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赤の酒場

 そのバルは奥まった作りをしていた。

 店内は薄暗い。

 向かって右にカウンターがある。

 ウォールナット材を加工して作られた、重厚なデザイン。

 端々にはレリーフがさり気なく刻まれている。

 磨かれた天板に浮かぶ木目は、緩やかな曲線となって密集している。

 カウンターの内側の三段棚には、100種類以上の酒瓶。


 スペインでは代表的なシェリーもあれば、カバというやはりスペインっ子御用達のワインもある。

 他にもざっと名前をあげるだけで、フィノ、マンサニーリャ、パロ・コルタド、アモンティリャード、オロロソ、クリーム、ミディアム、モスカテル、ペドロヒメネスに、マラガワイン、イタリアのマルサラ酒、ポルトガルのポートワイン、マディラワインなど多くのフォーティーファイドワイン……。

 あげ連ねると、きりがない。

 麻薬組織の荒くれどもが集うバルに、激甘の酒というのは少しシュールだが、連れ込んでいる女たちにでも飲ませるのだろう。


 棚の液体たちは、黒光りするボトルたちの中で沈黙している。

 それらは発酵や蒸留の過程を経て、バッカスの祝福を受けるに至り、ヒトの内唇を滑り、舌の裏で転がって、喉をくぐり胃に至るのを待っている。

 スポットライトたちは白く輝いて、酒瓶たちに存在と煌めきを与えている。


 白熱するライトたちに、僕は深海の生き物を連想した。

 ライトを支える線は天井から生えている。

 天井はアーチ型を描く木板の印象が柔らかく、薄く闇を帯びている。

 南仏のワイン藏を、僕は思い出した。

 あそこも、こんな柔らかい空気を帯びていた。

 とてもひんやりとしていて、誰かが目覚めを待っている、そんな予感に満ちた場所だった。


 この、『赤の酒場』はあそこほど涼しくはない。

 むしろ暖かい。

 暗く暖かい場所。

 木製バーカウンター、その前に並ぶアンティーク調の丸椅子たち、カウンターの向かいの壁に並ぶラウンド型カフェテーブルたち、全てが暖かさを醸している。

 それを醸すのは、天井の白いスポットライトだったり、空間を満たす薄闇だったり、椅子やテーブル、カウンター自体の茶色い上質感だったりする。

 椅子のデザインに僕は覚えがある。

 漫画を描いていると、資料集めのために色々な物に触れる。例えばカタログ。

 ここの椅子は、あのカタログに出てきたものとそっくりだ。

 あれを出していた会社は、バロッサバレンティ。高級家具メーカーだ。

 

 麻薬売買組織の構成員が集う場所といえば、もっと荒っぽい作りの場所を想像していたのだけれど、蓋を開けてみたら全然違った。

 空間を満たしているのは、暖かい暗闇と耳にうるさくないジャズだった。

 フラメンコの歌唱でもなく、かき鳴らされるマンドリンでもなかった。

 こういう空間は、銀座なり赤坂なりの会員制バーや、ニューヨーク、ロンドンの紳士気取りの金持ちたちが好むものだ。これは意外な事である。


 でも、想定内というか、やっぱりと思ったのは、このバルにたむろする客たちだった。

 25人の男女。内15人が男だ。奥を含めたら、もっといるかもしれない。

 男たちは、曇ったグラスにシェリーを注いだり、スペインワインのカバの黒瓶をラッパ飲みしたりしている。

 または、テーブルを小皿で埋めて、順につまんで口に運んだりしていた。

 小皿に盛られているのは、サラミ、生ハム、チーズ、オリーブ、イカリング、魚のフライ、小エビ、エスカルゴなど、いわゆるタパスというものだ。

 またはミニトマトや半分にカットした卵を串に刺したものを、横に(くわ)えて、針子みたいに串をぬいて、床に投げたりしている。

 女達を膝の上にのせて、熱く唇を交わしたりもしている者たちもいる。

 男と絡み合う女たちの髪は長い。

 彼女たちはぴっちりしたスキニージーンズに、ロングブーツを履いて、上着は胸がはだけている。何人かの男たちは、その谷間に顔を埋めていた。

 

 男たちはみんな、やっている事はそれぞれ違うけれど、指は太く毛深い。

 精悍な上体を覆う衣服は様々だけど、示し合わせたかのように、全員黒革のスラックスを履いている。

 そして、顎が勝気にせり出して、唇が分厚い者が多い。

 照明に浮きぼられた鼻は白人らしく、眼の窪みの奥の瞳は濁っている。


 まあ、こんな所かな。

 僕はできるだけ詳しく、その赤の酒場を記憶に留めようとしていた。

 あ、1つ忘れていた。

 大理石の花台が、カウンター横にあったのだ。

 台には熱帯原産の原色の花が、赤く生けられていた。

 

 僕はそのラッパみたいな花弁に視線を落としながら、赤の酒場だからなと思ったりする。

 

 ちなみに店内に入る前に、エントランス前で僕らは警備の男とごくささやかな会話を交わした。

 彼は死んでいる。

 殺したのは、もちろん先輩だ。

 先輩は彼に「bona(ボナ)ni」(こんばんは)と言った。

 bona・ni は、カタルーニャ語で、おやすみなさい、という意味もあるので、もしかしたらそちらかも知れない。

 

 つい先程、花柄のレリーフが施された扉を、まず先輩が開いた。

 僕が続く。

 最後にミゲル。


 カウンターの奥でグラスを磨いていたやせ型の老人、バーテンダーがこちらを見た。

 後ろに束ねた銀髪が揺れ、左の眉が怪訝に上がる。

 僕はとても小さく、先輩は震えてるけど普通の声で、こんばんわ、と言ったが、バーテンダー以外には、こちらを気にする者はいなかった。


 僕は両手を頭の後ろに組んでいた。

 先輩は両手のひらを開いて、ブラックコートの肩まで上げている。

 ミゲルは左右それぞれに拳銃を握っていた。

 銃は2つとも、ボニファシオ・エチェベリア社のスター32口径。

 軍用銃だ。

 銃口は、左が僕の後頭部、右が先輩のうなじに、それぞれ突きつけられている。

 

 

 バーテンダーは

「こんばんわ」

 と言ってから、僕の肩の奥のミゲルに首を傾げた。

 

 この反応は自然だ。

 このバルの作りからして、ここは接待用なのだ。

 それこそ街のタバコ屋でコカインに手を出したい若造などではなく、ちゃんとした大口の取引主を接待する場所なのだろう。

 通常時はこんな感じで、組織(ファミリー)の憩いの場として使われている。


 ミゲルは返事をしない。

 カウンター前の3人が、バーテンダーの様子から、こちらに気づいた。

 怪訝な視線が刺さる。

 恐怖ではない。タパスの白い小皿に、虫が這っているのを見つけた、そんなどうという事のない、不快。

 カウンター端の一人が立ち上がった。


「ミゲル、何だ? そいつら」

「敵だ」

 男の問いに、ミゲルは静かに答える。


「たす…け……て…」

 先輩が、随分とたどたどしいカタルーニャ語だ。

 その声は哀願を帯びている。

 ちょっと可哀想になるくらいだ。


 男はつかつかと、僕らの方に歩いてきた。

 それから、志骸先輩にしゃがみ込み、柔らかな黒髪を撫でる。

 僕は不快を覚えた。

 その指が、サラミの脂で汚れていたからだ。

 それに、馴れ馴れしい。

 

 男は先輩の黒髪を小さくつまんで、いじりながらミゲルを見上げる。

「ここに来ることはねえだろうが。色々するにしてもよお、倉庫使えよ」 

「……」

 ミゲルは返事をしない。

 

「準備が整ったぞ、ミゲル、やれ」


 先輩が声を発した。

 その声は笑いを含んでいた。

 酷く残酷な笑いだ。


 白人は左の銃を僕の頭部に発砲。

 狐は後ろ手に腕をクロスさせて防ぐ。

 上腕骨に衝撃、砕けるが気にしない。

 そんなものはすぐに回復するのだ。


 それよりも―。


 ミゲルの発砲と共に、まず、先輩にしゃがんでいた男が倒れた。

 バル中の視線が僕らに集まる。


 手前の男たちは立ち上がっていた。

 ミゲルが男を撃ったと思ったのだ。


 彼らは銃を、ナイフを、腰から、胸元から、取り出そうとする。

 すべからく重心は下に移動。

 それから皆、のけ反り崩れ始める。


 先輩はバルの奥に向かって歩き始めた。


 男たちは手前から奥へ、順番にバタバタと、崩れていく。

 いくつもの椅子が倒れ、皿たちは、卒倒のあおりを食らって割れる。

 女たちは叫ぶ。

 ジャズは流れ続ける。


 男たちの卒倒、その連なりはドミノ倒しと言えば分かりやすいだろうか。

 水面に広がる波紋とも言えるかもしれない。

 震源は先輩だ。

 

 それはさざ波が拡がるようだった。

 先輩が軽やかな一歩を踏み出す度に、闇のような黒髪は揺れる。

 死は広がり、男たちは仰向けに倒れる。女も1人、倒れた。

 みんな白目をむいている。

 3人は耳から血の筋を垂らし、5人は目尻から落涙していた。

 涙は鮮やかな赤だ。赤の酒場。

 

 すでに先輩は手を下ろして、ブラックコートのポケットに両手を突っ込んでいるが、足は止めない。

 気負いなく店内を奥に進む。

 奥に男たちは8人いた。

 全員、口を半ば開き、大きく目を見開いている。

 驚愕と恐怖。

 とても信じられない事が起きた時、人はこういう瞳をする。

 そして、くぐもった声を出すのだ。


 彼らは先輩と倒れた男たちを交互に見ている。


 視線を集めている彼女はどういう顔をしているのだろう。

 分からない。


 彼女は彼らの3歩手前で立ち止まった。

 白色のスポットライトが、ちょうど彼女の真上にあって、先輩の佇まいを輝かせていた。

彼女は、

「bona・ni」

 と言った。

 その声は、とても静かでおだやかだったので、おやすみなさい、という意味だったのかもしれない。

 

 やはり波紋が広がるように、男たちは倒れた。

 一番奥の一人が、拳銃を構えていたが、撃つことはできなかった。

 銃は、光に呑まれたからだ。


 男は、

「悪魔」

 と呟いてから白目を剥いて、串だらけの床に崩れた。

 

 結局生れた光球はこれだけだった。

 それ以外の爆弾は全部、犠牲者たちの耳や鼻の奥に潜り込み、炸裂したのだ。

 彼女はこれをするために、助けて、と言って時間を稼いだ。

 その間に爆弾を敵に埋め込む作業を完了させた。

 後は起爆させながら、奥まで歩いた。

 それは派手なやり方ではないが、彼女はそういうほふり方をする。

 それが一番綺麗で、しかも確実だからだ。

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