酒と涙と男と女
僕たちはミゲルのアパートを出て、東に赴く。
嵐が過ぎたバルセロナの夜空は澄んでいる。
硝煙を吸い込み続けた肺には、この新鮮さはありがたい。
潮風はまだ強かったけれど、嵐が大気から汚れを取り合っていたせいか、路地の闇もなまめかしく思える。
これで満月とススキと稲荷ずしがあれば、本当に散歩風情を味わえるのだけど、もちろん、そんな呑気な事は言えない。
空の紺は濃い。
闇を宿した雲が、千切れるように西に流れている。
その隙間からは時折、下弦の月や星々がのぞく。
星々は小さいけれど、その輝きは確固としたものだ。
この街の人々の生のようなものだ。
彼らは、とても弱いけれど、力強く生きている。
僕らが向かう先の彼らも、麻薬の売買という悪事に手を染めながらも、懸命に生きている人々なのだ。
現場で戦闘するのは志骸先輩だし、僕は見守るだけだけど、気を付けなければいけない。
同情という禁物。
だから、今のうちにたくさん同情しておこうと思う。
大学生たちと麻薬組織を天秤にかけて、組織を生贄の羊に選んだのは、紛れもない僕だからだ。
灯りの消えたランブラス通りに差し掛かる。
先ほどまでの嵐も影響しているのだろうか? 昼間の賑わいが嘘のようだ。
そのまま突っ切り、カテドラルの大聖堂前に至る。
昼は絢爛にまみれたこのカソリックの大聖堂も、さすがに午前の1時付近ともなると、鬱蒼とした闇を帯びる。
幾つもの尖塔が星空に伸びていて、僕はその形状に微かな不満を覚えた。
呑気過ぎるのだ。
何故この建物は、僕らや、十三聖教会のような『災害』を防がないのか。
この地に侵入を許すのか?
教会の坊さんたちだけが、救いを求めればそれでいいのか?
もちろん、こんな不満は八つ当たりに過ぎない。
教会は教会で、波乱万丈なバルセロナの歴史に寄り添ってきたのだ。
このバルセロナだって、昔は1つの独立した王国だった。
それがフランス・スペイン連合軍に滅ぼされたり、イスラムの土地になったりしたのだ。
モンデュイックの丘では万国博覧会が開かれ、それから100年しないうちに、拷問の場になったりした。
内戦と独裁。
色々な歴史を、このカテドラルは見てきた。
どういう時代も、この教会はこの街に在り続けてきたのだ。
そしてどんな夜も、空の雲間に、星空にその先を伸ばしてきた。
この地で倒れた罪の無い魂たちは、この尖塔から浄土に送り出されるのだろうか。
そうだったら嬉しい。
それに、これから僕らが襲う人たちも、お世辞にも罪の無い魂とは言えないけれど、できれば天国に召されて欲しい。
拝金主義だなんだと叩かれながら、西洋世界の精神的支柱として君臨してきたカソリックなのだ。
信心深い国の麻薬組織くらい、大目に見て、くれぐれも地獄などには落とさないでほしい。
と、僕がこんなことをつらつらと思っっている間に、先輩はミゲルと並んで歩きながら、話を詰めていく。
「逆十字野郎は、十三聖教会っていうカルト組織の信者だ」
「敬虔なんだな」
「ああ。迷惑だぜ。昔な、オレらの組織が一度ぶっ潰したんだが、しぶとく生きてやがった」
「涙ぐましいな」
「オレらがか? あいつらがか?」
先輩は白人を見上げた。
ミゲルは視線を返さない。
「どちらもだ。潰し潰されるってのは、哀愁しかない。で、あんたらの目的はカルトの撲滅か? 随分とあんた達らしくないな」
「おいおい。オレらの印象がよお、随分と偏ってんなあ。まあ、撲滅はするさ。それは別の奴の仕事だ。オレらは……そうだなあ」
そこで一度、彼女は言葉を切って、かぶりを振る。
僕は心なしか、拳を堅く握ってしまった。
先輩の回答は、ミゲルを『どこまで使うか』を示すと思ったからだ。
「探したい奴がいる。そいつには複数の団体が関わっている」
「あんたたち、敬虔な十三聖教会、その他、か」
「まあ、そうだなあ。その他がわっかんなくてよお、難儀してんだわ」
ミゲルが先輩を見た。
「あんたでも分からないのか?」
「ま、羽根が生えてるってことくらいだな」
僕は唾を飲み込んだ。
唾は粘り気があった。
口が乾いている証拠だ。
志骸先輩は、随分と突っ込んだ物言いをしている。
情報の与えすぎは良くない。
この夜が明けたら、僕らはこの白人を解放するだろうと思っていた。
だけどその後、誰かが彼を攫ったら、そして、口を割らせたら、僕らは危険になる。
十三聖教会ならまだいい。
羽根の人なら最悪だ。
という事は、夜が明けても、僕らは彼と共にいるしかない。あるいは口封じに殺すか。
狐は彼に情を感じている。だから安全な場所で安らかに生きて欲しいのに、……これでは、彼の命を助けたとは言えない。死を延ばしただけだ。
「羽根が生えているのか。天使みたいだな」
「青い羽根だからな、天使というには無理があるが、天使ってあだ名でもオレは構わねえ。個人的には、羽根野郎と呼んでいるがな」
「つまり、こういう事か。羽根野郎の正体が知りたい。そいつも、あんたも、色っぽくて敬虔なソフィも、特定の誰かを探している。牽制し合う仲だ。で、牽制には誰がどれくらい、どうなのかの情報が必要なはずだが、あんたでも分からんってことは、相当なんだろうな」
「まあな」
「だから、ソフィがモーションかけた俺たち、組織にモーションをかける、と」
軽いステップを左右に踏んで、水たまりを避けながら、先輩は頷く。
「その通りだ。色っぽくて敬虔な野郎共を揺さぶって、動きが見たいのさ。と言っても逃げられるほど抱き着いちゃ駄目だ。尻尾がロシアの果てに逃げる。カルトの本拠地はロシアだからな。しかも、カルトの方が羽根野郎とぶつかる可能性が高い」
「なるほど。疑問が1つある」
「なんだ? 俺のスリーサイズか? レディーに訊くには手順が必要だぜ」
先輩は笑った。
潮風が吹いて彼女の黒髪を薄闇に乱した。
「組織を襲うのが、何故揺さぶりになる? 傍から見てれば済む話じゃないのか?」
「ああ。それはな。逆に訊きたいんだが、ミゲル」
「なんだ?」
「敬虔で色っぽいソフィが、本当に麻薬やると思うか?」
ミゲルは立ち止まった。
先輩は彼から先に一歩進んで、黒コートの肩越しに振り返る。
「止まるなよ。だが、気持ちは分からなくもない」
「……ああ」
ミゲルは歩き出し、先輩と並び、彼女も歩き出す。
後ろから見てると親子みたいだ。
僕らは北に進路を変える。
白人は2区画を、沈黙のまま歩いた。
「ソフィは何がしたいんだ?」
「奴隷が欲しいのさ」
喉の奥から、声を絞り出したミゲルに、先輩は軽く答えて、続ける。
「十三聖教会では、薬物は禁止されてねえ。だが、人探しに来た先で、70kgの麻薬買い込んでパーティやるほどお気楽な団体でもねえ。つまり、お目当ては麻薬じゃなくて、あれだ。人手だ」
「組織を取り込むのか。それは……」
「できるんだよ。九虚の不死身、オレの爆弾、まあそんな類と言えなくもない力が、奴らにはある。エロくて敬虔なだけじゃ、羽根野郎と渡り合うにはちと弱い。まあでも奴らの力は、お前には効かねえよ。これはオレの勘だが、こういう見立ては外さねえ」
「そうか」
「そうだ。だからお前を雇った」
「……それは光栄だな」
「ああ。誇りに思っていい。で、教えてくれ。どうして、お前みたいな奴が、麻薬の売人なんかやってる? それも組織の端の端、ちんけなトカゲの尻尾みたいな立場にいるんだ?」
先輩の問いに、ミゲルの肩は震え、それは彼の針金みたいな腕にも伝った。
「……込み入っている」
「酒と涙が必要か? オレは女でお前は男だ。身の上を聴くには条件は揃っている。まあ、オレは詮索屋でもねえし、人は人、だ。個人は個人、素晴らしいこの世界には、下らねえ話が溢れている。が、それも場合による。分かるよな、ミゲル」
「ああ。分かる。あんたがタフな奴が好きな理由が分かったよ。あんたはタフだし、タフな物事で生きているからだ。使う人間に『ほっといていいこと』なんてないんだよな」
「その通り。情報はなるべく多く持っておく必要がある。中身の問題じゃねえ。お前が重度のペド野郎でも、オレは軽蔑しねえよ」
ミゲルの気配に、笑いの波紋が広がった。
先輩の冗談に笑えるという感覚が、いまいち僕は理解できない。
けれど先輩が、冗談を言う事で、気を使っている、という事だけは分かる。
ミゲルは歩みを止めず、代わりにバルセロナの夜空を軽く見上げた。
千切れていた雲たちは、ほぼ去りかけていて、星々が白く瞬いている。
「そんな複雑な話でもないさ」
そう言って、彼は過去を語り始める。
その声は低く落ち着いたものだったが、どこか、呻きのような響きを帯びていた。
その響きは、彼の癒えぬ傷、痛みに由来する。
心の傷は狐の力の範囲外だ。
可哀想に思う。けれど、憐れむばかりなのも失礼なので、僕は彼の言葉に集中することにした。
もちろん、周囲への警戒は怠らない。
そうこうしているうちに、僕らは夜のゴシック地区を抜けて、酒場がひしめくボルン地区に足を踏み入れた。




