色々な勘違い
ミゲルがインターフォンを押してから20分後、テラスで食卓を囲んでいた。
テーブルはオーク材。
チェアはイタリア製で、腰かけ部分が布張りのステンレス。
地中海を抜けて、旧市街を渡ってくる風は、秋らしく清涼だけれど、肌寒いという程ではない。
陽が露わな空は透けるように青く、高い。
ここでバーベキューをしたら気持ち良いだろうな、と思う位、見晴らしは良い。
街は20分前よりも、明らかに活動をしている。
車たちは渋滞をはじめ、人々は行き交う。
多くはバルに向う。
面白い習慣だと思う。
この国の人々は、一日に5回食事をする。
バルという居酒屋が朝も夜も使われる。
ちなみに朝食は、地域によるけれど、濃厚なホットチョコレートにチュロを浸して食べたり、パン・コン・トマテだったり、クロワッサンにコーヒーだったり、トルティージャというオムレツだったりする。
僕らはというと、僕がトルティージャにクロワッサンにコーヒー。
ちなみにトルティージャというのは、フライパンにオリーブオイルをひいて熱し、玉ねぎを炒めて、次にジャガイモに火を通しながら熱して、といた卵を注ぎ、固焼きのオムレツにするという料理だ。
日本でいう味噌汁みたいに、その家庭の味がある、というものらしい。
先輩が作ったトルティージャは、やっぱり美味しい。
お腹が減っているといううのもあるけれど、ジャガイモの火の入れ方が絶妙で、卵の甘味の中で、絶妙にほくほくしている。
さすが爆弾魔である。火の扱い方がプロなのだ。
彼女は僕の横で、クロワッサンをちぎり、オリーブオイルに浸してつまんでいる。
本当はフランスパンでこれをやりたかったそうだが、残念ながら、マルク・エスタッソのマンションには、フランスパンの取り置きは無かった。
先輩とテーブルを挟んで、このテラスの主である、マルク・エスタッソが、生ハムのサンドイッチを手にしている。
手にしているだけで、口には運ばない。
しきりに、コーヒーカップに唇をつけているが、すすりはしない。
ちなみにこのカップは、イタリアの高級ブランド、リチャードジノリ製で、バロック調のデザインが美しい。
マルク・エスタッソの横、僕とテーブルを挟んで、ミゲルがトルティージャにナイフを入れている。
彼が手製のトルティージャを食べるのは、どれくらいぶりなのだろうか。
このオムレツは日本で言う味噌汁、家庭の味だというけれど、この無表情な白人は、亡き元妻のオムレツを、何回食べたのだろうか。
もしかしたら、妻へのプロポーズの言葉は、
「俺に、一生トルティージャを作ってくれ」
とかだったりしたのだろうか。
少し訊いてみたいけれど、空気を読んで、控える。
だって、過去を気軽に訊けるほど、フレンドリーな空気ではないのだ。
まず、僕と先輩はブラックコートのままだ。
つまり戦闘服である。
ミゲルだって、外行きの服を脱いではいない。
マルク・エスタッソが、しきりに白磁のリチャードジノリを口元に運ぶけれど、取っ手に通し支える人差し指も、唇も、震えている。
まあ、ローブのままだし、寒いのも頷ける……のだが、もちろん、違う。
彼が震える理由は、恐怖だ。
だって、彼は、隣のミゲルの妻を寝取り、会社を乗っ取り、3年間監禁し、昨日まで麻薬漬けにして、飼い殺しにしてきたのだ。
そして、今朝彼は、警護2名を殺された。
下手人はミゲルの仲間。
得体のしれない東洋人の少女と、同じく謎のアジア男。
考えなくても分かる。
これはミゲルの復讐だと。
だから怯えているのだ。
「怖いのか?」
先輩が唐突に、正面のマルク・エスタッソに訊いた。
『朝ごはんはクロワッサン派か?』と質問するような、何でもなさだ。
「正直、緊張しています。復讐など覚悟しなくても良い位に、慎重に生きてきましたから」
答える言葉の端は、消え入りそうだった。
そんな彼に、先輩が口を開こうとすると、一陣の風がグラシア通りを渡り、彼女の髪を撫ぜて、乱す。
先輩は左手でその黒髪を押さえながら、苦笑する。
「復讐じゃねえよ。オレたちは、ミゲルを雇っているだけで、こいつに雇われている訳じゃない」
彼女はミゲルを見た。
「そうだよなあ? ミゲル」
「ああ、そうだ」
ナイフとフォークの手を止めて、ミゲルが頷く。
先輩は口角を上げて、マルク・エスタッソに視線を戻す。
「そういう訳だ。オレたちは復讐には関わらねえ。それは、『お前とミゲルの話』だ」
ドライだなと思った。
まあ、でも合理的である。
案件先で、いちいち情に流されて、復讐でも何でも請け負ってしまったら、きりがないのだ。
先輩は無駄な事はしない。
赤の酒場では、派手な戦闘はしなかった。
確実に、48人を屠った。
あそこに仕掛けた盗聴器だって、十三聖教会の動きを睨んだものだ。
では、何故ストライプと応援の男を、ルチャリブレで殺したのか?
……マルク・エスタッソに見せるためだろう。
具体的な体術。殺しの手際。そういう物を示して、反応を見る。
ミゲルにインターフォンを押させたのもそうだ。
時間さで、恐怖を煽る。そして、その恐怖の中で、どういう反応をするのかを、観察している。
長いまつ毛の下の、吸い込まれるように黒く大きな瞳は、今、マルク・エスタッソを値踏みしている。
「そうですか。それは安心です」
マルク・エスタッソは口の端を上げた。
全然安心していない。むしろ、逆に警戒を強めている。
彼の気配がそう示しているし、一見人の良さそうな瞳の底には猜疑の光があった。
でももちろん先輩はそんな事はお構いなしに、瓶を軽くあおって、言う。
「オレたちも良かった。錯乱されて話になんねえ、じゃ、仕事になんねえからな。オレたちは、あんたを見に来たんだ。『仕事を任せられるか』をな」
「私で出来る仕事であれば、どんな仕事でも承ります」
「助かるために、か?」
先輩の口調は嘲笑を帯びていた。
嘲笑はストレートに伝わったらしい。
マルク・エスタッソは鼻白んだ。
ミゲルは無表情。僕はいたたまれない。
何というか、こんなに素敵なテラスで、食器もリチャードジノリなのに、空気が張りつめ過ぎている。
僕はとりあえず、トルティージャを切り分けて口に運ぶのだが、ついに尽きた。
美味しくて、あっという間に平らげてしまった。
お代わりをお願いしたいけれど、空気を読んで、我慢する。
マルク・エスタッソは小さく肩をすくめて頷いた。
「……そうです。助かるためにです。重ねて申し上げますが、私は助かるためなら、どんな事だってしますし、できます。なんせ、私には実行力がありますからね。どんな仕事でも請け負えますよ。シチリアとのパイプもありますし、部下2人を殺されたからと言って、むやみにやたらに、戦争をしようとはしません。つまり、こういう事でしょう? あなた達は、中国系の組織員で、バルセロナの麻薬のシマを、欲しいと思っている。ヘロインとコカインは、長年の目玉商品ですが、『もっと貧しい者たち』ポーランド、ルーマニア、ブルガリア系統の移民たちには、もっと安い、覚醒剤の方がいい。そして、覚醒剤の扱いはあなた達が長けている。わたし達はウインウインの関係になれます」
マルク・エスタッソは途端に饒舌になって、一気にまくし立てた。
ミゲルの復讐が理由ではない、この事実が、彼に勇気を与えたらしい。
先輩は、
「ふむ」
とだけ言って、瓶をあおる。
この短い反応をマルク・エスタッソは好機と捉えたらしい。
彼の瞳が、狡猾に煌めいた。
蜂蜜色の髪が、グラシア通りを渡る風に乱れるのも構わずに、囁くように言う。
辺りを憚るように。
秘密の謀でも持ち掛けるように。
「こちらの取り分の、何割かを、お嬢さん、貴女個人に流しても良いのです。そうすれば、さらにわたし達は、ウインウインになれます」
「なるほど。それはありがたいな」
先輩は微笑んだ。
優しく、柔らかい微笑み方だ。
慈悲すら感じる温かさである。
彼女の頬は、額は、バルセロナの陽光を受けて、透き通るように、美しい。
そんな彼女を、マルク・エスタッソは人懐っこい顔をして、じっと窺う。
「私にとってもありがたいです。これは、お互いにとって、丁度良い機会だと思うのですよ」
先輩は、応える代わりに、白皿のクロワッサンに視線を落とし、ちぎって、口に放り込んだ。
口元をもにゅもにゅとさせて、とても幸せそうに咀嚼する。
「……でも違うんだなあ」
「はい?」
笑みを維持しながら首を傾げるマルク・エスタッソに、彼女もニッコリとする。
「違うんだ。オレたちはアジア系だが、もっと違う組織だし、お前の組織だって、ほぼ潰してるんだぜ。なんせ、お前らの行きつけの赤の酒場でな。48人殺してるんだ」
口調は穏やかだ。
昨日の夕飯の献立でも思い出すかのような、何気ない、穏やかさだ。
マルク・エスタッソから、笑みが消えた。
「は、い?」
「殺したんだよ。48人。つまりもう、ほとんどお前たちは、壊滅してるのさ」
彼女は1度言葉を切り、真顔になる。
それから、マルク・エスタッソの瞳を、窺うように、覗き込んだ。
彼の顔がみるみる変わっていく。
血色の良かった肌が、青ざめていく。
当然の結果だ。
先輩は威圧している。
あどけなく、美しい顔立ちの奥の、凶暴。
黒く深い瞳に、この凶暴が露になる。
「で、だな。何故お前はそれを知らない? オレはそれを知りたいんだ」
先輩はそう訊いた。
僕は彼を可哀想だと思った。
見かけ12歳の女の子から、こんな威圧を受ける日がなんて、想像もしなかったに違いない。
でも、仕方のないことなのだ。
彼はミゲルから全てを奪った。
奪う者は、いつか奪われる。
そういう風に、世の中は回っているのだ。




