りが正しく届いて、あの子は回復すると思うんだ。神様は子供たちが好きだから」
アロッソ少年のあどけない喉が、唾を飲み込んだ。
彼は頷き、黒髪が煌めく。
「……は、い」
少年は目をつぶった。
水月に左手の拳をそえる。
右手の人差し指と親指の腹をつまむように合わせ、『左手に』重ねる。
「父と」かすれるような小さな声。
つまむ右手は額の上に移動。
「子と」震える声。
右手は左肩に移動。
「聖霊の」穏やかな声。
右手は右肩に移動。
「聖名によって、アーメン」
幼い声から、晴れ晴れとした物が滲んでくる。
僕も、同じ仕草をした。
スペインの十字の切り方は、額、水月、左肩、右肩、と移動する。
アロッソ少年は、水月、額、左肩、右肩と切った。
彼が切ったのは、逆十字だった。
そう、これを確認する必要があったのだ。
少年にこれを教えたのは、彼の父、ホセ・ベルグッソである。
つまりホセはすでに、十三聖教会に『教化』されているのだ。
「……ありがとう。娘も良くなると思うよ」
僕は、アロッソ少年に、微笑んだ。
目頭が熱い。
少年を中央としたバルセロナの街の景色が、涙で滲んだ。




