小悪魔
僕は後悔した。
振り返るべきではなかった。
正確に言うと、振り返る事を必要とする状況を作るべきではなかったのだ。
そう、バーテンダーに会釈だけして、立ち去れば良かったし、そうするべきだった。
でも、もう遅い。
先輩は『お前に任せた』と言った。
僕は任されてしまった。
18の瞳が潤んで、異様に輝いている。
魅了と言っても良いのかもしれない。
彼女たちの視線は酷く熱い。
深刻な誤解をはらんだ視線だ。
何だろう。
逃げ出したい。
けれど、彼女たちの処遇を、任してくれたのは先輩だ。
期待に答えないと……!
僕の脳は高速で考えを巡らせる。
まず彼女たちは、疲弊している。
髪はまとまりなく乱れ、頬は血を失い、額も青ざめている。
輝いているのは瞳だけだ。
その目も、さんざん流した涙で真っ赤だ。
濃いメイクも涙と汗でぐちゃぐちゃになって、ピカソのゲルニカを連想させる。
ピカソは戦争の惨劇に憤って、あの名作を描いた。
彼女たちは今夜の惨劇を通して、化粧がゲルニカになった。
まあ、無理も無い。
僕に向かって立ちすくんでいる、この女たちはスペイン語で言う、ピュータなのだ。
ピュータとは、いわゆる娼婦で、普段は怪しげな館でポールダンスをしたり、路上に立ちながら、客を探す人々である。
なじみの客とは酒場にも行くだろうし、団体でお呼ばれもするだろう。今晩の赤の酒場が良い例だ。
彼女たちは麻薬売買組織の慰安目的に、ここに連れ込まれた。
ピュータを利用する人種は2つに分かれる。
とても臆病か、獰猛か、だ。
もちろん、売買人たちは後者。
普段の彼女たちは、そういう獰猛な人種を相手に商売をしている。だから、酒も麻薬もやる。悪い意味で、肝も据わっている。
けれど、今夜は違った。
目の前で繰り広げられた謎の殺戮。
繰り広げたのは、東洋人の少女だ。
彼女は付き人の男に指示を出し、自分たちに死体運びをさせた。
この20代の男は彼女たちと共に死体を運び、水を配った。
奇蹟のように傷を癒し、絶望に放心する彼女たちを励まし続ける。
その視線は心を熱くし、いわゆるストックホルム……。
僕はぞっとして、思考を中断しかけた。
けど、無理やり続ける。
とにかく、彼女たちは、ストックホルム症候群の兆候を出している。
このモンデュイックの監禁者である僕を信頼し、擬似的な愛情を抱いてしまった。
つまり、惚れられてしまったのだ。
一方の僕はというと、この視線は辛い。
因果のために愛着は抱いてしまっている。
けれどもう僕とは関わって欲しくない。
危険だからだ。
それに、僕が好きなのは芝崎コウで、顔がゲルニカな白人女ではない。
彼女たちには今夜のことは口外しないで欲しい。
もちろん、僕を探すなんてもっての他だ。
ここまで整理して、ようやく、僕はやるべき事にたどり着く。
「もう、大丈夫です。悪魔は去りました」
微笑みながら、9人の女たち1人1人に、視線を合わせた。
彼女たちの頬は、赤くなる。
ここで色々考えてはいけない。
大切なのは堂々とすること。
相手に考える余地を与えてはいけない。
「あの少女は、主に敵対する者、悪魔なのです。正確には、悪魔が憑いています」
どよめきが起こる。
6人が口元を両手で多い、3人が十字を切った。
僕は両手を指揮者のように開いて、静かにしてもらう。
「僕は教皇庁職員の悪魔祓でした。が、彼女に憑く悪魔の罠にはまり、今は奴隷の身分です。教皇庁の籍も抹消されています」
嘆息が女たちの口から漏れる。
僕はため息を堪えた。
馬鹿馬鹿し過ぎる。
とにかくポーカーフェイスを気取りながら、もう一度苦しげに微笑む。
「あってはならないことです。ですから、これは僕の受けるべき罰なのでしょう。ちなみに悪魔が僕を見込んだのは、僕が治癒の天使の守護を受ける者だからです」
店主を向く。
「花台の銃を頂けますか」
バーテンダーは、承諾した。
僕は受け取ったスター32口径の安全装置を外した。
そのまま重々しい仕草で、銃口を喉元に当てる。
瞼を落とし、引き金を引く。
熱い衝撃と共に、銃と床を見下ろす視界が2重に揺れた。
この視界に、悲鳴と銃声が重なったが、感覚的には区別がつかない。
衝撃が強すぎるのだ。
僕は後方によろめく。
が、銃弾は貫通した。
その際に喉の肉は抉られ、頸椎一帯は破壊されたが、もちろん問題は無い。
瞬時に、神経、頚椎、気管、食道、それらを覆う筋肉、そして皮膚が再生する。
傷跡すら残らない。
文字通り、元通りに、僕は回復した。
店主に銃を返し、18の瞳に向き直る。
「……これが、治癒の天使の守護を受ける証拠です。皆さんを癒したのも、天使の力です。悪魔の奴隷という身に堕ちましたが、天使の守護は僕を去りません。それはおそらく……」
そこで、僕は下唇を噛み、俯いて、続ける。
「……おそらく、主の御意志なのでしょう。悪魔に虐げられる人々を、可能な限り救うように、という、主の御意志なのでしょう」
何というか。本当に馬鹿馬鹿しい話だ。
突っ込みどころがありすぎて、こんな話を先輩に聴かれたら、僕は立ち直れない。
けど、そんな感情は顔に出さない。
そう、これは赤の酒場で打つ一芝居、真っ赤な嘘なのだ。
幸い、女たちの目には、憐れみの光が宿る。
シンデレラという童話を思い出した。
この童話には、女性の抱く妄想が集約されているらしい。
灰を被って働く不幸な女性が、幸運を得て玉の輿になる。
そういう、ヒロイン願望的な妄想。
で、この酒場の彼女たちは、まるでマリア様である。
聖女にでもなったかのように、憐れみに満ちた瞳で僕をじっと見つめる。
僕は、瞳に確信を込めて、彼女たち1人1人を見つめ返す。
嘘に必要なのは、確信だからだ。
「今夜の貴女方は、悪魔の被害者です。ですから、僕は貴女方1人1人に治癒の祝福を施しました。ご迷惑をおかけしたお詫びでもあります。もう、肝臓病、麻薬症状、アルコール依存症、腰痛、性的感染症、その他ありとあらゆる病魔は、取り去られています」
どよめきが、波紋のように広がった。
全員、自分の手や、胸を見ている。
まあ、これは嘘ではない。僕の因果はオートマティックだし、全部治してしまう力なのだ。
「治癒の天使によって、貴女方は、生まれ変わったのです」
「天使様」
1人の女が僕に呼びかけた。
まずい、また潤んでいる。感情が変な方向に昂ぶっているのだ。
僕はできるだけ、威厳を保った面持ちで、応える。
「はい」
「天使様のお力になりたいのです。私はどうしたらよいのでしょうか?」
僕はこの質問に、微笑みと否定をもって応えた。
「必要ありません。貴女方を救うことが、僕の救済なのです。強いて言えば……忘れて下さい。今晩の事は忘れて、誰にも口外しないように。そうすれば、悪魔の力は貴女方に及ばないでしょう」
ここが大切である。
僕はたたみ掛ける。
「逆に、口外した瞬間、悪魔はかぎつけます。それは、先ほどの店主さんとの会話のとおりです。できれば、ですが、このバルセロナから、去り、別の街でやり直された方が、いいでしょう。あの悪魔は、別の悪魔と戦うために、ここに来たのです。つまり、この街で、こういう事がいくらでも、繰り返されるのです」
女たちの表情が変わった。
先ほどまでの絶望が甦りかけている。
これは望ましいことだ。脅しに怖がって貰えないと、脅している意味が無い。
僕は出来るだけ優しく微笑んだ。
「今晩、貴女方は生き延びました。治癒の祝福も受けました。それが大切なのです。後、大切なのは、警察に訊かれたら、僕たちの事を話さないことです。男たちが自然に苦しんで、暴れて、止めようとしても聞かず、山のように重なりながら、死んだ。こう話して下さい。こういった事は、実はたびたび起きているのです。とにかく、警察が来るまで動かない事です。そして、聴取が終わったら、速やかにこの街を出ること。そして何より、その後の生を、幸福に生きること。それが、僕の望みです」
最後の方は嘘ではない。
この殺戮場を生き延びたのだ。
出来るだけ幸福に生きて欲しい。
この街には十三聖教会や、羽根のヒトがいる。
どういう戦闘があるか分からない。
そして彼女たちは、僕ら村人と関わってしまった。
バルセロナにい続けることは、恐ろしく危険なのだ。
女たちの気配に、さざ波が立った。
その波はうねりを帯び、彼女たちの胸の奥深く、魂とも言える場所を揺るがす。
そう、魂に響く感動。
うん、良かった。
天使だとか悪魔だとか、大嘘をついた甲斐がある。
僕はもう一度微笑んで、頷く。
それから、店主を向き、彼女たちをよろしくお願いします、と言うと、了承してくれた。
良かった。
「主の恵みがあらんことを」
と言って、ドアに踵を返す。
そのまま階段を降りて、外に出ると、夜は白んでいた。
街全体が、光に向って浮上しかけている、そんな錯覚。
細い路地を囲む石造りの建物たちは、夜の闇から、色彩を取り戻しつつある。
そんな、光の予感に満ちた、ボルン地区の景色の中で……。
先輩は大笑いしていた。
ブラックコートの腹部を両手で押さえて、目じりに涙の珠を浮かべている。
黒い前髪は風を受けるように、左右に分かれて、ふわふわしている。
長い横髪が束で揺れて、形の良い耳が現れた。
耳から、線が1本伸びて、コートの襟元につながっている。
線?
いや、これは、つまり、イヤホンだ。
僕は唖然とした。
朝のバルセロナは冷える。
肺に冷気が入ってきた。
いや、もっと違うものが、僕の背筋を冷やす。
先輩が僕に気づいた。
美しい顔を上げ、あどけなく、目じりの涙をぬぐう。
口元は笑いながら、奥歯を噛んで、とにかく耐えている。
「よお、治癒の天使。中々立派な演説だったな」
彼女の声はとても優しかった。
そう、優しかった。
でも、瞳には悪戯の光が宿っている。
小悪魔みたいだ。
僕の頬から、血の気が引く。
「……聴いてたんですか?」
「ああ。悪いな。盗聴器の性能を試したかったんだ。いい機会だった。いや、そ、れにしても」
彼女はそこで1度言葉を切って、吹き出した。
「ふ、く、は、あははは、お前が天使さまとは傑作だぜ……く、くるしい、は、はははは」
先輩は爆笑を再開した。
僕の頬は熱くなる。
ミゲルは煙草を指先につまんで、僕に目を合わせないように、宇宙色の空を見上げている。
僕は叫びたくなった。
恥ずかしくて。
もう、恥ずかしくて。
僕は不死身だけど、……死にたい。




