多濡奇
強い風が吹きすさぶ、真夜中の山頂で、多濡奇はやっと立ち止まった。
なるべく平たい石を探し、赤血球のように中心が凹んだものを見つけたので、彼女はまず、手で窪みにたまった小石を払う。水がたまっていないかも確認。
幸いなことに乾いていた。
ここまでしてようやく、リュックから布を1枚取り出し、アディダスの黒ジャージの腰をおろす。
ポンチョを羽織ったまま、つばの広い帽子だけを脱ぐ。
そして、ふう、と彼女は小さくため息をつく。
石のへりに両手をかけて、上空を見上げる。
星に埋め尽くされた夜空。
目に収めるのは2回目だ。
多濡奇の、潤んだ虹彩には、おびただし星が浮かんで、強い風と共にまたたいている。
「2代目ディエゴさん」
砂が口腔に侵入するのを防ぐために、装着したマスクの奥の唇を開いて、多濡奇は名前をつぶやく。
毎晩つぶやいている。星に埋め尽くされた空は、嫌でも去年の面会を、彼女に思い起こさせるからだ。
あの時は、幻覚を見せる因果なのだと、彼女は思っていた。
が、ちがった。迫り圧してくるような密度の空は、本当にあったのだ。
つまり、暗黒龍の血統が愛した星空が、この火山地帯の上空には、広がっている。
多濡奇はそう結論づけつつ、風の中で星の運行を観察。
「やっぱり、昨日とちがう、なあ」
また、独り言ちた。見え方がちがう。特殊な磁場の関係かもしれない。
磁場が強まるだけ、わたしは神々の里に近づいている、と彼女は思う。
不意に、背に負ったリュックの奥から、カタカタと、ファックスが文字を印字するような音がして、彼女は空中5㎝に飛び上がる。
― 何だろう? ―
石に座り直し、リュックのチャックを開き、手を突っ込み、音を立てるそれを取り出す。
……携帯だった。プロビオが、役に立つだろうから、持っていけ、と多濡奇に言っていたものだ。
どういうことなのだろう、と思いながら、携帯に視線を落とす彼女に呼応するように、それの液晶画面は、明滅をくり返す。
何かの信号を受け取っているのだろうか。
と、思いながら、多濡奇は通信状況を確認。アンテナが1本立っているだけだ。
変化といえばそれくらい。留守番電話サービス、緊急の伝言などが彼女の頭に浮かんだ。
が、すぐに否定される。それなら何かの変化が起きているはずだ。
「伝言、かあ」
録音された声をモバイルで確認。物凄く便利な世の中になったものだ。
干支がもう1回りしたら、世の中はどうなるのだろう、と、2005年の夜空を見上げつつ、彼女は考えて……。
「あ」
と声を出した。
― なるほど、なあ。―
確かにこれは役に立つ。それは、命を救うくらい、と多濡奇は思った。
それから、彼女は1つの作業を思い立ち、神々の里に至る前に、終わらせるべきだと思う。
彼女は、その場所で起こるだろう現象を、予想することができた。
取っ掛かりは、プロビオから、衛星がとらえられない、磁場の発生と移動について聴いた経験。
磁場の正体について、オメテオトル以外に心当たりがない。
それは、衛星に搭載されたカメラによる捕捉をはばむ磁場。
これが手品の種明かしだ、と多濡奇は思う。地図にない、神々の里。
マヤ神話の民の楽園にして、聖地。
衛星のない時代ならともかく、現在ではありえない。
人跡未踏の秘境など、消滅して久しいはずなのだ。
でも、ニカラグアのどの地図にも、その里は記名されていない。
ノエミがモニターの上で示したのは、ニカラグアを北西から南東に、斜めに走る火山地帯の、1地点だった。
多濡奇はニカラグアの地図を暗記している。
等高線図も、道路地図も、あらゆる地図を。
そして何より、ノエミがPCで示した道を。
※※※※※※※※
多濡奇は首都のマナグア市に到着後、一番高級そうなホテルのフロント係に紙幣を握らせた。
それから、現地の状況を確認。1か月分の部屋を押さえることにして、料金を多めに支払った。
トランクも、サバイバルに不必要な衣類も全部、その部屋の日の当たらない隅に置く。
エアコンのスイッチを入れてから、10日の不在をフロントに告げて、困り顔をされるのと同時に紙幣を握らせ、施設を出た。
途端、彼女は高い気温と湿度に汗を額や瞼の上からふき出す。
― まあ、ニカラグアだし。―
多濡奇は、自身を納得させながら、まず土産物屋に寄る。
カラフルなポンチョ、それとつばの広い帽子とふちの円いサングラスを購入。
少し考えて、ネイティブ柄の布地も何枚も買い、リュックに詰める。
それから、掘っ立て小屋の壁を1つ取り払って解放したような、粗末な作りの食料店に歩き、まだ青いバナナ、レモン、コーヒーの実も購入。
リュックには浄水用のストローもあるし、土着の植物から水分を補給すれば問題はないのだが、多濡奇は前途の多難を覚えていた。
暑い。しかも湿度が高い。強い陽は容赦なく体力を奪う。
ちょっと痩せておいて良かった、と多濡奇は思った。肥満状態だと、この暑さはさらに辛いからだ。
レモンをかじりながら、のどの渇きを癒しつつ、多濡奇はバスを待ち、乗った。
丸1日かけて、太平洋岸沿いに、ずいぶんな距離を移動。
この国についての感想を、彼女はまとめながら、夜を歩き出す。
多濡奇はクレトの語った話を思い出す。
独裁政権。内戦。貧困。
どうやら、こういった事柄たちは、一種の中南米という国々の、トレンドらしい。
東京の地下鉄の座席に腰をおろす主婦が、一定の割合でヴィトンのバッグを持っているように、中南米では政治を原因とした悲劇が一般的なのだ。
と、多濡奇は結論づける。
肥沃なはずの太平洋岸の一帯は、ひたすらコーヒー農園しか広がらず、少し内陸にそれると、掘っ立て小屋しかたっていない。食生活によるものなのか、民族衣装に身をつつんだ女性たちはふっくらとしているが、男たちの目は厳しく、樹々の向こうから唐突にあらわれる西洋建築の教会の壁は、月面みたいに穴だらけだ。それは銃弾や砲弾の痕跡。
内戦は沈静化しているものの、実際のあつれきはくすぶり続けている。
アメリカの介入も悪い。あの国は正義ではない、と、多濡奇は思いつつ、火山地帯を徒歩で進む。
レンタカーも考えたが、音が大きすぎるし、どの距離から察知されるのか、分からない。
そもそも返せる保障がない。車が故障しない保証もない。
未舗装のまま大地を伸びる茶色の道の至る所に、ゴミと、朽ちた何かと、潰れた車輛が放置されている。
つまり、この国は、全体がバリオスなのだ。
などと考えながら、1000m級の火山の頂上に至った最初の夜。
多濡奇は星々に圧倒された。綺麗ではない。生々しいほどに迫ってくる、死の感覚。
不吉な予感のままに、肩越しに太平洋側を振り返ると、白いささくれのようなものが、黒い海のそばにいくつも視認されたので、多濡奇はため息をつく。
あれは風力発電の風車。風の強いこの国の主電源だ。いや、燃料が買えないほどに、貧しいのか。
それでも……。
― 嫌だろう、なあ。―
オメテオトルの目には、あの風車の眺めは、ひどく醜悪なものに映るにちがいない。
それは侵略の象徴。
などと考えながら、多濡奇は火口を迂回して、先を進む。
念のため、テホン・エキポの思い出の品である、ガスマスクを、彼女は装着している。
……昼間は低い樹木の木陰や、溶岩が冷えてできた洞で休み、仮眠を取り、夜は行程をひたすら進む。そんなサイクルを3回くり返して迎えた夜。
多濡奇はついに、神々の里を見下ろす、火山の山頂に至った。
火口から十分な距離を取るために、少し傾斜を下り、黒砂の上にしゃがみ込み、帽子を脱いで、ガスマスクを外す。そうして、感慨を深くしたり浅くしたり、覚悟を確認したり、今更ながらにためらったりしながら、眺める。
真っ黒な盆地の底に、確かに細かな陰影が散らばっている。
灯りはない。だから星々は、凶悪なほどに煌めいている。
他者の存在が許されない土地に、わたしはこれから足を踏み入れる、と彼女は思う。
ため息をつき、立ち上がり、プロビオの携帯をリュックから取り出して、久しぶりに電源を入れ、ボタン操作をしながら、斜面を里に向かって降りていく。
800mほどの高さの斜面を下り切ってから、ようやく平地にいたる。
ここは盆地の底、と思いながら、多濡奇は後方を振り返りたいと思うが、こらえた。
物見の時間は終わったからだ。
星空の下、黒く平たい輪郭を並べる家々から、ぽつ、ぽつ、と人影が出現。
もう、それは始まっているのだ。
表情は見えない。
だから、プロビオの携帯の液晶の光だけが、多濡奇のありのままの顔を、顎の下から浮かび上がらせる。
不意に火山から吹き下ろす風が、彼女のつばの広い帽子を、すくい上げるように、前方に飛ばした。
それが合図だった。
人影が跳躍。あるいは、多濡奇に距離をつめてくる。
暗闇の集落に浮かぶ、あらゆる人影。
そのベクトルの先が、彼女に集約。
……した、刹那。
多濡奇の指は、決定ボタンを押す。液晶画面に浮かぶ言葉は、|Grabación y reproducción《録音再生》。
彼女はここまでの行程で、夜空を見上げながら、携帯に歌を吹き込んでいた。
暗黒龍の希望と、マヤの民族の行く末と、修羅の時間を思い浮かべながら、歌った旋律は、雲路の歌。
だから、旋律は闇を満たすし、影たちは、物言わぬ死体として、盆地の地面に落下する。
戦闘の場で、まだ多濡奇は一声も発していない。
直接歌う時ほどの快楽は、彼女の胸や腰にはこみ上げない。
なので、彼女はただただ、ため息をつく。
息は夜風に溶ける。
「確かに、便利だ、なあ」
死体が、春を迎えた雪国の路肩みたいに、いたるところに、小さな盛り上がりとしてうずくまり、胃や眼球が独立した生き物のように震える中を、多濡奇はゆっくりと歩く。
それは、効果を確認するため。
効果は、殺傷能力。そして、湧き上がるはずの快楽。
……殺傷能力は申し分ない。
快楽は、じんわりと、慎ましやかに。
歩を進めながら、ばたばたと人体が倒れ、変形していく音に、多濡奇は耳を澄ませる。
プロビオの携帯は、旋律を再生しっぱなした。
彼女は細菌兵器でも扱っているような気分になる。
細菌兵器。奈崩。長年の誤解と、明かされた真実に、闇の輪郭が二重にぶれかける。
が、彼女は意識を強く保つことで、それを避けた。
結果的に、プロビオが、携帯を役立てるように、と言った助言は有用だった。
神々の里の住民たちを眠りから目覚めさせるのに、多濡奇の存在は十分に凶悪だったし、目覚めた彼らを、携帯から流れる音楽は絶え間なく屠殺した。
旋律は予備動作なく流れ続けたし、だから黒百合の助言も十分に効果を発揮したし、多濡奇は集落を丸ごと死に呑み込むまで、1時間とかからなかった。
充電の目盛りが1つ減った携帯に、多濡奇はその柳眉をひそめ、持参した電池パックに接続。
ランプは点灯しない。携帯は雪融けの歌声を流し続けている。
どうやら、電池パックが壊れたらしい。
「神々の里だから、なあ」
ため息まじりに、多濡奇は言う。特殊な磁場が働いている。
だから、機械は壊れる。50年前。オメテオトルは煉瓦を粉砕してまわった。
原理的には同じなのだろう、と多濡奇は結論づけた。
つまり、この土地では、あらゆる機械は故障する。
プロビオの携帯は特製だから、耐久性があるのかもしれないが、それも時間の問題だ。
「急がないと、なあ」
死体の間を歩いていると、どうにも独り言が多くなって、困る、と彼女は思って、東北の方角に視線を投げた。
火山が、黒くかぶさるようにそびえている。星々との対比で、強い気配をそれは放ってくる。
気配を言いかえると、予感。
― 黒百合ちゃんは、ちゃんと着いたか、なあ。―
東北の方向を突き詰めていけば、やがてロシアに行き当たる。
凍えた大地で、愛弟子はどのように呼吸をしているのだろうか。
などと考える多濡奇の胸を、孤独感がせり上げたので、彼女は下唇を噛んで、こらえた。
刹那。
か弱い心音を、彼女の鼓膜は拾った。
生存者がいる。
全員殺したはずなのに。
歌が効かない強者がいるのか。
― フラカン……? ―
足音を忍ばせて、心音の場所に向かうと、小さなわらぶきの小屋に行き当たった。
正面から、彼女は侵入。
直後、多濡奇は息を呑んだ。
藁の寝台の上で、布に包まれた状態で、赤ん坊が眠っていた。
眠りに落ちる者に、人魚の歌は届かない。
なら、起こせば良い。いや、歌わなくても、手に力をこめれば、少しだけ技術を使って撫でれば、この小さな命は、終わる。
彼女がそう思い、実行しかけた時。
ファナの娘の赤い顔が、ノエミの息子のアンヘルの泣き顔が、同時に浮かんだ。
多濡奇は赤ん坊を寝台に、そっと戻し、小屋を出た。
振り返りはしなかった。ただ、どこかでごとりと音がした気がした。それは、生と死の天秤。
※※※※※※※
フラカンは、最高神と仲たがいをしている。
原因はケツァルコアトルだ。
奴の羽根は目を奪うほどに青く、美しい。
その美に、フラカンは憎悪を覚える。
だから、ケツァルコアトルを屠り毛をむしり羽根飾りを作り平たい頭に戴くまでは、マヤの民の里に、彼は帰還するつもりはなかった。
だが……。
違和感を、フラカンは感じた。
たくさんの糸が消滅する感覚。
どこかの山が噴火をしたのだろうか。
だが、しかし、マヤの民が存在する限り、最高神の神威は健在だ。噴火など容易に抑えられるはずだし、そのようにして、歴史は紡がれてきた。
最高神の神威を疑うことは不敬にあたる。そもそも、ただでさえ、自分は不興を買っているのだ。
それでも……。
消滅の感覚を気がかりに感じたフラカンは、その羽根を広げて、マヤの民の里に、一度帰還することにした。
ちなみに、羽根の力は最近手に入れたものだ。
巨大化する力も。記憶を奪う力も。黒い花を外来種の略奪にさらすことを、フラカンはとても不快に思ったし、だから臭いをたぐれる限りはたぐって、頭蓋をかみ砕いて回ったのだが、浅はかだったかもしれない、と彼は思う。
略奪にさらすことを是としたのは、最高神。
あのお方は、これを予見していた。
黒い花を服用した外来種は、フラカンの眷属に変化する。
多くは知能のない獣だが、ごくわずかの眷属は、稀有な力を発現する。
そして、その力は眷属のつながりを伝って、フラカンと共鳴。
彼は聖地を出てから短期間のうちに、多くの力を得た。
最高神は分かっていた。つまりは、自分を愛しているのだ。
この思考にフラカンは幸福を覚えるし、虹彩の小さな瞳は血走る。
股間が隆起し、翼の羽ばたきは音速に近くなる。
嬉しい。
楽しい。
快楽と幸福のままに、フラカンは夜の大気を切り裂いていく。
その飛行速度は、弾丸よりも速い。
視界に聖地の端の集落が飛び込んできた時、フラカンはその鼻を、すんと鳴らした。
血と粘液の臭いが大気に充満している。
彼は集落に降り立ち、視線を周囲に巡らす。
すん、とまた鼻を鳴らす。
血液の臭い。胃液の臭い。排泄物の臭い。死の臭い。
そして、臭いの原因たち。
フラカンに及ばないにせよ、強者はいたはずなのに、全員死体に変わっている。
死と疫病の神が、人間で遊んだ後のような、原形をとどめない何かにされて……。
敵は1人だろうか。
手口は統一されている。目玉を抜き、胃袋を引きずり出し、失禁させる。
1人では無理だ。単純な腕力で可能になる所業ではない。
強者も弱者も全員を、匂いを分析すると、ほぼ同時、あるいは同時刻に、屠っている。
鼻をすんすんと鳴らしながら、フラカンは集落を歩いた。
その末に、幼い呼吸を耳が察知。
小屋。強者の居住地ではない。弱者。平民に与えられた、小さな建物。
フラカンは小屋には入らない。ただ、土の壁に耳をつけて、内部の確認だけを行う。
「赤子、か」
彼はつぶやき、また、すん、と鼻を鳴らして、考え込む。
生き残ったのは赤子が1人。
他は全員虐殺された。女子どもを含めた、集落全員が、弄ばれた。
敵は……。
― …………。―
1人なのかもしれない。眠っていた赤子だけが、助かった。
家族に起こされた子どもは、死体に変わった。
つまりは、眠ることで効力を消すことができる呪い。
即効力のある、強烈な呪いの術者が、この集落を蹂躙。
赤子に気付かず、去った。
フラカンは突如、両手を地につき、鼻をなすりつける。
それから、すんと一度鼻を鳴らして、立ち上がる。
「聖地に向かった、か」
地面には臭いが残っていた。外来種の使う靴の臭い。集落の女からは漂わないたぐいの、調味料の臭い。東洋人というくくりの外来種が使用する、醤油の臭い。
「あいつらの仲間、か」
フラカンは闇に牙を剥き、目を血走らせる。
次の瞬間、両手の指は、彼自身の耳をつかみ、引っ張り、ちぎっていた。
それは、鼓膜と、その奥の神経ごと。
眠る以外に避けることのできない呪い。
広範囲に、同時に波及するそれは、何か?
答えは、音だ。呪文かもしれない。
なら、音を聴かなければ良いと、フラカンは結論づける。
そうして、フラカンは、漆黒の体毛に覆われた全身を、胸元を中心に隆起させた。
巨大化した全身は、さらに2倍に膨れ上がる。
食ってやる、とフラカンは誓いながら、その羽根を広げた。
※※※※※※※※
1つ目の集落を壊滅させた後。
多濡奇は一晩かけて、4つの火山を越え、さらに2つの集落を壊滅させた。
プロビオの携帯は、充電目盛りの減りが激しく、ほど使用ができなくなったので、3つ目の集落では、多濡奇は直接歌った。
それは快楽。
夜明けの近い空に、旋律は響き渡り、死は祝福のように地を満たす。
死体だらけの集落で、彼女が恍惚の余韻に浸っていると……。
瑠璃色の上空を、巨大な黒い影が覆った。
獣、いや、フラカンが来た。
多濡奇は息を吸い込み、強烈に歌った。
が、巨大な羽根の獣は、動じない。
白目を見開き、多濡奇を、かっと見据え、ほぼ同時に咆哮を放つ。
地面が同心円状に波打つ。家屋が吹き飛ぶ。歌はかき消される。
― フラカン……!!!! ―
恐怖と絶望に硬直しながらも、衝撃を受け流すのに精いっぱいの彼女の頬に、温かくねっとりとした何かが注いだ。
彼女が指で確認したそれは……血液。
頭部から、垂れてきている、と多濡奇は思う。
つまり、至近距離で聴かせれば良い。
三半規管を引き抜いても、本気の歌は、脳に届く。
降下してきた瞬間、歌ってやる。
と、彼女が身構えた瞬間。
携帯が鳴った。
一瞬多濡奇は混乱する。プロビオが寄越したのは分かる。が、出れる状況ではない。
が、出ずとも、音声は響いた。
「一定以上の衝撃を確認した。綿貫雫。つまり君は獣と戦闘しているのだな。なら、獣の下にもぐり込め。私は多くの者達の仇を討つべく、機構を発動させる」
声は、事前に録音されていたものだった。
秘匿データ。
でも、と思う。あんな巨大な獣相手に、携帯1つで何ができるのだろうか。
爆弾になる? 無理だ。体毛すらも、吹き飛ばすことができない。
強靭過ぎる。
と、多濡奇が思った時。
いくつもの光条が、上空から、周囲の地面に降り注いだ。
まるで、槍のように。
実際、そのうちの3本は、フラカンの影を背から貫いて、多濡奇の前方、左右4mの地面を炭化させた。
「この携帯は使用不能になる。では、健闘を祈るぞ。綿貫雫。必ず生きて帰ってこ……」
声は最後の手前で途切れた。
充電が切れたのだろう。
― なるほど、なあ。でも、まあ。プロビオさんらしい、けど……。―
危ない、とも彼女は思う。
プロビオが使用したのは衛星兵器。国際的に承認のされていない、未発表の宇宙兵器をハッキング。
携帯が衝撃を受けた時に衛星通信を開始して、位置情報に向けて、宇宙からレーザーを打つ。
その効果はてき面で、影は上空で、ぐらりとよろめいて、姿勢を保持する力を喪い、多濡奇の前方30mの家屋に墜落。
宇宙色の空に、土ぼこりがあがる。
今がチャンスだ、と多濡奇は駆けだす。
帽子が後方に吹き飛ぶが、気にしない。もっと速く駆ける必要がある。
獣は家屋にはまった。壁を崩すべく暴れている。
その隙をつくのだ。
と、勇んで果敢に跳躍、半壊した壁の上に立った彼女は、その目を疑った。
フラカンの肉体が、タールのように溶解している。
歌が届いたのか? ちがう。こんな風に変える歌は、ない。
多濡奇がそう思った時。
どす黒い粘液の海から、何かが身を起こし、彼女と視線を交差させた。
白目が大部分の、小さな虹彩。虹彩に渦巻く、暴風。嵐の神。フラカン。
次の刹那、多濡奇の肉体は宙を舞っていた。
フラカンの毛むくじゃらの腕は、彼女の心臓にさし込まれていた。
― ああ。そう、かあ。―
空中を吹き飛びながら、多濡奇は納得。
嵐の神は、巨体をパージした。
元のサイズになり、身軽になった彼が、こちらに跳躍。
光に向かって空中を飛んでくる魚のように、心臓を手刀で刺し貫いてきた。
それは、人魚が反応するよりも速く。
この肉体が宙を舞うほどに、強烈に。
― でも、これは、好都合、だ。わたしは……。―
歌える。
心臓を貫いてきた腕を、多濡奇は両腕でつかんだ。
それは逃げられないように。
そうして、口を大きく開いた、刹那。
腕は心臓から、たやすく引き抜かれた。多濡奇の拘束も外れる。
― けど、まだ、届く。歌が届けば、相打ちに……。―
フラカンの両手が黒い閃光を放つ。
次の瞬間には、多濡奇の両肺は黒い両腕に貫かれていた。
― それでも……。わたしは、歌う!!! ―
気道に残る気体を、喉を介して吐き出そうと。
彼女が歌おうとした、その時。
フラカンは大きく牙を開き、喉笛に噛みつき、千切った。
― ……奈、だ……。―
悪忌のはなむけが発動。多濡奇の視界が2重にぶれる。意識ははっきりとする。
問題は、もう歌えないことだ。
命も尽きる。ならば、せめてもの一撃を。
と、考える多濡奇の頭蓋を、フラカンの両手がはさむように、つつんだ。
毛むくじゃらの指は、彼女の頭頂部のすぐ上で組み合わされ、そして……。
フラカンは、腕に力を込める。
空中で、彼は祈るような姿勢を取る。
フラカンの両手の中におさまっていた、多濡奇の頭部は……。
1mm以下に押し潰され、首から上は喪われた。
それが、人魚の末裔である女性、多濡奇の最期だった。




