楽園
ソファのたもとに白い皮膚つきの肉片が転がる。
白い貝殻みたいな骨片も、ペルシャの絨毯に散らばる。
叩きつけられたミゲルは呻く。
鼻や口があった場所が真っ赤になってる。
トマトでもぶつけたみたいだ。
血の赤にまみれた顔面から、砕けた鼻骨や、上顎が白く覗く。
良かった。
呻くという事は息があるのだ。
僕は箒とチリチリを放り出した。
足元のクッションソファーを両手で担いぎ上げ、駆けだす。
ミゲルの元まで最短距離を取る。
ソファーを担いだのは盾にするためだ。
窓ガラスが丸く抉れ続ける。いくつもの銃弾。
1つ、僕の脇に当たったが、ブラックコートは防弾仕様だ。
気にせずに走る。
朝の光がスポットライトみたいだ。
煌きのいくつかが、高い音と銃弾を帯びて、僕の脇を突く。
抉るような衝撃。
肋骨にひび。
けど気にしない。
日光の途切れる壁際まで来て、カッシーナのクッションソファーを放り投げる。
先輩はすでにミゲルの傍らで、片膝をついていて、ミゲル、ミゲルと言っている。
僕は彼にしゃがみ込み、治癒の祈りを始める。
大丈夫だ。
鼻、上顎は吹き飛んだけど、脳に損傷はない。
でももし先輩が突き飛ばさなかったら、彼は確実に死んでいただろう。
「……何が、起きた?」
回復したミゲルは開口一番に、そう言った。
先輩はすでに、バルコニーに接するガラスの隣の壁に背を預けて、光の差し込むほうを窺っている。
「敵さんさ。スカートめくりに応えてくれた」
彼女は僕たちを見ずに言う。
視線はあくまでもバルコニー、その向こうだ。
「色っぽいソフィか」
「またはその取り巻きだな。何にせよ、中々の感度だ」
ミゲルに答える先輩は相変わらずこちらを見ないが、声は穏やかだ。
黒髪がガラスから漏れてくる光を受けて、煌いている。
彼女の向こうには白のソファの残骸があった。
通常、クッションは銃弾を吸収するが、それも口径によるのだと、このソファを目にするとしみじみ分かる。
ミゲルの治療中に弾丸のサイズが変わり、貫通力のあるものになったということも。
加えて、室内に響く音も重くなった。
ソファにはマルク・エスタッソが相変わらず横になっている。
が、彼はすでに息絶えていた。
口径が変わった1発が、頭部にめり込んだのだ。
首は変な方向に曲がる。
その首にも1発。
頚椎が砕かれたのだろう。
頭部が、ぐにゃりと伸びる。
胴体はまだソファにあった。
1発受けて、揺れた。
2発、3発。
……どこまで続くのかは、分からない。
白かったソファは赤に染まっていく。
「悪いな、ミゲル」
先輩はこちらを見ずに、言った。
銃弾が飛来する方向を、ひたすら窺っている。
「何が、だ?」
「お前の仇を死なせた」
「構わないさ」
「そうか。実のところ、こちらとしても構わない。色々分かったからな」
先輩はいやに低い声でそう言ってから、僕らを振り返った。
「部屋を移るか。予定が変わった。話し合おうぜ」
彼女の言葉に僕は、はい、と返す。
ミゲルも頷いた。
僕らは最上階に移動する。
3つの客間の奥に、書斎がある。
先輩がオーク材の扉を開いた時、階下で高い音が響いた。
ガラスが無数の破片として砕け、床に崩れる音。
まあ、そうだろう。
あれだけ弾が当たり続ければ、防弾ガラスではない限り、崩落もする。
むしろマルク・エスタッソは防弾ガラスにしておかなかった理由が分からない。
麻薬組織のボスなのだ。
金も危機感もあったはずだ。
いや、違うか。
金はあったが、危機感は無かったのだ。
彼はバルセロナの麻薬流通を独占し、シチリアとも協力体制(従属かもしれない)を築いていた。
マドリード系の組織と軋轢があったにせよ、カサ・ミラからの狙撃など想定もしていなかった、という事だろうか。
何よりマルク・エスタッソは貿易会社の社長として、ここに住んでいた。
このマンションは彼の楽園だったのだろう。
そしてこの楽園で、彼は先輩に眼と小指を爆破され、ミゲルから手当を受けた。
それから十三聖教会の銃弾によって、その生を終えた。
書斎の広さは20畳ほどで暗く、奥に長い。
幸いな事に、窓は無い。
やはりカッシーナの大型のL字机。
この上に、PCモニターが3台、ノートPCが1台。
先輩は率先して入室、点灯。
L字机前のチェアに腰を落ち着け、PCも全て起動すると、モニターにXPのロゴが浮かび上がった。
カタカタという起動音が室内に小刻みに響く。
その間に先輩はチェアに体育座りをして、小さな両手のひらで机のへりを押す。
チェアは回転する。
「突っ立ってねえで、入って来いよ」
あどけない顎でL字の端を指した。
僕とミゲルは入室した。
ミゲルは机のへりに腰を預けて、書斎の空間をぐるりと見渡す。
机の向かいには本棚が並び、分厚い辞書類、オリーブオイル、ワインに関する専門書、金融取引資料などが納められていた。
いかにも、『職業:貿易会社経営』といった感じだ。
マルク・エスタッソは意外と仕事熱心な男だったのかもしれない。
裏の仕事は部下たちに任せて、自身は表の経営に集中していた。
そんなところだろうか。
「ここは初めて入る」
ミゲルが呟き、先輩が首を傾げる。
「色々と浸るなとは言わねえが、後にしろよ」
「ああ。で、あんたは何が色々分かって、どう予定を変えるんだ?」
ミゲルの問いに、先輩は両膝の上に手首を預けたまま、背もたれに大きく体を預けた。
そして天井に向けた瞳を閉じる。
「結論から言うと、オレたちは大層な勘違いをしていた。敬虔な十三聖教会は、羽根野郎とかなりやり合って、大層なダメージを受けてるんだろう。高位聖職者も来ている」
僕の喉が自然と唾を飲み込む。
先輩は構わずに瞼を開き、PCを向いた。
キーボードを叩き始める。
「びびり過ぎだ。九虚。まあ、潜入案件てのはな、何が起きても不思議じゃねえ。そもそも想定外な事が起きない方が不思議って世界なワケだ。つってもだ。考えてみりゃあ、全てに納得は行くんだよなあ。宗教ってのはよお、基本奴隷探しだ。けどよお、こんな国で麻薬扱う奴らを奴隷にして、何がしたい? てことだよな。奴らが欲しいのは麻薬じゃない。奴隷だ。特に、荒っぽい奴隷だ。けどよお、一晩で壊せる組織のどこが、荒っぽいんだ?」
先輩の問いに、それは僕たちが村人だからという言葉が出かけるが、飲み込む。
そんな僕の瞳を、彼女はじっと覗き込む。
僕は吸い込まれる。その深い、深い漆黒の瞳に。
「……猫の手でも欲しい。そういう事だったんだよ。色っぽくて敬虔なソフィと、取り巻きの奴らは、羽根野郎に追いつめられてた。俺たちが毎晩飯パエリア作ってたどっかで、奴らは随分『削られた』。だから、人手が欲しいってことだったんだな。特に要るのは『肉の盾』だ。高位聖職者の能力がどこまで効くか、分かんねえんだろうなあ。効くにしても、効かせるまえに脳みそ吹っ飛ばされたらそれで終わりだ。逆忌のおっさんぶっ殺す羽根野郎だ。信者どもの首から上をふっ飛ばしまくるなんざ、余裕だろう。つまり、ちょっとしたチキンゲームってわけだ。敬虔なヴィッチは洗脳したい、羽根野郎はヴィッチをぶっ飛ばしたい」
「だから必要だったのが麻薬売買組織ってことですか」
僕の問いに、先輩は頷いた。
彼女の指はPCの操作を再開する。
「じゃなきゃ、意味がねえんだよ。骨がある男はミゲル位だった。他は、そうだなあ……薄っぺらい、紙みたいなもんだ。ただし紙でも束ねれば、弾の一発位は防げる。何でもいいから盾にしたい、て心理だな。色っぽいソフィがミゲルをほっといたのも、そんなとこだろう。硬すぎる意志は使えない。『教化』だって効きにくいと踏んだんだろうなあ」
志骸先輩の言葉に、僕はミゲルをちらりと見た。
彼は書斎を漁っている。
相変わらず無表情だ。
大型の辞典をひっくり返し、ばらららら……っとめくっては、戻すという作業を続けている。
僕は確認の必要を感じた。
「つまりミゲルはほっておかれた。そして、赤の酒場から外れた誰かが、十三聖教会側に堕ちている、ということですか」
「そうだ。まあ、ミゲルが引き継いだ連絡係だろうな。普通の構成員なら、ソフィがいくら色っぽくても社長宅は教えねえだろう。俺らも連絡係は後回しにしてた。これが裏目かラッキーショットかはまだ分からねえ。で、麻薬売ってる奴等が部外者にゲロるのは完全に寝返った時位だ。寝返らせるには、恐怖か、金だな。拷問や自白剤って手もあるが、手間がかかるし、そこまで正確じゃねえ。なんてたって、組織の野郎からしたら金も恐怖も元鞘の方が世界一だ。認識ってのは、一晩でひっくり返せるもんじゃねえ。てことはつまり『教化』が使われた。そして使えるヤツがこの街に来てやがる。そいつは高位聖職者だ」
論理としては彼女の話は間違ってはいないのだろう。
けれど、鵜呑みにするには、話が飛び過ぎている。
僕は首を傾げた。
「分かりません」
「何がだ?」
「十三聖教会が羽根の人と戦って損害を受けた。だから組織を取り込んで盾にしたいと思った。弱すぎる盾ではあったけれど、無いよりまし。守らなければいけない高位聖職者が来ている。高位聖職者は『教化』を使った。だから連絡係はここを彼らに教えた。そして彼らはここを襲っている。それが分かりません。何故、僕らを襲うのか」
先輩は答える代わりに、バックドアのパスを訊いてきた。
このバックドアは、昨日僕が大学図書館の閲覧用PCを使い、密かに設置したものだ。
大学のメインサーバーに通じているが、使うにはまだいくつかの手順を踏む必要がある。
けれど僕は答えた。
先輩はハッキングの腕も一級だ。
「……オレが思い付くのは、そうだな。あいつらは壊滅的な被害を受けた。だからケツまくってロシアに逃げたい。逃げるって事は追いかけられるって事だ。余計な痕跡は消したい。そう考えちまう位、羽根野郎の追跡能力は高い」
淡々とした口調でそう言って、先輩は懐を探したが、空振りだったらしい。
探したのはオリーブオイルの瓶。
今は亡きマルク・エスタッソと朝食を囲んだ時、飲み切ってしまったのだ。
彼女は苦笑して、続ける。
「もう1つはランブラス通りで部下がオレらと出くわした時からずっと、ソフィの奴はオレらを見てやがった。覗きはレディの趣味としては品が悪いが、カルトってヤツらは何でもやるからな。つまり酒場も見ていて、盾代わり使うはずだったヤツらを全員潰された。だから隙を見て襲ってきた。この場合、九虚、お前も監視されてきたってことだ。こっそり監視できる位の手練れが向こうにいるってのも考えにくいし、オレじゃなくて、ミゲルを撃ってきたってのもあって、こっちの線は低いけどな。可能性としては捨てきれねえ。で、最後が、両方とも、てやつだ。敬虔なヴィッチはケツまくって逃げる途中。で、オレらの事も監視していた。ケツまくるついでにオレらも襲う。羽根野郎には良いカモフラージュだな。……どの線が正しいのか、てのはよお。今はわっかんねえけどな。あいつらが、オレらを襲ってきた、これは事実だ。だから、九虚」
「はい」
「ここで一度別れる」
「はい?」
「オレとミゲルは階段やらなんやら使って、中から出る。お前は外から出ろ。なあに、簡単だ。飛び降りりゃいい。お前なら死なねえ」
そういう話ではなかった。
僕が死ぬとか死なないとかではなかった。
羽根の人と十三聖教会が、もう戦っていて、教会は敗走。
敗走に当たっての処理で僕らを襲撃。
この襲撃がどういう事態を招くか。
誰も分からない。
十三聖教会は問題ではない。
いや、手練れが向こうにいるのなら、危険も上がる。
それよりも、この戦闘に引き寄せられて羽根の人が現れたら最悪だ。
先輩は普通のヒトより強い。
けれど村では弱い方なのだ。
ここで別れたら僕は先輩を守れない。治せない。
「そんな顔すんなよ」
先輩はその幼い口元に、苦笑を浮かべた。
駄々っ子でも相手をしている、そんな顔で、続ける。
「羽根野郎が、必ず襲ってくるとも限らねえ。そんな事より深刻なのが、敬虔なヤツらが勝手に戦って、勝手にケツまくってるって事実だ。オレたちはヤツらの握ってる情報を何一つゲットしてねえ。だから、だ。九虚。ここを出たら大学に向かえ。これを見とけば分かるだろう」
先輩の指は、モニターを指さした。




