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元スパイ

 ミゲル・ランゲルの過去を語るには、ちょっとした予備知識が必要だ。

 

 彼が少年の時代に世界を支配していたのは、2つの正義だった。

 この正義は思想や主義と言い換えても良い。

 

 1つは、自由、競争、伝統に根ざす資本主義。

 この正義を代表していたのは、アメリカ合衆国という化け物じみた国だ。

 もう1つは平等、共有、変革に立脚する共産主義。

 こちらを体現していたのは、ソビエト連邦共和国という、巨大な国だった。


 第二次世界大戦の後で、この2つの国は対立し、世界を盤面にした陣取りゲームを開始する。

 


 ものすごくざっくり言うと、資本主義は金持ちの味方で貧乏人の敵。

 共産主義はその逆だ。貧乏人のヒーローで金持ちの天敵。

 当たり前だけど、世界は金持ちより貧乏人が多い。

 金持ちの国など一握りだ。


 ミゲル・ランゲルは南アメリカ大陸南部のとある国で生まれた。

 他の国と同じく、貧乏人が多いこの国は、西と南にチリ、北にボリビア・パラグアイ、北東にブラジル・ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。

 ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きい。

 この国は、スペインの植民地だったこともあって、宗教はカソリック。ミゲルも赤子の時に洗礼を受けた。

 彼の家はスペインの血が濃く、代々地主の家系で、父は医師をしていた。

 温厚な人だったらしい。

 ちなみに、祖父は、ヘミングウェイの『老人と海』に出てきそうな厳格な男だったらしい。


「俺は親父にも爺さんにも似てなかった」


 と、ミゲルは自嘲気味に言ったが、拷問に耐え切るあたり、お爺さんの遺伝子が強いのではないかと思う。

 彼の父は温厚なだけではなく、人格者で、小作人にも気前が良かったし、何より小作人なら診療の見返りは無しでいい、というある意味能天気な人物だった。

 もし、この国が平和なら、とても幸せな人生を送ることができたのではないか、とミゲルは思っている。僕もこれには異論が無い。


 だけど世の中そう上手くはいかない。

 ミゲルの一家が地主をしていた州は、山岳部で、とても貧しい。

 獲れるのはトマトとジャガイモくらいだ。

 港から離れているため、交易などの恩恵も受けにくい。

 つまり、貧しい地域なのである。

 で、冒頭を思い出して欲しい。

 

 当時の貧乏人に大人気だったのは、共産主義だ。

 

 この共産主義の炎は、ミゲルの国にも延焼した。

 まず着火したのは彼の州だ。

 

 それは彼の隣町から始まった。

 隣といっても50kmはある。

 とても広い国なわりに、人口は日本の半分以下だから、そこまで密集はしていない。

 けれど、ヒトの残酷さは変わらないのだ。


 隣町が武装ゲリラに制圧されたとの(しら)せを受けた時、祖父はこう言った。

『代々の土地を離れることなどできるか。あいつら、めちゃくちゃにするんだぞ?』

 

 一方、父はこう言った。

『病気の小作人たちを見捨てて逃げることなどできない。彼らは私の治療を必要としているんだ』


 まあ僕からすれば、どっちもどっちだ。

 信念も強い意志も尊敬できるけれど、愚かしい。

 

 彼らはゲリラと戦うことを決め、実際戦って、一家まるごと殺された。

 見物だった、とミゲルが言っていたのは、小作人たちの手のひら返しだ。

 彼らは率先してゲリラを招きいれ、ミゲルの一家を焼き討ちした。炎の中で祖父は死に、からくも逃れた父はゲリラに捕らえられたが、小作人たちは、助命を嘆願しない。

 何故かは分からないけれど、どこの国も、長いものには巻かれるものだ。だから、僕は彼らを責める気にはなれないし、ミゲルも恨んではいない。


 けれど分かったそうだ。

 これがこういう絶望的に情が無いのが、ヒトだと。

 祖父や父が変わり者で、自分はこの無数の醜いヒトの中で生きていくのだと。

 

 ミゲルは焼き討ちを逃れ、遠くから高台で首吊り処刑される父の姿を眺めた。

 この時彼は、キリストの処刑を思い出して、決めたそうだ。


 こういう事をする奴らを、全員まとめて殺してやる、と。


 大志を抱きながらミゲルは孤児となった。

 親族はゲリラに全員殺されていた。

 だからまず、乞食をしながら首都に向って歩く。

 途中に馬を盗んだが、罪悪感は無かった。

 そういうキリスト教的な道徳は、実家の焼き討ちと、父の処刑で喪われていた。


 馬の乗り方は祖父が、世話の仕方は父が教えてくれていたので、道中の苦労はそこまででもなかった。

 けれど、足の裏の皮がめくれながら歩いていた時の方が、辛くなかったそうだ。


「やっぱりガキだったんだな。独りってのは楽になるとコタえる」

 

 と、ミゲルは笑いながら言った。

 恥じがこもった笑いだ。荒事を前に打ち解けようとしているのだろうか。


 彼は首都に到着し、馬から下りて、カソリック系の孤児院の門扉を叩いた。

 カソリックは保守である。

 そこで保護を受け、勉学に専念し、やがて大学に進んだ。


 ゲリラたちはというと、彼の故郷の州の3分の1を勢力化に収めるも、結局政府の反撃を受けて、州を放棄。

 国の全土に散らばって、民衆に蜂起を呼びかけつつ、恒常的な内戦という形を採ることとなった。


 いわゆる泥沼化である。


 このゲリラたちを、ミゲルの国は弾圧した。

 およそあまり関係がない人たちも巻き込んで、おおっぴらにやりすぎた。

 今でもこの弾圧は、『国家テロ』と言われているくらいだ。


 詳しく言うと、1976年から1983年にかけてこの国を統治した軍事政権は、労働組合員、政治活動家、学生、ジャーナリストなどを逮捕、監禁、拷問した。

 

 結果、3万人が死亡または行方不明となる。


 ちなみに、このうち3000人の死亡は、ミゲルの手引きによるものだ。

 彼はマルクスを信望する学生組合に入っていた。

 マルクスは、共産主義という宗教の教祖である。


 ほぼ時を同じくして、軍にも自分を売り込んでいた。

 彼は、怪訝な目で自分を眺める軍人たちを前にして、堂々と、一世一代の演説を打った。

 その要旨は、家族が共産主義に殺されたから、あいつらをまとめて殺したい、という。


 まあ、簡単に言うと、左派ゲリラに恨みがあるから、スパイにしてくれと頼み込んだわけだ。

 ああそうですか、よろしくお願いします、という返事を貰う前に、色々な調査が行われた。


 孤児院での彼の生活態度。

 知能指数。

 そして素性。


 どれも申し分ない。(彼は馬を盗んだ事は黙っていた。いわく、時効、である)


 そういう訳で、彼は軍事政権のスパイになり、多くの若者を処刑台に送った。

 もちろん、左派ゲリラの活動にもいそしむ。

 軍相手に銃も撃ったし、ゲリラ仲間を引き連れて金持ちも襲った。

 そういう活動の結果、彼は組織の内奥に接近していく。


 そして知ることになる。

 

 軍を支援していたのは、当時の超大国、アメリカ合衆国と、カソリックだ。

 ゲリラを支援していた大元はソビエト連邦共和国。

 人的支援はキューバ。でも、資金ルートはスペインだった。


 彼はスペインへの渡航を決意する。

 いくらゲリラを処刑台に送っても、大元を断たねば何も変わらないし、終わらないからだ。

 

 こう考える彼は理性的だし、復讐を娯楽化しない分、実は温厚なのかもしれない。


 ミゲルはスペインに飛ぶにあたり、軍に複数の身分証を準備してもらった。

 同時にゲリラ組織からも、資金ルートの開拓という任務を受ける。


 この頃、彼は大学を卒業して、事業を興していたので、貿易商としてスペインに渡り、

 ゲリラの資金源である組織のトップと接触する。

 そして、速やかに、かつ密かに殺害した。

 

 

 ところがここで、運命は2度目の荒波を彼に寄越した。

 軍事政権が倒れたのだ。

 彼はスパイとしての職と、後ろ盾を喪う。

 

 母国の左派組織からの通信も途絶えた。

 軍政権が倒れたため、軍との戦いは、内輪での利権争いに変質したらしい。これもよくある話だ。


 結局、どちらの組織からも放り出されて、宙ぶらりんとなった。

 仕方ないので、彼は軍から貰った身分証を使って、ゲリラと関係のない普通の貿易商となり、スペインに帰化をする。

 

 皮肉にも商売は上手くいき、事業は拡大した。

 商売は母国から遠のき、シチリアからオリーブと小麦粉を輸入することが柱となった。

 社員を何人も雇う。

 4ヶ国語を話せる美人の秘書と結婚もして、娘も設けた。


 この時期が彼の黄金期だったのだろう。

 この話をするとき、ミゲルは照れたように笑いながら、

「恥ずかしい位、幸せだったよ」

 と言った。


 そして没落は唐突に始まる。

 ある夜、4歳になった娘を寝かしつけた後で、ミゲルは晩酌をしながら、テレビをつけた。

 妻は後ろのキッチンでつまみの蛸をスライスしていた。


 テレビではニュースが流れていて、母国の芸術家の訃報を伝えていた。

 この芸術家は学生左派組織の指導者である。

 隠語で『コンドル』と呼ばれていた。

 だから彼は呟いてしまった。


「コンドルも逝った、か」


 何でもない呟きなはずだった。

 問題は、妻がそれを聴いていて、しかもその意味を理解していたことだ。


 つまり彼女もゲリラで、工作員だった。


 ここから先は妻の英雄譚になる。

 妻は夫に秘密で、彼の素性を調べ上げ、わずかな痕跡を元に、ミゲルが2重スパイだったことを突き止めた。

 しかも優秀かつ最悪なことに、夫の学生時代の所業も知ってしまう。


 妻がゲリラになったきっかけは、彼女の兄が軍に連行され、殺されたからだった。

 それは復讐である。

 そして兄はこの時大学生で、しかも、ミゲルと同じグループで活動していた。つまり、夫が軍に、兄の連行を手引きしたのだ。


 妻は夫を許さなかった。

 夫の腹心を誘惑し、味方につけて、ミゲルを監禁した。

 

 殺しはしない。

 代わりに麻薬を打った。

 中毒患者として一生を生きろ、ということだ。


 腹心は腹心で実はシチリアのマフィア関係だった。

 ミゲルの貿易会社の乗っ取りを画策していたのだ。

 

 彼は社長の奥方を寝取り、会社も乗っ取り、麻薬売買組織に変貌させた。

 翌年、妻は自殺した。

 この理由はミゲルには分からない。

 

 ミゲルは3年間、倉庫で監禁された。

 この倉庫は現在組織も麻薬取引場として使われている。


 解放されたミゲルは、元の腹心と対面。

 腹心は笑顔で、元雇い主に語りかけた。

「娘さんは僕が面倒をみています。意味が分かりますね」


 結局、ミゲルは彼に飼い殺される形となった。

 腹心いわく、それが遺言だったそうだ。

 

 それは、ミゲルの元妻の……。

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