シャワーと食事と麻薬と女
志骸先輩はいくつかの事をミゲルに訊いた。
ソフィという女性の身元を、誰が洗い出すのか。
取引はいつどこで行われるのか。
ヘロインの入手系統。
もちろんHCの事も、とてもさりげなくに訊いた。それは何かの弾みのように。
ミゲルはこの全てに淡々と答える。
白々しいほど明るい照明が彼の眼窩に影を落とす。
疲労を滲ませる額は随分と上に進んでいる。
生え際の髪は薄いが、一本一本には黒い光沢があった。
西洋人は彫りが深い。
組織の内情を話すというのに、細長い肢体に震えはない。腹をくくったのだろう。
気配にも揺らぎはない。
潔白を訴えていた先ほどとは大違いだ。
彼の中で何がどう作用しているのか? 保身? 生の確信? 分からない。
そのそも、先輩も僕も、仲間を売る事を強要しているのだ。
変わり身のはやいヒトは、信用できない。
けれど、先輩はすっかり彼を信頼している。確かに、彼は拷問を耐えきった。
それは賞賛に値する。けれど……。
苦虫を我慢する僕の前を、小蠅たちが飛び、いくつもの緩慢な線を描く。
吐瀉物に巣食っていたのだろう。
……要約すると、ミゲルの回答は次のようなものだった。
洗い出しは複数の人間が行う。
取引は組所有の倉庫。
この倉庫はバルセロナ港に沿うように並ぶ、大型コンテナ群の一角にある。
通常ここに保管されているのは、貨物船から荷下ろしされたシチリア産小麦と、大量のオリーブオイルだ。仕入先の物産会社は、シチリアマフィアの表企業だ。
ヘロインはここの裏部門から買い付ける。
元々、組織自体がシチリアの派生だからだ。
ちなみに平時の食料品も、同じ組織から仕入れる。
HCは組織の取り扱い品には無いが、噂としては伝わっているそうだ。
いずれはバルセロナでも販売を開始するだろうが、原産国も含めて、とにかく情報が不足しているらしい。
つまり、羽根の人に付着していた麻薬とミゲル及び組織の関わりは無いということだ。
先輩は表情を変えなかったが少しがっかりしているのは分かった。僕もいささかの落胆を覚える。が、ちょっとだけほっとする。正直羽根の人につながるのは怖い。僕は不死身だけど、先輩はそこまで強くはない。いずれ喪うにしても、今は彼女を喪いたくは無いのだ。
「発注から受け取りまで、どれくらいかかる?」
「70㎏だからな、普通なら1か月10日はかかる。それでも最短最速のルートだ」
ミゲルは答え、先輩は再び顧客リストに視線を落とす。
「なるほど。あらましは分かった」
彼女がそう答えると同じ刹那、光球がリストの右角に生まれた。
それは、紙の束を覆うように、おびただしく増殖していく。
やがてリストを全て覆った。
が、光は留まり続ける。
それはサングラス越しだと、蛍の密集のように見えた。
光達は、ひとしきり蠢いてから、前触れもなく衰退し、力尽きた。
花火みたいだ。
紙の束は跡形もなく消えていた。
恐ろしく丁寧に、全てを抉られたのだ。
「本当はお前をこうする予定だった。誇りに思っていいぞ、ミゲル」
「……感謝する」
先輩の視線は手元に落ちている。
恐ろしい物言いと裏腹に、彼女の声色は静かだ。
対応するミゲルも淡々としたものだ。
ふと、疎外感を覚える。
何故、僕だけ違和感を覚えるのか。
先輩も先輩だ。
ミゲルは嘘を言っていない。腹をくくって話したんだ。
今更脅して何になるんだ?
……もちろん、こんな疑問は顔に出さないが、ため息が漏れかける。
「九虚」
「はい」
「もう一度、治してやれ。全てを整えてやれ」
「はい」
僕は言うとおりにした。
目を合わせ、彼の疲労が回復することを願う。
節々に、身体の芯に力を。
困難に立ち向かう気力を。
そして、何よりも彼の中の希望を、祈る。
ミゲルは回復した。
人生のどんな時より、体は充実を覚えているはずだ。
それが、僕という狐の因果だから。
「ミゲル」
「……あ、あ」
体の隅々にみなぎる力に、戸惑っているのだろう。
呆然とした面持ちで座り込む白人に、先輩は微笑む。
「オレたちはこれから、散歩の続きをする。お前には道案内を頼みたい」
「ああ、分かった。組織か」
「そうだ。ただし、ちゃんと、案内してもらえないと、オレたちもお前を生かした意味がない。つまりだ」
そこで彼女は一度言葉を切って、ベッドから立ち上がった。
ゆったりとした足取りで、ミゲルの元に向い、真っ直ぐに視線を合わせる。
「お前が弱弱しいとオレも不安だ。だから回復しろ。九虚の回復は定評があるが、問題は心だ。どうすればお前の気力は回復する? リラックスする? 麻薬か? 食事か? シャワーか? ああ、女は無理だ。犠牲者にする恐れがある。オレもこんな身なりだからな、相手はしてやれねえ」
麻薬、と言いかけて、ミゲルはたじろいだ。
ひどく大切なものを落としてしまった人。
財布、身分証明書、家の鍵、この場合は何でもいい。
そういう、肌身離さないはずのものが、喪われたヒトがする動揺が、彼の瞳に浮かんでいた。
「……シャワーを浴びたい。だが」
そこで白人は言葉を切って、立ち上がる。
鬼気を帯びた目で、僕を睨む。
「あんた、俺に何をした?」
「僕は君の全てを治した。それだけだ」
「俺はヤクを打たれてから、ヤクだけになった。どんな時も打ってなきゃおさまんねえ。皮膚病みたいなもんだ。けど、あんたはそれも治したってえのか……!?」
「麻薬は症状だ。君を蝕む病だ。だから治した。喘息も、糖尿のけも、胆石と尿路の石も治した。僕自身選べないんだ。これはオートマティックな力だからさ。迷惑だったかもしれないが、受け入れてくれ」
ミゲルの眉根は寄り、八の字を描いた。
目に涙が溜まっている。
こういう目を僕は嫌というほど見ている。
唐突な『救い』は本質的に、不慮の『絶望』とあまり変わらない。人は悦びではなく依存にすがって生きるからだ。
麻薬中毒者は特にこれが激しい。
頭が理屈で解放を理解しても、事実を受け入れるまでに時間がかかる。
「ま、九虚も悪気はねえんだ。大目に見てやってくれ。それに、時間も無限じゃねえ。シャワー浴びてこいよ」
先輩が繕う。
言葉は気さくだが、有無を言わせない。
もちろん、ミゲルは抵抗をしない。
長時間の拷問で、彼は叩き込まれている。
彼女が一番危険で、容赦がないということを。
……ミゲルは無言で踵を返した。
「ま、焦んねえで、楽しんでくれ。時間は無限じゃねえけどな、楽しめるくらいは、あるからな」
白人の背中に、先輩は言葉を投げた。
「感謝する」
振り返らずに、ミゲルは言う。
僕はその後ろ姿が脱衣所に消えるのを見届ける。
それから、外の様子を確認しようと思い、カーテンに歩きかけると、コートの袖をつかまれた。
掴んだのはもちろん、志骸先輩の幼い指だ。
「九虚」
「はい?」
「オレにしゃがめ」
「はい」
僕は先輩の前に、片膝をついた。
しゃがむのは、何となく失礼だと思ったからだ。
先輩と視線が合う。
柔らかい黒髪。
滑らかな曲面を成す額。
完全な弓を描く、穏やかな眉。
整っているけれど、まだあどけない鼻と、その下の柔らかい唇。
その全ては美しい。
けれど何より印象的なのは、その瞳だ。
夜の闇のように黒々とした瞳。
その虹彩の中で、光が幾重にも重なっている。
黒金剛石を連想する、とても静かな、瞳。
― 何だろう? ねぎらいという感じではないけれど。 ―
先輩は何も言わなかった。
ただ拳を握る。
大きく振りかぶって、その幼い体ごと、僕の鼻っ柱にたたきつけた。
先輩は、身体は小さいけれど、れっきとした村人だ。
拳だって、一般人の数倍以上の威力がある。
拳骨の先が、鼻骨を粉砕するのを知覚。
痛みよりも混乱が大きい。
― 何故、僕が鼻を砕かれる? この狐は、何をした? ―
先輩は僕の顔面から拳を引き抜き、同じ手で狐の襟首をつかんだ。
僕の鼻先に、彼女の鼻先がある。
「ふざけんじゃねえぞ、糞狐」
オリーブオイルの香りがする息が、僕の顔に熱くかかった。
狐は鼻から血を流す。
興奮ではない。
鼻骨を粉砕されたためだ。
血は唇、顎と順につたい、先輩の親指にかかる。
けれど、彼女は気にせず、
「仕事をなめるな。お前は期待外れだ」
と言い放った。




