寝ぐせを直す暇
朝陽が眩しかった。
昨夜の嵐もあって、バルセロナの空に広がる青は抜けるように澄んでいる。
秋らしい高さだ。
僕は窓から差し込む1日の予感に、目を細めた。
昨日から寝てないからだろう。
脳の芯が痺れている。
ふと、懐かしさを覚えた。
僕はこの感覚が好きで休暇中、漫画家をしながらよく徹夜をしたものだ。
ついこの前まで、無慈悲な締め切りに追われていたのに、随分と昔に感じてしまう。
感傷を覚えながら、後ろの、中年男性、マルク・エスタッソを、肩越しにちらりと見やる。
一見人の良さそうな丸顔が視界に入ってきた。
次いで、小太りで日頃の運動不足が偲ばれる腹部。
ドン・ペリニヨンという酒が似合いそうな、ゆったりとしたローブから覗く胸部には胸毛が朝日を受けて煌めいている。
印象的なのは、この中年男性の髪だ。
蜂蜜色。角がたったホイップクリームみたいに、いくつものくねりを描いている。
いかにも寝起きといった感じだ。
大層なくせっ毛なのだろう。
その髪の描く曲線は、窓の向こうの建築物、カサ・ミラという邸宅とシンクロする。
あの建物はガウディが設計した世界遺産で、奇妙なほど、直線部分をもたない。
窓越しに、世界遺産を眺めながら、僕は、ガウディは山盛りに重ねたパンケーキが好きだったのかな、なんて思ったりした。
だって、今の僕には7段重ねのパンケーキにしか見えない。
これは、空腹のせいだ。
ちなみにカサ・ミラは、市民には石切り場とか揶揄されている。
つまり、バルセロナの市民たちに、あまり好かれてこなかった、世界遺産なのである。
カサ・ミラに一番初めに住んだ実業家は、帰宅時に何を思っていたのだろうか。
どんな気分で、このパンケーキの山を出入りしていたのだろうか。
「気分はどうだ?」
志骸先輩の声が室内の空間に響いた。
彼女は2つの死体にしゃがみ込んでいる。
両手をかざして、焚き火にでもあたっているみたいだ。
死体たちは並ぶ形で、リビングに安置されている。
「奇妙ですが、それほど悪くはありませんね」
言葉を返すマルク・エスタッソの気配に混乱は無い。
いささか前にせり出して来ている腹部。
その横隔膜から発声されたカタルーニャ語には、ラテン訛りが微かに混ざっているけれど、穏やかで聞き取りやすい。
彼の声は不快ではないけれど、僕は眉をひそめてしまった。
この金髪の男の声色にも、言葉にも、媚びがあったからだ。
麻薬売買組織のトップなのだから、もう少し堂々として欲しい。が、これは僕の押し付けかもしれない。
先輩は、
「そうか、それは良かった」
と言って、手元の死体たちに視線を戻す。
と、死者の胸に光球が1つ生まれた。
それは次々に増殖する。
光の球は、蛍が密集するみたいに、淡く死体を覆う。
白色の浸食。
2人分の『厚さ』を保っていたその膜は、徐々に床に向って下降、密集の下の死体は薄くなっていく。
これは手品だ。
蛍が死者を蝕んでいるように見せかけて、本当は爆弾で抉っているに過ぎない。
光球たちはその勢いを保ったまま、下降を続け、絨毯の毛先にぎりぎり接するという高度まで至った時に、
唐突に衰退し、消失した。
その下にあった絨毯はペルシャのもので、緋と茶色からなるその幾何学模様には、何の傷みも無い。
が、焦げ付いた燃え滓は黒く散らばっている。
それも、死体の着衣、ストライプシャツ『だった』青と白の布、チノパン『だった』白の布、そしてそれらの上の人体『だった』焦げた脂をふちどる形で、絨毯に散らばっている。
何かの事件現場に引かれたチョークの線みたいだけど、色は白ではなく、黒だ。
脂たちも黒く焼け焦げている。
そして、火山の灰が積もるように、うっすらと、人型シルエットの布に積もっている。
志骸先輩は顔を上げて、マルク・エスタッソを見た。
「……上等な絨毯だからな。傷つけるより、『残す』方がいい。そうだろう?」
「そうですね。助かります」
「いや、押しかけたのはオレたちだからな。気配りとしては当然だ。で、気分はどうだ?」
マルク・エスタッソの気配が動揺した。
丸顔の奥の、一見人懐っこそうだが、冷たい光を宿す、目が泳ぐ。質問の意図を測りかねているのだろう。
中々興味深い。
つまり、光が死体を食んでいた時、彼は驚愕と恐怖を気配に示した。
けれど、侵食が進むと、それは手品でも眺めているような、冷静な驚きに変わる。
まあ、不思議なことが続いているのだ。
組織のトップなのだから、状況に、『慣れ』もするだろう。
けれど、自分に向けられた、意図の分からない質問には、動揺する。
この違いは何か?
やはり、自分に関わる事だからだろうか。
「とても奇妙ですが、それほど悪くは、ありません、ね」
その声には明らかな動揺が滲んでいる。
僕は、やはりここも拷問場になってしまった、と思って、内心でため息をついた。
豪奢な家具がゆったりと配置された空間を、朝陽が祝福している。
室温は快適に保たれている。
焦げた臭いが漂うけれど、快適なことに変わりはない。
けれど、ここはもう違う場所なのだ。
ガラスに額を近づけて、その向こうのバルコニー、さらにその先のバルセロナの街並みを眺めた。
青空の下、カサ・ミラを筆頭に、白に薄い茶を混ぜたような色をした、石造りの建物が広がっている。
建物たちのバルコニーには、規則的にプランターが飾られて、おびただしい赤や白、黄色や青の花弁たちが、鮮やかに輝いている。彼らを輝かすのは、バルセロナの東の海から昇る朝日だ。
ふと僕は、墓標に飾られた花たちを思い出した。
そして、水族館のガラス越しに、水没した街を眺めているような、そんな錯覚に陥いる。
もちろんそんな事はない。
僕と先輩がいるのは、マルク・エスタッソのマンションで、グラシア通りを隔ててそびえるのは、カサ・ミラである。
バルセロナの街には、活動の兆しがある。
後2時間もすれば、通りには人が溢れ、車も渋滞と共に往来するのだ。
「それは良かった。オレのこれを見ると、気分が悪くなっちまう奴もいるんでな。ちょっとばかし心配したんだ。さすが、麻薬売買組織のトップだけある。肝が据わっているな」
彼女の声は柔らかかったし、皮肉の響きは無かったけれど、僕は先輩は人が悪いと思った。
マルク・エスタッソは明らかに怯えている。
くねった髪の先も、蜂蜜色に震える。
震えるほど怯えているから、彼は媚びているのだ。
「私は……」
「おっと、只の貿易会社社長とかよお、下手な言い訳はよしといた方がいい。オレたちの実力は、見ての通りだからな。それにオレはメソメソした奴が嫌いだ。意味は分かるよな?」
先輩は、そう遮ってから、小首を可愛らしく傾げた。
朝日に微笑むその口元、光がさざなみをうつ黒の深い瞳は、場違いに天使っぽい。
彼は口をつぐむ。
この反応もまた、興味深い。
気配が憮然としている。
目が認識する現実と、自分を取り巻くそれが、一致しないのだろう。
それもそうだ。
彼は11分前までは寝ていたのだ。
このゆったりとしたリビングから通路を奥に進んだ先の、やはりとても広い寝室、そこに横たわる巨大なベッドで、快適な眠りを貪っていたのだ。
何となく申し訳なく思う。
けれど、僕らも仕事なのだ。
仕事として、この豪華なマンションの麓まで来た僕らは、まず、建物全体を見上げた。
休暇で漫画を描いているせいだろうか。
僕にはこのマンションが、朝の青空にそびえる巨大が、ダンジョンに思える。
先輩はマンションの主の居室の位置を、ミゲルに確認した。
そんな一連が、たった14分前の話なのだ。
そりゃ、彼の髪もくねっているはずである。
しかし、世の中というのは非情なのだ。
先輩はこの2つの死体を、光球で覆い、消滅させる。
ここまで、かかった時間が14分。
それから1分後。
ミゲルと別れてから、丁度15分たった時に、インターフォンが鳴った。
もちろん、モニターに映っているのは、元スパイである。
相変わらずの無表情。
先輩が笑いながらフォンに話しかけた。
「几帳面だな。15分ぴったりだ」
「仕事の基本だ」
ミゲルの物言いは、相変わらず不愛想というか、恐れ知らずというか、無感情である。
対して、酷い動揺を示したのは、マルク・エスタッソだった。
彼の気配から、色々な何かが、急速に剥がれ落ちていく。
代わりに、とても現実的な恐怖が、その背筋を侵食していくのが見て取れた。




