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夜と拷問

 バルセロナの夜は(きり)湿(しめ)る。

 東に広がる地中海のせいだ。

 昼は陽気なこの街も、夜の8時を過ぎると、途端に静寂に包まれる。

 たまに、物憂げな汽笛が響くくらいだ。


 温暖な地中海性気候のこの街は、秋冬でも湿潤だ。

 雨は海から来る。

 潮風が、分厚い雲を運んでくるのだ。


 時折、その雲は紫色の稲妻を伴う。

 でも、その嵐が来る前に、風は冷ややかになる。

 相変わらず湿ってはいるけれど、とても静かな風だ。

 だからだろう。

 それは嵐の予感に満ちている。


「嵐がくるかもなあ」

 カーテンの隙間から、外の闇を(うかが)う先輩は、そう呟いた。

 一瞬、彼女の言葉の意図が分からなかった。

 だが、カタルーニャ語で呟いたので、麻薬売買人へのメッセージなのだろう。

 つまり、『嵐が来る前に帰りたいから、さっさと吐け』ということなのだ。


 売買人の方は悲惨だった。

 フライ、という映画みたいになっている。

 科学の失敗でできた、巨大な(うじ)蟲。


 灯りの消えた室内。

 カーテンから差し込む月光。

 男の長袖シャツの白さ。

 そういった全てが、男の惨状に、蝿の幼虫に近い印象を抱かせるのだろう。


 彼が横たわるベッドは、スプリングが小刻みに作用する。

 それは、男の痙攣に合わせて。


 彼の周囲に飛び散った色々な物も、ふるいにかけられたみたいに、好き勝手に動く。

 この色々な物の詳細は、あまり考えない方がいい。

 語る僕ですら、嘔吐を感じる。

 まあ、これは狐の特性かもしれない。


 まあ、ちゃんと彼の状態を述べようとするのなら、こんな感じになるだろう。


 鼓膜はかろうじて、音を受容しているが、耳はどちらも吹き飛んでいる。

 いや、耳だけではない。

 右手の指の先が全て消えうせて、白い骨が露出していた。

 (やすり)を連想させる断面は、黒く焦げている。

 西洋人特有の高い鼻先も、半分が(えぐ)れていた。

 膝小僧も、両肘も、踵も全て、あるべき丸みという物が喪われて、へこんでいた。

 

 その凹みかたが、あまりにもくっきりとしていたので、僕はジェラート屋を思い出す。

 ランブラス通りにある人気店だ。

 ココナッツミルクのジェラートが美味だった。

 けど、しばらくは、ラズベリー味は遠慮したい。

 ダークチョコレートも。

 そう思わせられるほど、見事なくりぬき方だった。


 まあ、志骸先輩は凄腕の爆弾魔である。

 これくらいの芸当は普通なのだろう。

 彼女のナノ爆弾は、光の球として、あらゆる物をくり貫く。


 対する売買人も、中々見事だった。

 彼は苦痛にのたうち回りながらも、耐え切ったのだ。

 舌を噛み切ったり、ご近所さんに迷惑な悲鳴をあげないように、布は口に詰め込まれている。

 だがそれだけだ。

 麻酔は一切ない。

 注射器に仕込んだヘロインだって、打ちそこねていた。

 

 こんな悪夢の中で、彼は告白を拒み続ける。

 痛みに、衝撃に、欠損に顔面を歪める、視線の奥には呪怨があった。


 彼はカタルーニャ人だ。

 おそらくカソリック教徒だろう。

 自分を、殉教した聖人とでも重ねているのだろうか。

 

 まあ、どういう趣味の陶酔にせよ、骨太な男は尊敬に値する。

 


「先輩、いいですか?」

「ん?」

 肩越しに、先輩は振り返った。

 黒のロングジャケットの線は華奢だ。

 が、月光を反射する光沢が不吉である。

 僕は、努めて冷静に言う。


「彼は限界です。つまり、そろそろ死にます」

「そうか」

「治療させてください」

「ああ、勝手にしろよ。電気、()けるか?」

「お任せします」

 実際、どちらでも良かった。


 志骸先輩は、こちらを振り返った。

 そのまま僕の方向に歩いてきて、ベッド傍のリモコンを拾い上げ、スイッチを押す。


 室内に光が回復した。

 全ての物体の輪郭が、くっきりとする。


 長い方形の床は、フローリングが所々黒く腐っている。

 玄関から入ったコの字の空間には、左側の壁沿いに、ペネデスの瓶が3本床置きされている。

 ペネデスはスペインの白ワインだ。

 1本は口が開いている。

 隣にアグアという、ミネラルウォーター。

 

 アンモニア臭の原因が分かった。

 赤紫色の米粒たちが、酒瓶横に密集している。

 簡単に言うと、この男はパエリアを吐いたのだ。

 吐しゃ物は臭う。


 これと、簡素な流し台横のチーズの塊が、壮絶な異臭を放っている。

 チーズは半分が溶解して、黒いカビにまみれている。


 右側奥は、男のベッド。

 その奥に緑の遮光カーテンがある。

 志骸先輩はここから外を覗いていた。


 右の出口側には5段の洋服棚。

 その上に、綺麗に折りたたまれた白シャツと、ネクタイ。

 ネクタイは赤と茶色のひし形で構成される幾何学模様。いわゆるアーガイルチェックだ。

 この隣に、写真立てが、小さく佇んでいる。


 家族連れ。

 淡い緑の木漏れ日の中で、夫と妻と小さな娘が、白い歯を見せている。

 夫妻の目元は黒マジックで消されている。

 無垢なのは娘だけだ。


 夫はこの男である。

 写真に収められているのは、麻薬に関わる前の輝かしい記憶なのだろう。

 そして、痛みでもある。

 

 当たり前だ。

 人間は記号ではない。

 生まれ、育ち、交わり、木漏れ日を歩く。

 そして何かの弾みで、堕ちる。

 さらに運悪くすると、僕らみたいな災いに遭遇するのだ。


 

 僕は男の膝下に、手を差し入れた。

 男は仰向けに悶えていたが、大した抵抗は無かった。


 そのまま膝を立てさせる。

 綺麗な三角ができた。


 膝と肩に手を置いて、こちらに向かせる。

 側臥位、横向きに寝る姿勢だ。


 これは、目を合わせるために必要な事である。

 

 僕はサングラスを外し、男の目を覗き込む。


 彫りの深い目の窪み。

 その奥の瞳は、とても暗い。


 男の両手を取る。

 指がたくさん欠けて焼けた骨たちが剥き出しのそれは、ざらざらしている。

 

 僕は包むようにしたのだけど、彼はのけぞった。

 痛いだろう。

 可哀想に。


 一度呼吸をして、彼に語りかける。


「……あまり、怖がらないで欲しい。いや、順番が違う、な。まず僕は謝らないといけないんだ。僕ときた彼女は君の節々を爆破したけど、やりたくてやった訳じゃない。仕事なんだ。これはただの仕事だからね。何の恨みもない。今晩の仕事は僕がお願いしたんだ。誰かの不幸を選ぶ必要があった。僕は、君たちの不幸を選んだ。だから、これは僕の、ささやかなお詫びだ」

 長い言葉だった。

 でも、その一言一句に心を込めた。

 もちろんこれは偽善だけれども、彼の治癒を望む想いに、偽りは無いからだ。


それが僕の血に受け継がれた、狐の特性である。

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